親信の槍
下田駿河守討伐のため、親信が初めての大戦へ出陣します。同じ「戦支度」を、藤丸は数字で、親信は槍で、親直は人の隙間で、それぞれ支える一話です。
蝉の声が、ますます重くなっていた。
藤丸は九つになっていた。親信は二十二、親直は十九、お咲は十四になる頃だった。
その日の朝、屋敷の空気が、いつもと違っていた。
使者が立て続けに出入りし、女中たちの足音が、いつもより早い。藤丸が廊下に出ると、父・昌源の間から、聞き慣れない言葉が漏れてきた。
「下田駿河守――」
藤丸は、その名を、初めて耳にした。
縁側で、お咲が小声で教えてくれた。
「東のほうに、下田というところがあるそうです。そこを治めるお方が、たいそう手強いとか」
「手強い、というのは」
「前に、近くの郷の者が攻め寄せたことがあったそうですが、却って打ち破られたとか。腕の立つ家臣を何人も召し抱えていて、迂闊に手を出せば、こちらが痛い目を見ると、父がよく申しておりました」
藤丸は、それを聞いて、黙って考えた。
(御館様が、東へ手を伸ばす番が、来たのか)
これまで、長宗我部の力が伸びていく話は、いつも机の上の数字や、商人のうわさ噂としてしか、藤丸の耳に届かなかった。今日は、違った。屋敷の中の空気そのものが、それを語っていた。
* * *
親信は、すでに具足を整えていた。
藤丸が部屋を覗くと、親信は鎧の紐を結びながら、いつもと変わらぬ顔をしていた。
「兄上」
「藤丸か」
親信は、紐を結ぶ手を止めずに答えた。
「出陣、なさるのですか」
「うむ。大津の天竺殿も、介良の横山殿も、すでに膝を折った。残るは、下田の駿河守殿のみ。討てとの、御館様の御下命じゃ」
「腕の立つ家臣を、何人も連れていると聞きました」
「うむ。以前、近くの郷の者が攻めて、却って打ち破られたという話も聞いておる。手強い相手と当たってこそ、こちらの武芸の真価も知れよう」
親信は、紐を結び終え、藤丸のほうを向いた。
「初陣以来、小さな小競り合いはいくつも経た。だが、これは違う。手強い相手と、正面から渡り合う番が、ようやく来た」
声に、これまでとは違う張りがあった。藤丸は、その顔を見上げた。
(この人は、まだ知らない)
いつか伊予で討死することを、親信自身は、まだ知らない。だが今、目の前にいる兄は、ただ前を見ていた。
「ご武運を」
それだけ、藤丸は言った。
親信は、ふっと笑って、藤丸の頭に手を置いた。
「案ずるな。わしは、まだ死なぬ」
その言葉が、いつもの兄の手の温かさとともに、藤丸の中に残った。
* * *
裏手の蔵では、昌源が文吏らと共に、兵糧の手配に追われていた。
藤丸が近づくと、昌源は紙の束を片手に、苦い顔をしていた。
「父上」
「今は、構うていられぬ」
「何を、お困りですか」
昌源は、一瞬、藤丸を見た。それから、紙を一枚、差し出した。
「出す米の量と、村ごとの蓄えが、噛み合わぬ《かみあわぬ》。急ぎ出すゆえ、誰がどれだけ持つか、すぐに数えねばならぬ」
藤丸は、その紙を受け取った。村の名と、数字が、いくつも並んでいた。
(これは――)
太助の田を見立てたときと、同じ形の紙だった。ただ、扱う数も、急ぎの度合いも、まるで違っていた。
「並べて、比べてもよろしいですか」
昌源は、わずかに目を細めた。
「お主に、できるか」
「分かりません。ですが、今、誰かが並べねば、誰も気づけません」
昌源は、しばらく藤丸を見ていた。それから、紙の束を、もう一枚、差し出した。
「やってみよ。ただし、急ぎじゃ」
藤丸は、その紙を受け取った。手の中で、紙が、これまでよりずっと重く感じられた。
* * *
その夜、藤丸は文机に向かい、村ごとの蓄えと、出すべき米の量を、一つずつ並べていった。
しばらくして、目に止まる行が、二つ見つかった。
上分郷は、出すべき米が二十五石。蓄えは四十石ほどある。差し引けば、十五石が余る。
一方、下の郷は、出すべき米が二十八石。蓄えは二十石しかない。八石、足りない。
(足りない分は、どこから出すのだろう)
藤丸は、少し考えて、すぐに分かった。村の蓄えだけで足りなければ、残りは、村人がその年に食う分から、削って出すしかない。出陣の支度は待ってくれない。だが、村人の食う米は、待ったところで増えるわけではなかった。下の郷は、来年の収穫まで、八石分、いつもより苦しい思いをすることになる。
(上分の余りを、下の郷へ回せば――)
