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甚兵衛の世間話

甚兵衛、二度目の安芸行。今度の指図は「急がず、世間話だけで構わぬ」。

蝉の声が、変わっていた。


夏の盛りを埋めていた蝉の声に、つくつくぼうしの声が混じり始めている。甚兵衛は、安芸の山道を登りながら、その声を聞いた。


(もう、夏も終わりに近いか)


手には、いつもの干した小魚のほかに、岡豊の紙を数枚、丸めて提げていた。寺というものは、紙はいくらあっても困らぬところだ。文吉の店で分けてもらった、売り物にならぬ端の紙だが、土産にはちょうどよかった。


今度の用向きは、前よりも軽い。


――急がず、世間話だけで構わぬ。


昌源様の指図は、それだけだった。何を聞き出せとも、何を確かめよとも言われていない。だが甚兵衛には、それがかえって難しい注文にも思えた。用のない話ほど、人の器量が出る。話す側も、聞く側も。


山門をくぐると、境内けいだいほうきの音がしていた。


*  *  *


箒を使っていたのは、佐吉だった。


本堂の前を、隅から順に掃いている。落ち葉の少ない季節だから、掃くものは大してない。それでも、箒の筋は乱れず、同じ幅で土の上に並んでいた。


「精が出るな」


甚兵衛が声をかけると、佐吉は手を止めて、頭を下げた。


「これは……先だっての」


「甚兵衛と申す。また安芸に用があったのでな、寄らせてもらった」


住職は檀家だんかの弔いで留守だと、佐吉は言った。甚兵衛は、それならそれで構わぬと、土産の紙と小魚を本堂の縁に置き、自分もそこへ腰を下ろした。


「少し、休ませてもらうぞ。年寄りの足には、この坂はこたえる」


佐吉は、どうぞ、とも言わず、かといって迷惑がるでもなく、箒を軒下に立てかけた。それから、少し離れた縁の端に、自分も浅く腰を掛けた。客を一人で放っておくのは非礼だと、わきまえているらしい。


「今日は、算用はよいのか」


「朝のうちに、済ませました」


「早いな」


「品の出入りが、少ない時季ですので」


それきり、話が途切れた。蝉の声だけが、境内に満ちた。


甚兵衛は、急がなかった。商いの座でも、こういうはよくある。埋めようと焦った者から、損をしていく。


やがて甚兵衛は、誰に語るともなく、話し始めた。


「わしはな、若い頃から、荷を担いで方々を歩いてきた。土佐の中だけでも、東はこの安芸の浜から、西は名も知らぬ山あいの在所まで。同じ国とは思えぬほど、所によって暮らしが違うものよ」


佐吉は、黙って聞いていた。


「面白いのはな、物の値よ。同じ干し魚が、浜では捨て値も同然、山へ持って行けば米と替えてもらえる。塩など、山奥では宝のように扱われる。品は同じでも、値は所が決める」


甚兵衛は、世間話のつもりだった。長い行商暮らしの、誰にでもする話だ。


だが、そこで、思いがけないことが起きた。


「……それは」


佐吉が、口を開いたのだ。


「浜と山のあいだで、値がいくつも変わるのでございますか。それとも、境目のようなところが、どこかにあるのでございますか」


甚兵衛は、思わず佐吉の顔を見た。


この子が、こちらの話の中身に踏み込んで問うたのは、初めてだった。


先だって蔵で会うたときも、問われはした。何かお調べになりたいことが、と。だがあれは、用を確かめる問いだ。頼まれごとを待つ側の口が言う。


今のは、違う。


*  *  *


「境目、か」


甚兵衛は、少し笑った。


「よいところを聞くな。境目は、あるといえばある。浜の魚が山へ行く途中、峠の村がひとつある。そこの値が、だいたい真ん中よ。峠より浜側なら魚は安く、峠を越えれば高くなる」


「では、その峠の村で商いをすれば、双方の値が読めるのでございますね」


「……お前さん、商人の子か」


冗談のつもりだったが、佐吉は首を横に振った。


「いえ。ただ、蔵の帳面と、同じだと思いましたので」


「帳面と」


「蔵の品は、入る数と出る数を見ていれば、いま蔵に何があるかは、数えずともわかります。峠の村の値がわかれば、浜と山の値も、行かずともおおよそ見当がつくのではないかと」


甚兵衛は、縁に置いた紙の包みを、意味もなく置き直した。


行商を四十年やってきて、体で覚えたことだった。それを、この子は縁側に座ったまま、言葉にしてみせた。


「……その通りよ。わしらは、それを足で覚える。お前さんは、頭で先に見えるらしいな」


佐吉は、褒められたことに気づいていないのか、まだ何かを考える顔をしていた。それから、ぽつりと言った。


「蔵の中は、もう、数え尽くしました」


「ん?」


「米も、乾物も、油も、道具も。どこに何がいくつあるか、みな帳面に入っております。ですが、いま伺った峠の話のようなものは、この寺の帳面には、載っておりませぬ」


声の調子は、いつもと変わらなかった。だが甚兵衛は、その言葉の底に、初めて、乾いていないものを聞いた気がした。


「外の数を、数えてみたいか」


佐吉の目が、わずかに揺れた。先だって、「望むことは」と聞いたときと、同じ揺れだった。だが今日は、すぐには元に戻らなかった。


「……数えられるものなら」


それだけ言うと、佐吉は縁から立ち上がり、軒下の箒を取った。話は終わりだ、という背中だった。


甚兵衛も、それ以上は追わなかった。


(今日は、これで十分だ)


わしの出入りする家にもな――と、喉まで出かかった言葉を、甚兵衛は呑み込んだ。書き留めることの好きな御方が、もう一人おられるのよ、と。だがそれは、まだ、わしの口から言うことではない。


「邪魔をしたな。また寄らせてもらう」


佐吉は、箒を持ったまま、深く頭を下げた。


*  *  *


「――峠の値、と申したか」


昌源は、報告の途中で、初めて口を挟んだ。


「は。行かずとも見当がつくのではないか、と。わしが四十年、足で覚えましたことにございます。あの子は、縁に座ったまま、それを申しました」


甚兵衛は、包み隠さずそう言った。昌源は、腕を組んだまま、しばらく黙っていた。


「望みのほうは、どうであった」


「『蔵の中は、数え尽くしました』と。外の数を数えてみたいかと問いましたら、『数えられるものなら』と、それだけ」


「……先だっては、『今は』であったな」


「は。今度は、『数えられるものなら』と」


昌源は、小さく頷いた。


「望みがないのではない。望んでよいものが、あの子の周りに、ないだけのことよ」


そう言って、昌源は文机のほうへ向き直った。


「大儀であった。下がってよい」


甚兵衛が頭を下げて部屋を出るとき、背中の向こうで、すずりを引き寄せる音がした。


廊下を少し進んでから、甚兵衛はふと足を止め、振り返った。障子の内で、昌源が筆を執っている。先だっては、何も書かれていない紙を、ただ見つめておられた。今日は、違う。


(住職への、文か)


誰に宛てた文かは、聞いていない。聞かずとも、知れたことだった。


廊下の先で、つくつくぼうしが鳴いていた。夏が、終わろうとしていた。


お読みいただきありがとうございます。

用のない話ほど、人の器量が出るものです。

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