二つの便り
太助の「並べて比べる」やり方が、また一段深まります。同じ日、書院では、傅役探しの糸口が、ついに一つの名前にたどり着きます。
蝉の声は、まだ衰えていなかった。下田討伐から、十日ほどが過ぎている。
藤丸は太助とともに、田の畔を歩いていた。戦の支度で村から出した米の話は、もうどの村でも知らぬ者がいなかった。
「上分の村の方々から、借りた分は、来年の年貢から引かれると聞きました」太助が言った。「藤丸様のお考えだと、専らの噂でございます」
「父上が、決められたことです。私は、ただ紙を出しただけで」
藤丸はそう答えたが、太助は得心していない顔をしていた。
「ただの紙ではございません。誰の分を、どれだけ削るか――それを、揉め事にならぬよう決めるのは、容易うないことでございます」
藤丸は、それ以上は言わなかった。太助の言う通りだったが、口に出して認めれば、それもまた違う気がした。
畔を歩きながら、太助は懐から、小さな紙の束を取り出した。
「あれから、藤丸様に教わった通り、並べてみております」
紙には、田の名と、いくつかの目印が書き込まれていた。水の引きやすさ、土の乾きやすさ、これまでの作柄。太助なりの言葉で、書き留められていた。
「麦に向く田は、だいたい絞れてまいりました。ただ、二つだけ、どちらとも決め切れぬところがございまして」
太助が指したのは、隣り合う二枚の田だった。一枚は水が引きやすく、もう一枚は土が乾きやすい。どちらも麦には悪くないが、決め手になる差が見当たらないという。
「藤丸様なら、どちらを選ばれますか」
藤丸は、少し考えてから答えた。
「私には、わかりません。ただ――今年だけで決める必要はないのでは、と思います」
「今年だけで、ない、とは」
「両方で、少しだけ試してみては。来年、どちらがよかったか、また並べて比べれば、二年分の答えが出ます」
太助は、しばらく黙っていた。それから、ふっと笑った。
「なるほど。一年で決め切れぬなら、二年で決めればよい、というわけで」
「そう、急ぐものでもないかと」
太助は、紙を懐に戻した。その手つきに、迷いが減ったように見えた。
畔の先で、お咲が水桶を抱えて、こちらへ歩いてきた。藤丸たちを見つけて、足を止める。
「太助さんの控え、進んでおりますか」
「ええ、お咲様の真似事ですよ」太助が言った。「並べて、比べる。教われば、誰にでもできることでございました」
お咲は、少し驚いた顔をした。
「私のは、ただ気になったことを書き留めているだけです。太助さんのように、ちゃんと田の良し悪しまで見比べているわけでは」
「いや、それも、似たようなものでございます」太助は言った。「気になったことを、書いて、並べる。それだけのことで、見えなかったものが、見えてくる」
藤丸は、その言葉を聞きながら、内心で頷いた。
(自分が教えたつもりのことが、もう、太助さんの言葉になっている)
伝えたものが、誰かの中で形を変えて、また別の誰かに渡っていく。その動きが、藤丸には、何か温かいものに思えた。
日が傾きかけていた。畔の稲は、まだ青く、刈り入れにはほど遠い。藤丸は太助に礼を言い、屋敷への道を戻った。
* * *
書院では、昌源が文吉からの知らせを受けていた。窓の外では、まだ蝉が鳴き続けている。
「安芸の寺の件、文吉が戻ってまいりました」家臣の一人が告げる。
昌源は、文を片付ける手を止めた。
「通せ」
文吉は、紙商人らしい慎重な物腰で、書院の隅に膝をついた。懐から、薄い紙を一枚取り出す。
「お申し付けの通り、安芸の寺について、知る限りのことを集めてまいりました。多くは、行商の合間に聞いた話でございますので、確かなところは、まだ少のうございますが」
「申せ」
「寺で文字や算用を教える話は、以前、托鉢僧から伝わったものと、ほぼ同じでございました。ただ、その中に一人、少し違う噂のある子がおると申す者がおりました」
「違う噂、とは」
「元は、武家の子だったとか。家が、何かの折に立場を失い、寺に身を寄せたそうで。歳の頃は、十をいくつか過ぎた頃かと」
昌源は、わずかに目を細めた。
「武家の出で、寺に入った、か」
「はい。算用は、誰よりも早く覚えたそうにございます。ただ、名までは、私の聞いた限りでは、はっきりいたしませぬ」
文吉が言い終えたところで、廊下から声がかかった。
「甚兵衛が、戻ってまいりました」
昌源が促すと、文吉は一礼して下がり、代わりに甚兵衛が膝をついた。荷を運んできたばかりらしく、まだ草鞋の埃を落とし切っていない。
「先日のお申し付け、安芸の寺の件、確かめてまいりました」
「早いな」
「ちょうど、荷の用がございましたので、ついでに寄ってまいりました」
甚兵衛は、懐から手控えを取り出した。
「武家の子は、確かにおりました。名は、佐吉と申すそうで。元は、何年か前の一条家中の代替わりの折、立場を失った下級の武士の家の子だとか。父は、すでに亡く、母方の伝手で、あの寺に身を寄せたと聞きました」
昌源は、黙って聞いていた。一条家中の代替わり――その言葉に、何かが繋がる気がした。
「寺での評判は、どうか」
「算用に明るく、蔵の出し入れも任されておるとか。ただ、寺の外へ出たことは、ほとんどないそうで。寺の坊主たちにも、随分よくしてもらっておるようでございました」
「歳は」
「十二、三かと」
昌源は、しばらく黙っていた。武家の出で、家を失い、寺で算用を学んだ子。文吉の聞いた噂と、甚兵衛の確かめてきた話が、一人の名のもとに、ようやく一つにまとまった。
「よくやった」
昌源は、それだけ言って、手控えを受け取った。
「これより先は、急がぬ。すぐに会わせるわけにもいかぬ。まずは、その佐吉という子が、どういう性根の者か、寺の外でどう見られておるか、もう少し見ておきたい」
「左様でございますか」
「次に安芸へ行く折、寺の近くで、もう少し様子を見てきてくれ。本人と話す必要はない。遠くから、で構わぬ」
「畏まりました」
甚兵衛は一礼し、書院を下がった。
昌源は、一人残った書院で、手控えに書かれた「佐吉」の名を、もう一度見つめた。
(武家の出で、家を失った子、か)
藤丸に何が要るのか、まだ確かな形は見えない。だが、糸口は、名を持つところまで進んだ。
「次は、もう少し近くから見る、か」
それだけ呟いて、昌源は、手控えを文箱の奥に仕舞った。
今回、太助は二枚の田のどちらが麦に向くか決めかねる場面で、藤丸から「一年で決め切れぬなら、二年で決めればよい」という考え方を受け取ります。急がず試して、翌年また比べる――この姿勢が、太助の言葉を通して、お咲にも自然と伝わっていく様子が印象的でした。「気になったことを書いて並べる、それだけで見えなかったものが見えてくる」という太助の一言に、藤丸のやり方が確かに根付いていることが感じられます。
一方、書院では文吉と甚兵衛それぞれが集めてきた噂が重なり、「佐吉」という名の武家出身の子の存在が、初めて昌源のもとに届きました。急がず、まずは遠くから様子を見る――という昌源の慎重さも、これまでの人探しの姿勢と一貫しています。
藤丸の知らないところで進むこの糸が、この先どんな形で結ばれていくのか、楽しみにしていただければ幸いです。