そこまで考えたところで、藤丸は、筆を止めた。
(ただ回すだけでは、上分が損をする)
上分郷からすれば、自分たちが蓄えてきた米を、よその郷のために削られることになる。理由を示さず、ただ「足りないところへ回せ」と言われれば、それは、上分にとって、納得のいく話ではないだろう。太助の田で聞いた言葉が、頭の隅に戻ってきた。誰の分が出て、誰の分が出ないのか、決めるのは容易うないと、太助は言っていた。今回も、同じことだった。
藤丸は、紙の端に、もう一行、書き加えた。
――上分の回す分は、来年の年貢より、その分だけ差し引く。
借りた形にしておけば、上分は、いずれ取り戻せる。ただ取られるのと、いずれ返ってくるのとでは、村の納得の仕方が、まるで違うはずだった。
藤丸は、その紙を持って、父の間へ向かった。
* * *
昌源は、紙に目を落とし、しばらく黙っていた。
「上分から、下の郷へ回す、か」
「はい。ただ、上分には、来年の年貢から、その分を引いてやってください。借りた形にしておけば、上分も得心するはずです」
昌源は、わずかに目を細めた。
「……間に合うた。これでよい」
それだけだった。だが、藤丸には、それで十分だった。机の上の数字が、今日初めて、戦支度という、もっと大きなものの一部になった。
* * *
三日後、戦の報せが届いた。
下田城は落ち、下田駿河守は討たれたという。親信は、自ら槍を取って先頭に立ち、城門近くの一番激しい場でしばらく持ちこたえたと、戻ってきた家臣の一人が語った。
藤丸が親信に会えたのは、それから二日後のことだった。具足を脱いだ親信は、頬に小さな傷を負っていたが、足取りはいつもと変わらなかった。
「兄上、ご無事で」
「言うたであろう。まだ死なぬと」
親信は、そう言って笑った。それから、ふと真顔になった。
「藤丸。お主が並べた村の蓄え、父上から聞いた。あれがなければ、出陣の支度が、もう少し遅れたそうじゃ」
藤丸は、何と答えればいいか、すぐにはわからなかった。
「私は、ただ、数を並べただけです」
「それでよい」親信は、頷いた。「わしは、槍で渡り合うことしかできぬ。お主のやったことは、わしには、できぬことじゃ」
それだけ言うと、親信は稽古場のほうへ歩いていった。藤丸は、その背を見送った。
* * *
同じ頃、親直は、下田の旧臣たちの処遇に関わっていた。
降った者たちの中から、誰を召し抱え、誰を放っておくか――その見極めを、昌源から任されていた。
親直は、一人ひとりに会い、多くは語らせず、ただ聞いた。下田駿河守の下でどれだけの扱いを受けていたか、誰と誰の間に確執があったか――そういう小さな話を、丁寧に拾い集めた。
「下田殿の御下では、恩賞の配り方に、いつも偏りがあったとか」
ある旧臣が、そう漏らした。親直は、それだけ聞いて、頷いた。
(偏りがあるところには、必ず隙間がある)
いつか安芸の家中を見るときにも、同じ手が使えるかもしれない。親直は、そう思いながら、また次の者の話を聞いた。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日までのことを思い出していた。
親信の槍。父の蔵の数字。親直が、旧臣たちの間に分け入っていく姿。
(弓に似ている)
ふと、そんな考えが浮かんだ。親信は、的に届く矢尻だ。親直は、弦――引く力をどこに溜めているか、外からは見えない。自分は、矢柄なのかもしれない。地味で、誰の目にも留まらないが、それがなければ、矢尻も弦も、ただの部品でしかない。
三人がそろって、初めて一本の矢になる。そう思うと、藤丸の中に、これまでとは違う落ち着きが生まれた。
障子の外で、夏の夜風が、低く鳴っていた。
今回、藤丸は初めて戦支度という大きな出来事の一部に組み込まれます。村ごとの米の過不足を並べ、「上分から下の郷へ回す分は、来年の年貢から引く」という、貸し借りの形にする工夫は、太助の田で学んだ「誰の分が出て誰の分が出ないか」という難しさへの、藤丸なりの答えでした。
親信の「わしは槍で渡り合うことしかできぬ。お主のやったことは、わしにはできぬことじゃ」という一言や、布団の中で三兄弟を矢尻・弦・矢柄にたとえる藤丸の考えに、三人がそれぞれ違う形で家を支えていることが、今回はっきりと描かれていました。
親信がいつか伊予で討死する運命を、藤丸だけが知っているという切なさも、静かに滲む回だったように思います。




