昌源の人探し
藤丸が知らないところで、昌源が動き始めます。傅役探しという静かな胸算用に、思いがけず親直が一枚噛んでくる一話です。
次郎兵衛が裏門を出ていってから、十日ほどが過ぎた。
椎茸の話は、それで一区切りついていた。秋までは、これと言ってすることもない。藤丸は、いつものように帖付けと、文机での書き写しに戻っていた。
ただ、近頃、父・昌源の様子が、少し違う気がした。
書院に呼ばれて用を言いつけられるとき、昌源は時折、藤丸の方を、いつもより長く見ていることがあった。何か言いたいことがありそうで、結局、何も言わずに終わる。そういうことが、二度、三度とあった。
「父上、何か――」
「いや。下がってよい」
聞きかけても、いつもそう返されるだけだった。藤丸は、それ以上は問わず、文机に戻った。何かあるなら、いずれ父の方から言うだろう。今は、帖の続きを進めるしかない。
その日の夕餉でも、似たことがあった。膳を挟んで向かい合っていると、父の箸が、ふと止まる。何を言うかと思って待っていると、結局、「お前は、近頃、何を書き写しておるのだ」と、いつもと変わらぬ問いが返ってくるだけだった。藤丸は、「往来物です」とだけ答え、それで話は終わった。
午後、廊下でお咲とすれ違ったとき、藤丸はふと言葉をこぼした。
「父上が、近頃、少し様子が違う」
お咲は、廊下を掃く手を止めて、首をかしげた。
「どのように、でしょうか」
「言いたいことがあって、結局、言わずに終わる。そんなことが、続いている」
お咲は、しばらく考えて、こう言った。
「うちの父も、何か考えごとがあるときは、似たようになります。そういうときは、聞いても、まだ早いのだと思います」
藤丸は、それを聞いて、なるほど、と思った。お咲の言うことは、たいてい筋が通っている。だが、何が「まだ早い」のか、見当はつかなかった。
* * *
その夜、書院に一人残った昌源は、灯りの下で、文を見るともなく見ていた。
(藤丸には、まだ誰もついておらぬ)
岩丸――いまの親信には、物心つく頃から武芸の師がついた。駒丸――いまの親直には、行儀と書を教える者がついた。藤丸には、まだ、誰もいない。これまでは、それで困ることもなかった。富国の才とやらは、誰かが手を取って教えるものでもなし、本人の工夫に任せておけばよい――そう思っていた。
だが、十日前のことが、頭から離れない。
商人が、わざわざ屋敷の裏門まで子に会いに来る。それも、安芸で名の知れた者だという。会うこと自体は、許した。だが、これからも同じようなことが続くというなら、藤丸の周りに、目を配る者が一人もいないというのは、さすがに具合が悪い。
(誰か、つけねばならぬ)
ただ、誰でもよいわけではない。武芸の師のように、型を教え込めばよいわけでもない。藤丸のしていることを、半分でも分かる者でなければ、傍にいる意味がない。商いの話も、帖の話も、子供の遊びと侮らずに聞ける者でなければ、すぐに行き詰まる。
そう考えると、すぐには、誰の顔も浮かばなかった。
家中を見渡しても、武芸や行儀の師は何人もいる。だが、米の値や、舟の戻る日数を気にかけるような者は、聞いたことがない。
親信には、戦場で命を預けられる者がいればよい。親直には、行儀作法を教えられる者がいればよい。だが藤丸につける者は、それとは勝手が違う。子供の遊びと侮らずに、米の値や舟の話に耳を傾けられる者でなければ、すぐに見限られるか、逆に振り回されるかのどちらかになるだろう。そんな器用な者が、果たしてどこにいるのか。昌源には、まるで見当がつかなかった。
* * *
翌朝、廊下で親直と行き会った。
昌源が声をかけるより先に、親直が口を開いた。
「父上。藤丸のことですか」
昌源は、わずかに眉を上げた。
「分かるのか」
「ここ数日、ずいぶん難しい顔をしておられましたので。それに、近頃は安芸から商人まで来るほどですから、無理もありません」
親直は、それだけ言って、軽く笑った。何を知っていて、何を知らずに言っているのか、その笑い方からは分からなかった。
昌源は、しばらく考えてから、口を開いた。
「藤丸に、誰か一人、つけるべきかと思うておる。武芸の師ではない。あの子のやっておることを、少しでも分かる者がよい」
「ふむ」
親直は、すぐには答えなかった。少し間を置いてから、言葉を継いだ。
