藤の方の帯
夏の岡豊で、藤丸は太助・平六とともに「待つこと」の意味を確かめ、母・藤の方の部屋では、お咲の小さな積み重ねが思いがけない形で役に立ちます。
蝉の声は、まだ盛りのままだった。
藤丸は太助とともに、あの二枚の田の畔に立っていた。先日の雨のあとで、土の色がまだ濃く残っている。
「藤丸様、こっちを見てくだされ」
太助が指したのは、水の引きやすい方の田だった。雨の翌日にしては、水溜まりがほとんど残っていない。もう一枚の田には、まだ畔際に水が光っていた。
「こっちの田は、もう乾きかけとる。あっちは、まだじっとり湿っとりますな」
藤丸は帖を取り出し、「雨の翌日、水の引き方に差が出た」と書き加えた。書きながら、ふと気になって尋ねた。
「これで、麦に向く田が、決まりましたか」
太助は、笑って首を振った。
「いや、まだですわ。今年の雨が、たまたまこうだったのかもしれませんきに。二年で決めると言うたんは、わしですけんど、一度の雨で覆すような決め方はいけません」
「では、今日のことは、無駄になりますか」
「無駄ではございませんよ。二年分の中の、一日分が増えただけのことで」
「太助殿は、いつから、こうして二つを並べて見るようになったのですか」
太助は、少し懐かしむような顔をした。
「若い頃は、一度うまくいかんかったら、すぐに諦めとりましたわ。あの年は運が悪かった、それだけのことにしてしまって。同じ間違いを、何度も繰り返しとった気がします」
「今は、違うのですか」
「今は、一度だめでも、なぜだめだったかを、並べて見るようにしとります。藤丸様に教わってからは、なおのことで」
太助はそう言って、また畔を見渡した。藤丸は、その横顔を見ながら、帖の同じ行に、もう一筆加えた。
――一日分の差。二年分のうちの一つ。書いておけば、この一日は、二年目まで消えずに残る。
書き終えてから、藤丸は妙に落ち着いた気持ちになった。急いで答えを出さなくてよいのだと、改めて分かった気がした。
* * *
帰り道、藤丸は平六と行き会った。背に荷を負い、山から下りてきたところだった。
「平六、山の様子はどうですか」
「ちょうど良いところで。先日、藤丸様にお話しした、傷をつけた木を見てまいりました」
「何か、変わりましたか」
平六は、首を横に振った。
「いえ、まだ何も。傷の跡は塞がってきておりますが、椎茸らしきものは、影も形もございません」
「そうですか……」
「気落ちなさることはございませんよ。木によっては、二夏、三夏かかることもあると、年寄りから聞いたこともございます。今年だめでも、来年があり、来年だめでも、再来年がございます」
藤丸は、その言葉に、小さく頷いた。
(太助殿の田と、同じだ)
一年で答えが出ないものを、今日一日で二つ、確かめただけだった。だが、それを「だめだった」と捨て置くのではなく、「まだわからない」と置いておく。その置き方を、平六も、太助も、同じように身につけているように思えた。
「来年も、木を増やしますか」
「へえ。今年傷をつけた木の数だけでは、当たりが出るかどうかも怪しいもんで。少しずつ増やしておけば、いつか当たりが出た時に、すぐ広げられますき」
「分かりました。何か変わりましたら、教えてください」
「承知しました」
平六は、荷を担ぎ直し、また屋敷の裏手へ歩いていった。藤丸は、帖に「椎茸、変化なし。来年も木を増やす」と書き加え、屋敷への道を戻った。
* * *
藤丸は、母・藤の方の部屋へ呼ばれていた。お咲も、すでにその場にいた。
「藤丸、ちょうどよいところに」
藤の方は、衣装を納めた長持の前に膝をついていた。
「先の祭りで仕立てた、お前の薄手の単衣。あれに合わせた帯を、どこへしまったか、忘れてしまって」
お咲が、すぐに懐から紙を取り出した。
