藤丸の足跡
太助やお咲が、それぞれ自分の言葉で「並べて考える」ようになっていました。うれしい気づきの一方で、藤丸自身の足跡が、もう村の噂になっていることに気づく一話です。
蝉の声が、朝のうちから強くなっていた。次郎兵衛が裏門を出ていってから、十日ほどが過ぎている。藤丸は、お咲と共に、村の畔道を歩いていた。
「太助、麦の田は、もう手を入れているのか」
藤丸が問うと、太助は、額の汗を拭いながら頷いた。
「ええ。水はけの悪いところは、溝を切り直しております。日当たりのいいところは、まだそのままで」
藤丸は、その言葉に、少し驚いた。前に見立てた田のうち、悪いところと良いところを、太助が自分で分けて言ったのだ。
「水はけの悪い田と、良い田、分けて考えているのか」
太助は、頭をかいた。
「藤丸様に言われてから、つい、そうなりまして。あの田はこう、この田はこう――並べて考えると、次に何をすればいいかが、前より早く決まるようになりました」
藤丸は、それを聞いて、胸の奥が少し温かくなった。
(太助が、自分の言葉で、並べて考えるようになっている)
教えたつもりはなかった。ただ、いつも同じ問いを重ねていただけだった。それでも、その問いの形が、太助の中に、少しずつ残っていったらしい。
「藤丸様のおかげです」
「太助が、覚えただけだ」
藤丸がそう言うと、太助は笑って、また鍬を取った。
* * *
畔を離れて屋敷へ戻る道、お咲が懐から、折りたたんだ紙を取り出した。
「藤丸様。控え、少し増えました」
藤丸は、その紙を覗き込んだ。文吉の紙の注文の間隔、仁助の乾物の届く日数が、お咲の手で並べて書かれている。
「これを見て、気づいたことがあるのですが」
「何だ」
「文吉さんの紙の注文、いつも同じ間隔ではありません。でも、雨の多い月の前は、決まって早めに頼んでくる気がします」
藤丸は、その紙をもう一度見た。
(雨の前に、紙を多く欲しがる――)
紙は湿気を嫌う。雨が増える前に、乾いた紙を確保しておきたいということかもしれない。台帳の数字だけでは見えなかった筋が、お咲の控えから、一つ浮かび上がった。
「お咲、これはいい気づきだ」
「私が見つけたわけではありません。控えを並べただけです」
藤丸は、その言葉に、小さく笑った。
(並べただけ、か)
それこそが、自分のしていることと、同じだった。
屋敷の裏門が見えてきたところで、藤丸は親直と行き会った。親直は、稽古場から戻る途中らしく、汗を拭いながら歩いていた。
「藤丸。今日も、村まで出ていたのか」
「はい。太助のところで、田を」
親直は、足を止めて、藤丸を見た。
「太助の田、というと――麦を植える田を探していると、村のほうでも、ちらほら聞くようになったな」
「村でも、そのような話が出るのですか」
「村の年寄りが、城下まで出てきて、世間話のついでに言うておったそうだ。『久武の三男様が、近頃、田を見て回っておられる』と」
親直は、それだけ言って、軽く笑った。
「面白いことだ。子供が田を見て回るくらい、これまでなら誰も気にも留めなかったろうに」
藤丸は、何も言わなかった。
(自分の歩いた跡が、もう村の噂になっている)
帖の中身まで漏れているわけではない。誰に何を頼んだか、どれだけ運んだか――そこまでは、まだ誰の口の端にも乗っていないはずだ。ただ、自分が太助のところへ通っているという、ただそれだけのことが、もう村の年寄りの世間話になっている。
「兄上は、それを、どこで聞いたのですか」
「さあ、どこでだったか。家中には、いろいろな話が入ってくる」
親直は、はっきりとは答えなかった。だが、その答えなさ自体が、いつものことだった。
「藤丸、もう一つ聞いてもよいか」
「何でしょう」
「お主は、これからも、田を見て回るのか。商人にも会い、村にも出て」
藤丸は、少し考えてから答えた。
「はい。それが、私のすることだと思っていますから」
親直は、その答えを聞いて、しばらく黙っていた。それから、ふっと、笑みを浮かべた。
「そうか。それなら、せいぜい、気をつけて歩くことだ」
それだけ言って、親直は屋敷のほうへ歩いていった。
藤丸は、その背を、しばらく見送った。
(気をつけて歩け、か)
何を気をつけよというのか、親直は言わなかった。だが、藤丸には、うっすらと分かる気がした。
村に知られることは、悪いことばかりではない。太助のような者との間に、知らぬうちに、ある種の信頼が積もっていく。それは、帖の数字だけでは作れないものだ。