「以前、安芸の寺から来た托鉢僧が、こう申しておりました。近隣の子らに文字や経を教える寺で、中には算用に明るい子もおり、蔵の出し入れまで任されることもある、と」
昌源は、親直の顔を見た。
「それが、どうした」
「ただの世間話です。たまたま、思い出しましたので」
「世間話、にしては、よく覚えておるな」
「覚えていることは、他にもいろいろございます」
親直は、それ以上は何も言わず、軽く頭を下げて、奥へ歩いていった。
* * *
昌源は、しばらくその場に立っていた。
(世間話、か)
親直という子は、いつも、こういう言い方をする。何かを知らせたいのか、ただ思い出したことを口にしただけなのか、その境がはっきりしない。咎める理由もなく、信じきる理由もない。これまでも、そうだった。
ただ、話そのものは、悪くはなかった。
寺で算用を学んだ子。素性の知れぬ者を、すぐに召し抱えるわけにはいかない。だが、寺という出どころがあるなら、確かめる手立てはある。請人さえ立てば、話は別だ。
(誰かに、確かめさせるか)
文吉でもよい。甚兵衛でもよい。いずれも、長く付き合いのある者だ。安芸の寺について、それとなく聞かせることはできるだろう。すぐに人が見つかるとは思っていない。気の長い話になるかもしれない。だが、まったく手を打たぬよりは、よほどよい。
昌源は、そこまで考えて、ひとまずその日のことを終えた。すぐに何かが決まるわけではない。それでも、頭の隅に、一つ、置いておく場所ができた。
(ただ、何も言わずにおくのも、考えものだ)
次郎兵衛が直に会いに来たことを、藤丸はすでに知っている。今後も同じようなことが続くなら、何も知らぬまま、よけいなことを口にされても困る。多くを語る必要はない。ただ、何かが動いているということだけは、こちらから伝えておいたほうがよかろう。
* * *
その日の夕刻、昌源は藤丸を呼んだ。
「藤丸」
「はい」
「お前のことで、少し、調べておる」
藤丸は、目を上げた。
「何を、でしょうか」
「今は言えぬ。決まったことでもない」
それだけだった。昌源は、もう一度、藤丸の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。
「分かりました」
藤丸は、それ以上は問わなかった。父が「言えぬ」と言うときは、本当に何も決まっていないのだと、これまでの付き合いで分かっていた。
部屋を出てから、藤丸は、ふと足を止めた。
(私のことで、調べている――)
何のことか、見当はつかなかった。ただ、これまで「お前の好きにせよ」とばかり言っていた父が、今度は、自分から何かを動かそうとしている。それだけが、いつもと違う気がした。
廊下の先、夕暮れの光が、わずかに赤く差していた。藤丸は、しばらくそこに立ったまま、その光を眺めていた。
何かが変わるのか、変わらないのか、まだ分からない。それでも、父が自分のために何か考えているらしいということだけは、確かに伝わってきた。
戻る道の途中、また廊下でお咲と行き会った。
「藤丸様、何か、ぼんやりしておられますね」
「父上が、私のことで、何か調べているそうだ。何かは、まだ言ってもらえなかったが」
お咲は、少し驚いた顔をしたが、それ以上は問わなかった。
「そういうことなら、いずれ分かる時が来るのでしょう」
昼間、お咲が言った「まだ早い」という言葉が、藤丸の中で、もう一度浮かんだ。今度は、その意味が、少しだけ分かる気がした。
藤丸は、小さく息をついて、自分の部屋へ戻っていった。
今回は昌源視点を中心に、藤丸にはまだ誰も傅役がついていないという事実に、昌源自身が向き合います。武芸でも行儀作法でもない、「子供の遊びと侮らずに、米の値や舟の話に耳を傾けられる者」という条件のハードルの高さに、昌源が頭を悩ませる様子が丁寧に描かれていました。
そこへ、親直がさりげなく「安芸の寺に算用に明るい子がいる」という話を差し出します。親切なのか、何か思惑があるのか判然としないところが、この兄弟らしい距離感です。
藤丸自身には、まだ何も明かされないまま「お前のことで、少し調べておる」とだけ伝えられました。お咲の「まだ早い」という言葉の意味を、藤丸が今度は少しだけ分かった気がする、という締めくくりも印象的です。
安芸の寺の子が、この先どんな形で藤丸の前に現れるのか、楽しみにしていただければ幸いです。




