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次郎兵衛の訪い

次郎兵衛が「その子供に会ってみたい」と望み、藤丸は初めて商人と顔を合わせます。会った後、藤丸の心に残ったのは「すべてが自分一人にしかない」という、静かな怖さでした。

甚兵衛が安芸から戻ってきたのは、十日ほど経ってからだった。


「次郎兵衛様に、藤丸様のお言葉を、そのままお伝えいたしました」


甚兵衛は、いつものように荷を下ろしながら、そう言った。


「今年の秋、出ているだけの椎茸を必ず届ける。来年からは、増やせるかもしれない――次郎兵衛様は、しばらく黙って聞いておられましてな。それから、こう仰いました」


藤丸は、唾を飲み込んで、次の言葉を待った。


「『そこまですじの通った返事をする子供に、一度、会ってみたい』と」


「会いたい、と」


「はい。次郎兵衛様は、ちょうど近いうちに、紙の買い付けの相談で、文吉殿のところまで出てくる用があるそうです。その折に、岡豊おこうへも寄らせてもらえないか――と、そう仰っておりました」


藤丸は、すぐには言葉が出なかった。これまで、次郎兵衛とは、甚兵衛の言葉を通してしか関わったことがなかった。顔を合わせたことは、一度もない。


「父上に、伝えなければ」


藤丸は、そう言って、文机を離れた。


*  *  *


「商人に、直に会わせろと言うのか」


昌源は、しばらく考えるような顔をしていた。


「父上。次郎兵衛殿は、椎茸のことで、ずいぶん気にかけてくださっている方です。お顔も見ぬまま、これからも品をお願いするのは――」


「分かっておる」


昌源は、藤丸の言葉を止めた。


「会うこと自体は、悪くはない。だが、短くせよ。長々と話し込むものではない。甚兵衛も、傍につけておけ」


「はい」


「お前の好きにせよ、とまでは言わぬ。これは、わしが許す形にする」


藤丸は、その言い方に、わずかな違いを感じた。これまでの「好きにせよ」とは、少し違う。だが、今は深く考えず、頭を下げた。


*  *  *


次郎兵衛がやって来たのは、それから七日後のことだった。


屋敷の裏門近く、甚兵衛がいつも荷を解く辺りに、人足を一人連れた男が立っていた。日に焼けた顔と、太い腕。海風に晒され続けた者の、がっしりとした体つきをしている。


「これが、藤丸様で」


甚兵衛が、藤丸を示すと、次郎兵衛は、藤丸の頭から足の先まで、ゆっくりと見た。


「ほう。思っていたより、小さいな」


ぶしつけな言葉だったが、悪意は感じられなかった。藤丸は、少し背筋を伸ばした。


「藤丸と申します」


「次郎兵衛だ。安芸で、海のものを商っておる」


それだけ言って、次郎兵衛は、しばらく黙って藤丸を見ていた。値踏みをするような目だった。


「甚兵衛から聞いた言葉、お主が考えたのか」


「はい」


「いつ、どれだけとは言わず、できる分だけを約束する――子供の口から出るには、ずいぶん用心深い言葉だ。誰かの知恵を借りたか」


藤丸は、少し迷ったが、正直に答えた。


「考えたのは、私です。ただ、できることだけを約束する、というやり方は、ある人から教わりました」


「ある人、とは」


「家の者です。荷を運ぶ者は、皆、同じことをしている、と聞きました。いつでも、どれだけでも、とは言わず、運べる分だけを、運ぶ」


次郎兵衛は、しばらく黙っていた。それから、低く笑った。


「甚兵衛、お前のところの娘か」


甚兵衛は、頭をかいた。


「いや、お主が言わずとも、分かる。お主の娘らしい考えだ」


藤丸は、何も言わなかった。次郎兵衛は、それ以上は問わず、話を変えた。


「秋になれば、椎茸が来る、ということだな。量は、まだ分からぬ」


「はい。今、増やせるかどうか、ある工夫を試しております。ですが、それがどうなるかは、来年にならねば分かりません」


「ある工夫、とは」


次郎兵衛が、興味を引かれたように問うた。藤丸は、一瞬迷ったが、口を閉ざした。


「それは――まだ、お話しできません。試している最中のことですので」


次郎兵衛は、片眉を上げた。それから、また低く笑った。


「言わぬか。なるほど、それも一つの筋だ」


それ以上は、問わなかった。


「分からぬことを分からぬと言い、分かることだけを言う。言えぬことは、言わぬと言う。それでいい」


それだけ言うと、次郎兵衛は、傍らの人足に何か指示をし、踵を返した。


「また、秋に来る」


短い言葉を残して、次郎兵衛は裏門を出ていった。藤丸は、その背を見送りながら、しばらくその場に立っていた。


会ったのは、ほんの僅かな間だった。それでも、これまで紙の上の名前でしかなかった次郎兵衛が、初めて、顔と声を持った人間になった。


*  *  *


その夜、藤丸は布団の中で、その日のことを何度も思い返した。


次郎兵衛の顔。低い声。「言わぬか」と笑った時の、片眉の上がり方。


それから、ふと、別のことが頭に浮かんだ。


(次郎兵衛殿の顔を知っているのは、自分だけだ)


(帖の中身を知っているのも、自分だけだ)


