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二枚の田

天文17年(1548年)、春。

佐吉への返事が、甚兵衛の荷に収まって旅立ちます。

そして藤丸は、秋にまいた「もう一つの種」を見に行きます。

 甚兵衛じんべえ安芸あきへ発ったのは、桜の花びらが屋敷の庭にも流れてくるようになった朝だった。


「お文、確かにお預かりいたしました」


 振り分け荷の奥に、油紙で包んだ文を収めて、甚兵衛は胸のあたりを軽く叩いてみせた。三度書き直した、佐吉さきちへの返事だ。


「頼む。……返事は、急がずともよいと、それも伝えてくれ」


「はい。では、行ってまいります」


 小さくなっていく背を、藤丸ふじまるは門の外まで出て見送った。あの文は、二日の道を行って安芸へ着く。佐吉が読むのはその先で、返事が戻るのは、さらにその先だ。いつになるかは、分からない。


(届いてから、考えればいい)


 藤丸は屋敷へ戻りかけて、足を止めた。今日は、行くところがあった。


*  *  *


 太助たすけの村へ着くと、あぜの上に人が集まっているのが遠くから見えた。太助と、若い衆が二人。三人とも、こちらに背を向けて、田を見下ろしている。


「藤丸様。ちょうどよいところへ」


 振り返った太助の顔は、日に焼けて、少し笑っていた。


「見てくだされ。麦が、伸び始めましてな」


 二枚の田は、畔を一本はさんで並んでいる。秋に同じ日に種をまき、冬に同じだけ麦踏みをして、手入れはひとつ残らず揃えた、あの二枚だ。


 その二枚が、もう、同じではなかった。


 畔から見て右の田――ゆるい傾きがあって、雨のあとの水が早く抜ける方の田は、麦の丈がわずかに高く、葉の青も濃い。左の田は、それより少し低く、色も浅い。並べて見なければ気づかないほどの差だが、並べて見れば、誰の目にも分かる差だった。


(右だ。変えたのは場所ひとつで、あとは全部揃えた。差が出たなら、差のもとは場所のほうにある)


 朝の光の中で、藤丸はそう思った。理屈は通っている。通っているから、迷いもしなかった。


「右の勝ちじゃな」


 若い衆の一人が、明るい声で言った。


「秋にまいた時は、どっちも同じに見えたに。もう差がついた。刈るまでもねえ」


「たわけ」


 太助の声は、笑ったままだったが、短かった。


「春に背の高い麦が、刈る時に、実をようけ付けとるとは限らん。丈ばかり伸びて、穂の軽い麦もある。わしは、そういう麦を何度も見てきた」


「けんど、太助さん」


「差が見えたのと、答えが出たのは、違うことよ。答えは、刈って、量って、それからじゃ」


 若い衆は、まだ少し不服そうな顔をしていたが、黙って頷いた。


 藤丸は、頷かなかった。頷けば、若い衆を叱る側に立つことになる。だが自分は、たった今、その若い衆と同じことを思ったばかりだった。声に出さなかっただけだ。出さなかったのは慎んだからではなく、誰にも訊かれなかったからにすぎない。


 太助が藤丸の方へ向き直って、少しだけ声を落とした。


「――とは言うたものの、藤丸様。わしも正直、右が強いのではないかと、思うてはおります。雨のあと、右の田は水がすっと引く。左は、いつまでもじくじくと残る。麦は、どうも足元の濡れを嫌う作物のようで」


「濡れを、嫌う」


 藤丸は、思わず聞き返した。つい先日、同じ言葉をどこかで聞いた。濡らすな。濡れたら駄目になる。――名を言わぬ、石の荷。


(いや、あれとこれとは、関わりのない話だ)


 頭に浮かんだものを、藤丸はいったん脇へ置いた。ただ、麦が濡れを嫌うという話そのものは、ちょうに書いておくべきことだった。


「太助。今の話、覚えておきたい。雨のあと、右は水が早く引き、左は残る。それで、間違いないか」


「へえ。この春だけでも、二度、三度と見ました」


「では、これからも雨のたびに、見ておいてくれ。どちらが先に乾くか。それと、麦の伸びと」


「承知しました。……なるほどのう。丈を見るだけでなく、水の引き方も並べて見ておけば、あとで答え合わせができるわけですな」


 太助は、自分で言って、自分で頷いた。若い衆二人が、その横で顔を見合わせていた。


 畔を下りながら、藤丸は太助の背を見た。この男も、右が強いと思っている。思っているのに、それを答えの側へは置いていない。


*  *  *


 太助の村を出て、藤丸はそのまま平六へいろくの山へ向かった。ふもとで落ち合う約束を、前から取り付けてあった。


「見ても、何もありませんぞ」


 山道を先に立って歩きながら、平六は笑った。


「冬に仕込んだばかりの木です。春に椎茸しいたけが出るはずもない。答えは、早くて来年の秋。それは、藤丸様が一番ようご存じのはず」


「知っている。それでも、見ておきたい」


 杉木立を抜けた先の、日の差し方がゆるい斜面に、その木々は並べてあった。組ごとに間を空けて、静かに横たわっている。


 藤丸はしゃがんで、手前の一本の端に指を当てた。削られた筋が、二本。傷をつけていない朽ち木の組だ。冬に、この男がなたの先で思いついた印である。雪をかぶっても分かるように、と言っていた。雪はもう消えていたが、こけの下でも、削り筋は指でたどれば分かった。


