佐吉の問い
年が明けて天文十七年。藤丸、十歳の最初の一手は、会ったことのない相手への「問い」でした。
松の内が明けて、屋敷は普段の顔に戻った。餅の匂いが消え、廊下を行き交う足音が、いつもの速さに戻っていく。
藤丸は、父・昌源の間に、自分から願い出た。
「佐吉に、年始の文を出しとうございます」
昌源は、文机から顔を上げ、少しの間、藤丸を見た。
「良かろう。……して、何を贈る」
「それが、まだ決まりません」
正直に、そう答えた。昌源は、笑いもせず、咎めもしなかった。
「決まったら、持ってまいれ。急ぎはせぬ」
それだけ言って、また文机に戻った。急がぬ、だが忘れもせぬ。父のその構えは、年が替わっても、変わっていなかった。
* * *
自室に戻っても、考えはまとまらなかった。
紙は、暮れに贈った。しかも佐吉は、あの束を一年と二月ぶんと数え、二月ぶんは書き損じに充てる、と書いてよこした。同じ物を重ねて贈っても、あの返事の先には届かない。かといって、上等な品に替えれば、こちらの見栄になるだけだ。
(会うたこともない相手に、二度目は、何を贈ればよいのだろう)
縁側に出ると、お咲が干し物を取り込んでいた。藤丸は、独り言のつもりで、その迷いを口にした。
お咲は、手を止めずに、少し考えてから言った。
「わたしは、父が旅から物を持ち帰ってくれるのも嬉しゅうございますが……それより、帰ってきて『留守の間、家はどうであった』と聞かれるほうが、嬉しゅうございました」
「聞かれるほうが」
「はい。物は、渡せば終わりです。けれど、問われると、こちらのことを覚えていて、知りたいと思うてくれているのだと、分かりますから」
お咲は、それだけ言って、畳んだ干し物を抱えて奥へ入っていった。
藤丸は、縁側に残って、その言葉を胸の中で転がした。
(物ではなく、問いを贈る)
考えてみれば、思い当たることがあった。暮れの帖を綴じ直したとき、一昨年の霜と、去年の霜を、並べて比べられなかった。それで今年から、一年を一冊にすることに決めた。だが、寺というところは、自分などよりずっと昔から、帳を付け続けているはずの場所だ。
佐吉は、その蔵の帳場を、四年任されているという。
何年分の帳が、残っているのだろう。年と年を、どうやって見比べているのだろう。それは、間を持たせるための問いではなかった。藤丸自身が、いま本当に知りたいことだった。
* * *
贈る物は、白い冊子を一冊、と決めた。
文吉の店で選んだ、飾り気のない、けれど綴じのしっかりした一冊。自分が年の初めに文机に置いたものと、同じ作りのものだ。
文面は、何度か書き直して、こう定めた。
――年の初めより、一年を一冊に綴じ、年ごとに残すことにいたしました。寺の帳は、何年分残っておりますか。年と年を、どのように見比べておられますか。この一冊は、そのお尋ねの印にございます。
読み返すと、贈り物の添え状というより、教えを乞う文に近かった。だが、それでいいと思えた。数える者には数字で応えた。ならば、続けてきた者には、問いで応えるのが筋だろう。
父の間に持っていくと、昌源は文面に、ゆっくりと目を通した。
「……物を贈って、教えを乞うか」
「おかしいでしょうか」
「いや」
昌源は、文を畳んで返した。
「物だけなら、施しになる。問いだけなら、厚かましい。両方を重ねたのは、悪くない」
数日ののち、行商の甚兵衛が、安芸へ発つ日が来た。冊子と文を包んだ荷を受け取り、甚兵衛はいつもの柔らかい物腰で頭を下げた。
「藤丸様。春の走りの安芸は、ようございますよ。……お返事、楽しみにお待ちくださいませ」
冬の名残の風の中を、甚兵衛の背が小さくなっていくのを、藤丸は門の内から見送った。
* * *
甚兵衛が戻ったのは、梅の蕾がほころび始めた頃だった。
「藤丸様。安芸より、戻りましてございます」
返書は、父の間で開いた。住職からの丁重な礼状に添えて、佐吉の手になる文が一枚。前よりも、少しだけ長い文だった。
――冊子、確かに頂戴いたしました。お尋ねの儀、お答え申し上げます。当寺の蔵の帳は、三十七年分が残っております。
三十七年。藤丸は、その数字に、まず息を呑んだ。自分が生きてきた年月の、何倍もの厚みが、あの寺の蔵には積んであるのだ。
だが、文の続きは、藤丸の思いもしない方へ進んだ。