(傷をつけた木が、どうなるか――それを気にかけているのも、自分だけだ)


一つひとつは、小さなことだ。だが、並べてみると、どれも同じところに行き着く。すべてが、自分一人の中にしかない。誰かに何かがあれば、それきり、何も残らない。


(一つに集めておくのは、危うい)


なぜそう思うのか、はっきりとは分からなかった。誰かに教わったわけでも、書物で読んだわけでもない。ただ、長く何かを抱えていると、自然とそういう用心が湧いてくるものらしい、と藤丸は思った。


お咲には、もう少し渡してもよいかもしれない。だが、そこで藤丸は、ふと手を止めた。


(一人に集めるのを恐れて、また一人に集めるのでは、同じことだ)


お咲に渡しすぎれば、今度はお咲が、一人で抱えることになる。そうではなく、少しずつ、別の場所に分けておく方がいい。


(誰か、もう一人――自分のように、物事を並べて見てくれる人が、いれば)


そう思った途端、誰の顔も浮かばないことに、藤丸は気づいた。家中には、親信にも親直にも、武芸や行儀を教える者がついている。自分には、まだ誰もいない。それが今まで、特に困ったことはなかった。だが、今夜は、その「誰もいない」ことが、初めて、少し心に引っかかった。


だが、そんな人が、すぐに見つかるとは思えなかった。お咲のように、はじめから物の見方が似ている者は、そう多くはない。見つからないなら、誰かをそのように育てるしかないが、それには、何年もかかるだろう。


それに――見つけるのも、育てるのも、誰を傍に置くかを決めるのも、藤丸が自分で決められることではなかった。家臣を選ぶことは、父の領分だ。自分が「欲しい」と思ったところで、それを口にできる立場にすら、まだない。


藤丸は、しばらくその先を考えていたが、やがて、一つのことに思い至った。


(今、人を選べる立場にないなら――いずれ、選べる立場になるしかない)


誰かを得るのを待つだけでは、何も変わらない。それまでの間、自分にできることを、一つずつ積み重ねていくしかない。帖をつけること、お咲に控えを持たせること、次郎兵衛との約束を守ること――どれも小さなことだが、積み重ねれば、いつか、誰かを呼べる立場に届くかもしれない。


それは、今すぐどうにかなる話ではなかった。それでも、藤丸の中で、もやもやしていたものが、一つの形になった。


足りないものは、すぐには得られない。だから、今ある力を、一つずつ、育てていくしかない。


藤丸は、その答えを胸に、目を閉じた。


*  *  *


翌日、藤丸はお咲のところへ行った。


「お咲。前に頼んだ、紙や乾物の戻る日数のことだが」


「はい、少しずつ、並べております」


「それを、お主の手元にも、控えとして置いておいてくれないか。私のところにある帖とは、別に」


お咲は、不思議そうな顔をした。


「同じものを、二つ持つ、ということですか」


「そうだ。一つしかないと、何かあった時、何も残らない。お主が持つ分と、私が持つ分――両方あれば、片方が駄目になっても、もう片方が残る」


お咲は、しばらく考えていたが、小さく頷いた。


「分かりました。控えを、作ります」


それだけだった。帖の中身そのものを渡したわけではない。お咲が並べた、戻る日数の控えを、お咲自身の手元にも残してもらう――それだけの、小さな分け方だった。それでも、藤丸にとっては、初めて「一つにしない」ことを、自分の手で形にした一歩だった。


*  *  *


夜、藤丸は文机に向かい、帖を開いた。


次郎兵衛殿に会う。言えぬことは言えぬと言うた。承知された。


それから、もう一行。


お咲に、控えを別に持ってもらうことにした。一つに集めぬように。


書き終えて、藤丸は筆を置いた。


次郎兵衛の顔を、知る者が増えたわけではない。帖の中身も、まだ自分一人のものだ。傷をつけた木の行方も、誰かに分けられるものではない。それでも、控えという形で、ほんの少しだけ、何かを分けることができた。


その夜、布団に入ってからも、藤丸はいくつかのことを、頭の中で並べ直していた。


次郎兵衛殿には、また秋に会う。


椎茸の量は、まだ分からない。


傷をつけた木は、来年でなければ、分からない。


お咲の控えは、できた。


足りないものは、すぐには得られない。今ある力を、一つずつ育てるしかない。


藤丸は、その答えを抱えたまま、いつしか眠りに落ちていった。

今回、藤丸は次郎兵衛と初めて対面します。「言えぬことは言えぬと言う」という受け答えに、次郎兵衛は値踏みするような目を向けながらも、それを一つの筋として認めました。父・昌源の許しの言葉が「好きにせよ」から「わしが許す形にする」に変わっていたのも、細かいですが見逃せない変化です。

その夜、藤丸は次郎兵衛の顔も、帖の中身も、傷をつけた木の行方も、すべて自分一人にしかないことに気づき、初めて「一人に集めておくのは危うい」という感覚を持ちます。同時に、親信や親直と違い、自分にはまだ傅役がいないことにも、初めて心が引っかかりました。

「足りないものは、すぐには得られない。今ある力を一つずつ育てるしかない」という結論のもと、藤丸はお咲に控えを別に持たせるという、小さな一歩を踏み出します。この先、傅役という存在が、どんな形で藤丸のもとに現れるのか、楽しみにしていただければ幸いです。

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