 一本筋。二本筋。筋なし。三つの組は、どこも取り違えられずに並んでいた。


 平六の言うとおり、何もなかった。椎茸のかけらも、兆しらしい兆しもない。木は冬に見た時と同じ顔で、ただ湿った土の上に横たわっているだけだった。


 それでも藤丸は、一組ずつ、端から順に見て回った。木の皮の色。地面への沈み方。苔のつき始めた場所。どれが何の役に立つのかは、分からない。ただ、今日の姿を覚えておかなければ、次に来た時、何が変わったのかが分からなくなる。


「平六。ひとつ、頼みがある」


「へえ」


「雨の多い月と少ない月で、木の湿り方がどう違うか、時々でよいから見ておいてくれないか。太助の田で、水はけの良い方の麦が伸びている、という話が出た。山の木も、濡れ方で違いが出るのかもしれない」


 平六は、あご無精髭ぶしょうひげを撫でて、しばらく考えていた。


「……椎茸は、乾ききった木にも出ませんが、水に浸かりきった木にも出ません。ほどほどに湿って、ほどほどに乾く。そのあたりが良いように、昔から思うてはおりました。ただ、田の麦とは、あべこべかもしれませんぞ。麦は濡れを嫌うと言うなら、椎茸は、濡れがなければ育たん」


「あべこべでも、構わない。嫌うものと、好むもの。両方分かれば、両方書ける」


「はは。書くことばかり増えますな」


 平六は笑って、それでも「承知しました」と請け合った。


*  *  *


 山を下りる道で、藤丸は指を三つ折った。


 麦の答えが出るのは、刈る頃。夏の初めだ。椎茸の答えは来年の秋で、一年半も先になる。佐吉の返事は、いつになるかも分からない。


 三つとも、種をまくところまでは終わっている。あとは待つだけ、という点では同じだ。だが、待つ長さが、まるで違う。数か月で答えの出るものと、年をまたぐものと、いつと知れぬものが、同じ一冊の帖の中に、隣り合って並ぶことになる。


 早い答えが出た時、遅い方を忘れてしまわないだろうか。逆に、遅い方ばかり気にして、目の前の早い答えを見落とさないだろうか。


 どうすればよいのかは、思いつかなかった。折った指を、藤丸はそのまま開いた。


*  *  *


 日は西に傾き始めていた。


 帰り道、藤丸は太助の村の外れで足を止め、もう一度だけ、二枚の田を畔の上から眺めた。


 差が、なかった。


 右も左も、同じ色に見えた。麦の丈も、どちらが高いのか分からない。日が西へ回って、低い光が田の面を斜めから撫でている。朝と違うのは、光の来る向きだけだった。


 朝、この同じ場所に立った時、自分は右だと思った。理屈もあった。変えたのは場所ひとつ、あとは全部揃えた。だから差のもとは場所にある――そこまでは、たぶん、間違っていない。


 間違っていたのは、その先だ。


 差があるということと、その差が答えだということを、自分は続けて考えた。続けて考えてよいだけの裏づけは、どこにもなかった。あったのは、朝の光の中で目に入った、丈と色の違いだけだ。


 そしてその違いは、いま、消えている。


(量る前に、答えを決めていた)


 太助も、右が強いと思うと言った。同じことを思っていたのだ。だが太助は、それを「思うております」の側に置いたきり、そこから動かさなかった。刈って、量って、それからじゃ、と繰り返した。


 同じものを思って、置いた場所だけが違う。若い衆を叱ったのは、たぶん、そこだった。


 藤丸は、二枚の田を揃えた時のことを思い出した。


 種をまく日を揃え、麦踏みの回数を揃え、変えるものを場所ひとつに絞った。揃えねば比べられないからだ。そこまでは、間違えていない。


 だが、揃えていないものが、一つあった。


 見る側だ。


 朝に見て、夕に見た。光の向きが変わっただけで、差は出たり消えたりした。田は何も変わっていない。変わったのは、こちらの立ち方のほうだった。二枚を揃えておきながら、それを見る目の側は、来た時のなりゆきに任せていた。


 次からは、ときを決めて来よう、と思った。日の高いうちの、同じ頃合いに。雨の翌日かそうでないかも、決めておく。そうして初めて、前に見たものと今日見たものを、並べられる。


 揃えるものは、田だけではなかった。


 それだけが、今日、決まったことだった。


 残りは何も決まっていない。麦の答えは夏の初め、山の答えは来年の秋、安芸からの返事はいつとも知れず、三つが同じ帖の中で待っている。その扱い方は、山を下りる道でも、今も、思いつかないままだ。


 畔の下で、丈の差の溶けた麦が、風に揺れていた。藤丸は、それをしばらく眺めてから、屋敷への道を歩き出した。


今回の豆知識を少し。


■麦は「濡れ」を嫌う

麦は稲と違って、根が水に浸かった状態(湿害)にとても弱い作物です。同じように種をまいても、水はけの良し悪しで生育に差が出ます。水田の裏作で麦を作る場合、いかに水を抜くかが昔から大きな課題でした。太助の二枚の田の差は、この「水はけ」から生まれています。


■椎茸は「濡れ」が好き

一方の椎茸は、ほどよく湿った木でないと育ちません。乾きすぎても、水に浸かりきってもだめ。平六の言う「あべこべ」です。同じ「水」でも、作物によって毒にも薬にもなる――藤丸の帖が、また少し厚くなりました。


■麦の収穫は「夏の初め」

麦の刈り入れは旧暦の四〜五月頃。初夏なのに「麦の秋」と書いて「麦秋ばくしゅう」と呼ぶのは、麦にとっての実りの季節だからです。二枚の田の答え合わせは、そう遠くありません。


次回もよろしくお願いいたします。

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