だが、知られるということは、誰の目にも留まるということでもある。そして、親直兄上は、人が誰の目に留まり、誰の隙間に入り込むかを、誰よりも見ている人だ。今日、自分の歩いた跡は、その兄の目にも、すでに留まっている。
(机の上のことは、一人で抱えればよかった。畔を歩くことは、一人では抱えられない)
これまでの用心は、帖を誰の手にも渡さないことだった。それだけでは、もう足りない。歩けば人目に立つ。立てば、誰かが見る。見られたなら、その見方そのものに、用心しなければならない。
* * *
藤丸の背が、奥へ消えていくのを、親直はしばらく見ていた。
(村の年寄り、とだけ言うておいたが)
本当の出どころは、もう少し近いところにあった。文吉の店先で聞いた、紙商人同士の世間話。太助の田を見て回る三男の話は、すでに村の外、城下の商人筋にも届いていた。村の年寄りの口から出た、というのは、嘘ではない。だが、それだけでもなかった。どこから聞いたかを、いつも一つに絞らずにおく。それが、親直のやり方だった。
(あの子は、もう、机の上だけにはおらぬ)
帖をつけ、商人と渡りをつけ、村の田を見て回る。三男に過ぎなかった弟が、いつの間にか、いくつもの場所に足跡を残している。その足跡を辿れば、誰がどこで何をしているかが、ある程度見えてくる。これまでは、家中の隙間を見るだけで十分だった。だが、この弟の足跡は、家中の外、村や商人の側にまで伸びている。
(面白い。だが、面白いだけでは済まぬかもしれぬ)
咎める気はなかった。咎める理由がない。藤丸のしていることは、家のためになっている。それは、認めてよいことだった。
ただ、気をつけて歩け、と言ったのは、半分は本当の忠告だった。目立てば、誰かの目に留まる。誰かの目に留まれば、利用しようとする者も出てくる。親直自身が、まさにそういう目で、今、藤丸を見ているように。
(己が、それを一番よく知っておるからこそ、言うたのだがな)
藤丸が、その忠告をどう受け取ったか、親直にはわからなかった。ただ、あの一瞬の沈黙――何かを考えてから答えるまでの、ほんの短い間――それだけは、見えた。
(あの間は、ただの子供のものではないな)
以前から、薄く感じていたことだった。今日、また少し、それが濃くなった。
親直は、軽く息をついて、稽古場のほうへ足を向けた。今は、それだけでよかった。答えを急ぐ必要はない。この先、弟がどう歩いていくかを、もう少し見ていればいい。
* * *
その夜、藤丸は文机の前で、帖を開いた。
太助、麦の田の手入れ、自ら分けて考えるようになった。
お咲の控え、文吉殿の注文と雨の時季、繋がりあり。
そこまで書いて、藤丸は筆を止めた。もう一行、書き加えるべきかどうか、少し迷った。
(村でも、噂になっている。兄上が、それを知っていた)
これは、太助の田のことでも、お咲の控えのことでもない。自分自身の動きについての、初めての書き込みになる。
藤丸は、しばらく筆を持ったまま、考えた。それから、小さく一行を加えた。
村にも、私の動きが伝わっているらしい。よいことも、悪いことも、ともにある。気をつけて歩け、と兄上に言われた。
書き終えて、藤丸は、その文字を、しばらく見ていた。
(机の上の足跡は、自分にしか見えない。だが、畔を歩いた足跡は、誰の目にも映る)
それは、悪いことだとは思わなかった。ただ、これまでとは違う種類の用心が、もう一つ必要になったらしい。
藤丸は、帖を閉じ、文机の灯りを少し落とした。
障子の外で、夏の夜風が、低く鳴っていた。
今回、藤丸は太助が自分の言葉で田を分けて考えるようになったこと、お咲が控えから「雨の前に紙を多く欲しがる」という筋を見つけたことに、静かな手応えを感じます。「並べて考える」というやり方が、少しずつ自分以外の人にも根付き始めている様子が、丁寧に描かれていました。
一方で、親直から「田を見て回っている」という噂がすでに村の外にまで届いていると知らされ、藤丸は新しい種類の用心に気づきます。机の上の帖は自分にしか見えないが、畔を歩いた足跡は誰の目にも映る――これまでとは違う目立ち方の危うさです。
親直の「気をつけて歩け」という忠告に、咎める気配はなく、むしろ観察者としての親直自身の目線が滲んでいたのも印象的でした。三兄弟それぞれの距離感が、また少し深まった回だったように思います。