「藤の方様。確か、五月の頃に、納戸の奥の櫃にお移しになったかと存じます。その時、繕いの順に並べ直した覚えがございますので」
紙には、品物の名と日付が、几帳面に並んでいた。お咲はその一行を指で辿り、頷いた。
「はい。納戸の、左手の櫃でございます」
藤の方は、少し驚いた顔をした。
「よく、覚えていましたね」
「覚えていたわけではございません。書いておいたものを、見ただけでございます」
お咲は、少し恥ずかしそうに答えた。藤の方は、その紙をしばらく見つめてから、藤丸のほうを見た。
「藤丸が、教えたのですか」
「はい。並べて書いておけば、後で困りません」
藤の方は、小さく笑った。
「お前の祖父も、よく似たことを申しておりました。書いたものは残る、忘れた頭は当てにならぬ、と」
藤丸は、その言葉に、少し胸を打たれた。母方の祖父・藤原昌綱――会ったこともない人の言葉が、こんなところで、自分のやっていることと重なっている。
「お祖父様も、こうして、何かを書き留めていたのですか」
「ええ。文だけではありません。家に誰が来て、何を持ってきたか。いつ、こちらから何をお返ししたか。そういうことを、日にちと並べて書いておられました」
藤の方は、少し可笑しそうに目を細めた。
「幼い頃、母が、なぜそのようなことまで書くのかと尋ねましたら、父はこう申しました。貰うたことは、誰でも覚えている。だが、いつ、いかほどのものを返したかは、みな忘れる。忘れたまま返せば、相手に恥をかかせるか、こちらが恥をかくか、どちらかだと」
「……はい」
「それから、もう一つ。よそへ出す文は、必ず一枚、写しを残しておられました。出してしまえば手元には何も残らぬ。あとで言うた言わぬになった時に、困るのはこちらだと申して」
藤丸は、思わず息を詰めた。
写しを一枚、手元に残しておく。お咲に紙を持たせた時、自分がしたのと同じことだった。誰に教わったわけでもなく、そうしておいたほうがよいと思って、そうした。
(会ったこともない人と、同じところで、同じことを考えていたのか)
藤の方は、そう言って、お咲の紙にもう一度目を落とした。
「お咲。これからも、続けてくれますか」
「はい。承知いたしました」
藤の方は、頷くと、立ち上がって長持の蓋を閉じ、あたりを片付け始めた。それから、その手を止め、お咲のほうを見た。
「お咲も、慣れぬ屋敷の中で、ずいぶん細かいことまで、よく気を配ってくれていますね」
「いえ、そのような……」
「些細なことではありません。気を配るというのは、見えにくいものです。誰も気づかぬところで、ずっと続けてくれていることを、私は知っています」
お咲は、何も言えず、ただ深く頭を下げた。
藤丸は、その様子を見ながら、ふと思った。
(自分のやっていることは、誰かから受け継いだもので、誰かに渡していくものでもあるのかもしれない)
太助の田に渡した見方。お咲が身の回りに広げた見方。そして、母の言葉から知った、会ったこともない祖父の手つき。同じ一つのやり方が、人の手から手へ移りながら、あちらでもこちらでも使われている。誰が始めたのかも、もう分からない。
部屋を出る前に、藤の方が藤丸を呼び止めた。
「藤丸」
「はい」
「近頃、よく外を歩いているようですね。顔が、少し焼けました」
「太助殿の田を、見に行っておりました」
藤の方は、それだけで満足したように、小さく頷いた。
「体に、気をつけなさい」
それだけだった。だが、藤丸には、それで十分だった。
部屋を出ると、夏の日差しが、廊下の先まで伸びていた。藤丸は、懐の帖を、そっと押さえた。
今回は、これまであまり描けていなかった母・藤の方との場面を増やしました。藤丸の「並べて書く」やり方が、実は母方の祖父から続く血筋でもあったという繋がりも、少しだけ見えてきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