――ただし、三十七年分があっても、見比べられるのは、そのうちの一部にございます。帳は、書く者が代替わりいたします。前の帳場の方と、その前の方とでは、書き方が違います。米の量を升で書く方、俵で書く方、納めた者の名を先に書く方、品を先に書く方。書き方の違う帳は、並べても、すぐには比べられませぬ。それがしが迷いなく見比べられるのは、それがし自身が書いた四年分だけにございます。
藤丸は、文面から目を上げられなかった。
(残すことと、比べられることは、別なのか)
年ごとに一冊。並べて、比べる。あの晦日の晩の思いつきを、自分は良い手だと思っていた。だが佐吉は、その先を知っていた。冊子が何冊積み上がっても、書き方が揃っていなければ、それはただの紙の山になる。三十七年分の帳を前にして、四年分しか使えない――続けてきた者だけが知る、痛みのような実感だった。
そして、文の末尾に、それはあった。
――つきましては、それがしからも、一つお尋ね申し上げます。あなた様の帖は、書き始めの頃と今とで、書き方は同じにございますか。
藤丸は、しばらく、動けなかった。
同じでは、なかった。
初めの頃の帖には、ただ見聞きしたことを書き連ねていた。途中から「聞」と「見」の区分を思いつき、書き添えるようになった。さらに後になって、出所が二つ重なった話に「二筋」と記す工夫を加えた。良くなった、と思っていた。工夫を重ねるたびに、帖は使いやすくなったと思っていた。
だが、それは裏を返せば、書き始めの頃と今とでは、もう同じ書き方ではない、ということだった。いつか三冊、五冊と並べて比べようとしたとき、迷いなく見比べられるのは、書き方の揃った分だけになる。
(会うたこともない相手に、また、痛いところを突かれた)
昌源が、黙って手を差し出した。文を渡すと、父はゆっくりと読み、読み終えてから、短く言った。
「……問いに、問いで返してきたか」
「はい」
「施しでも、値踏みでもないな。これは」
昌源は、文を畳んで藤丸に返した。
「文の行き来が、これで三度。会わぬまま、ようここまで来たものよ。……返事は、急がずともよい。だが、いい加減に返すな。向こうは、お前の返しを見ておるぞ」
* * *
部屋に戻る途中、廊下で親直と行き会った。
親直は、藤丸の手の中の文に、ちらりと目をやった。
「安芸の、例の者か」
「はい」
「良い返事だったか」
藤丸は、少し考えてから、答えた。
「痛いところを、突かれました」
親直は、ふ、と短く笑った。
「……ほう。お主に痛いところを突ける者が、おったか」
それだけ言って、行き過ぎようとした足を、一度だけ止めた。
「藤丸。正月に言うたことを、覚えておるか」
「便利な子は、便利なうちは可愛がられる、と」
「うむ。……だが、痛いところを突き合える相手は、その勘定の外よ。得も損も、あるまい」
どういう意味か、と問い返す間もなく、親直は廊下の向こうへ歩き去った。忠告のようでもあり、独り言のようでもあった。ただ、今度は、値踏みの色は薄い気がした。
* * *
縁側に出ると、日はもう西に傾きかけていた。庭の梅が、白いものを一つ二つ、開き始めている。
お咲が、湯呑みを運んできた。
「お返事は、いかがでございましたか」
「問いには、答えてくれた。……そして、向こうからも、問いが来た」
「まあ」
お咲は、目を丸くして、それから、嬉しそうに笑った。
「では、次は藤丸様が、お答えになる番でございますね」
答える番。その言い方が、藤丸には、妙に心地よかった。
贈って、返って、問うて、問われる。順番が巡ってくるたびに、会ったことのない相手の輪郭が、少しずつ、はっきりしてくる。三十七年の帳の前に立つ、自分より三つ四つ年嵩の誰か。書き方の揃わぬ古帳に手を焼き、それでも四年分を、迷いなく揃え続けてきた誰か。
湯呑みの中で、湯気が細く立ちのぼっていた。
答えの文には、正直に書こうと思った。同じではありませんでした、と。そこから先を、どう書くか――それを考える時間が、藤丸には、もう楽しみになり始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
贈り物の返礼で紙の枚数をぴたりと言い当てた佐吉。今回、藤丸は物ではなく「問い」を贈ることにしました。返ってきたのは、答えと、そして初めての問い返し。文だけの付き合いが、少しずつ形を変えていきます。
次回もお楽しみに。




