お咲の帖
次郎兵衛への答えをどう返すか迷う藤丸に、お咲の「できることだけ、小さく決める」という一言が道を示します。帖のやり方が、初めて自分以外の手にも渡る一話です。
梅雨が明け、日差しが急に強くなった頃、甚兵衛が、次に安芸へ向かう日が決まったと知らせてきた。五日後だという。
藤丸は、その知らせを聞いて、まず帖を取り出した。
椎茸、次郎兵衛、定め――そこに書き加えた、春・秋に多し。量は年により定まらず。傷をつけた木、試し中。
次郎兵衛からは、前に「どれほど、いつ頃」と問われたまま、藤丸はまだ答えを返していなかった。甚兵衛はそのとき、「次に伺った時にお応えする」とだけ伝えて帰ってきている。今度こそ、何かを言わねばならない。だが、量も時季も、平六に確かめてもなお、はっきりとはしていなかった。はっきりしていないことを、はっきりしているかのように言うのも、違う気がした。
藤丸は帖を閉じ、文机を離れた。
* * *
縁先で繕い物をしていたお咲に、藤丸は声をかけた。
「お咲。少し、聞いてもいいか」
「はい」
お咲は針を止めて、藤丸を見た。
「もし――何かを頼まれて、はっきりとは答えられないとき、お主はどうする」
お咲は、少し考えた。
「うちなら……分からないことは、分からないと言います。それで終わりにはせず、できることだけ、約束します」
「できることだけ」
「父が、荷を運ぶときも、そうです。『いつでも、どれだけでも』とは言いません。『次は、これくらいなら』と、小さく決めて運びます」
藤丸は、その言葉を、静かに受け止めた。
(分からないことを隠さず、できることだけを、小さく決める)
それは、藤丸が今まで避けてきたやり方だった。はっきりした答えを出さなければ、と思うほど、何も言えなくなっていた。だが、はっきりしていない部分を隠さずに伝え、その代わりに、できる範囲だけを約束する――それなら、今の藤丸にも、できるかもしれない。
太助も、平六も、甚兵衛も、それぞれの持ち場で同じことをしていたのかもしれない、と藤丸は思った。確かなことだけを口にし、確かでないことは確かでないと言う。藤丸はいつも、誰かの言葉を聞いて、それを自分の中で並べ直してきた。今度は、お咲の一言が、その役目を果たしてくれた。
「ありがとう、お咲」
「いえ。私は、何も――」
お咲は、それ以上は言わず、また針を取った。藤丸が何を答えにするのか、聞きはしなかった。
藤丸は、それを見て、少し意外に思った。お咲なら、続きを聞きたがるかもしれないと思っていた。だが、お咲は何も尋ねず、ただ繕い物を続けている。
藤丸は、その横顔をしばらく見ていたが、何も言わずに、その場を離れた。
* * *
その夜、藤丸は布団の中で、お咲の言葉を何度も思い返した。
できることだけを、小さく決める。
椎茸が、いつ、どれだけ採れるかは、まだ約束できない。傷をつけた木がどうなるかも、来年か、もっと先にならなければ分からない。だが――
(今年の秋、出ているだけの椎茸を、必ず届ける。それだけなら、約束できる)
多くを望まれても、答えられない。だが、何も約束しないままでは、次郎兵衛の方も、困るだろう。今年は、量も時季も決められないなりに、ある分を確実に渡す。来年、傷をつけた木に椎茸が生えれば、その時はじめて、増やせるかどうかを伝えればいい。小さくても、守れる約束を一つ、まず示す。
藤丸は、その考えを、もう一度確かめるように、頭の中で繰り返した。
明日、父に話してみよう。
そう思って、藤丸は目を閉じた。
* * *
翌朝、藤丸は昌源の文机のそばに座った。
「父上。次郎兵衛殿への返事を、決めました」
「ほう」
昌源は筆を置き、藤丸を見た。
「いつ、どれだけとは、約束できません。でも――今年の秋、出ているだけの椎茸を、必ず届けます。来年からは、もう少し増やせるかもしれない、とも伝えます」
昌源は、しばらく黙っていた。
「増やせるかもしれぬ、とだけ言うのか。確かなことを言わぬのは、頼りなく思われぬか」
藤丸は、少し考えてから答えた。
「確かでないことを、確かなように言う方が、後で困ると思います。今、小さくても守れることだけを言えば、次郎兵衛殿も、それを当てにできます」
昌源は、わずかに口の端を上げた。
「分からぬことを、分からぬまま伝えるか。それも、一つのやり方じゃ」
「はい」
「よかろう。お前の好きにせよ」
それだけだった。藤丸は、頭を下げて文机を離れた。
* * *
甚兵衛が発つ朝、藤丸は裏門まで見送りに出た。荷を背負った甚兵衛に、藤丸は言葉を伝える。
「次郎兵衛殿に、こう伝えてほしい。今年の秋、出ているだけの椎茸を、必ず届ける。来年からは、もう少し増やせるかもしれない、と」
甚兵衛は、その言葉を何度か繰り返し、頷いた。
「承知いたしました。今年の秋、出ているだけを必ず――来年は増やせるかもしれない、と」
「うん。それだけでいい」
甚兵衛は、荷の結びを確かめながら、ふと傍らのお咲に目を向けた。
「お咲。藤丸様が、何を考えておられたか、聞いたか」
お咲は、籠を抱えたまま、首を横に振った。
「いいえ。何も」
「ほう。お前なら、聞き出しておるかと思うたが」
「聞いておりません」
お咲は、それだけ答えて、それ以上は何も付け加えなかった。甚兵衛は、特に気にする様子もなく、笑って荷を背負い直した。
「では、行って参ります」
甚兵衛が裏門を出ていく。藤丸は、その背を見送りながら、お咲の方をちらりと見た。
お咲は、もう籠の中の何かを見ていて、藤丸の方には気づいていないようだった。
(誰にも、話していなかった)
父にすら、何も言わなかった。藤丸は、それを直に確かめたわけではない。お咲に「黙っていたか」と問えば、それは藤丸が彼女を疑っていることになる。疑って確かめるのでは、せっかくのことが、台無しになる気がした。だから、何も聞かず、ただ見ていただけだった。それでも、見ているだけで、分かることがあった。
* * *
その日の午後、藤丸はお咲のところへ行った。
「お咲。少し、頼みがある」
「はい」
「お主の父が運ぶ荷――紙、乾物、海のもの。どれが、どれくらいの間で戻ってくるか、覚えているか」
お咲は、少し考えてから答えた。
「紙は、だいたい二十日に一度。乾物は、もう少し早く。海のものは、安芸まで行く時だけです」
「それを、並べて書いてみてくれないか。覚えている範囲で、構わない」
お咲は、不思議そうな顔をした。
「並べて、とは」
藤丸は、近くにあった木切れで、土の上に線を引いた。
「こうして、品の名を一つずつ書いて、横に、戻ってくるまでの日数を書く。紙、二十日。乾物、それより早く。そうすれば、紙だけ見ていたときには分からなかったことが、見えてくるかもしれない」
「太助様が、田のことを聞かれたときと、同じですね」
お咲が、ふと言った。藤丸は、その言葉に少し驚いた。
「太助は、一つひとつの田のことは、よく覚えていた。でも、並べて比べることは、していなかった」
「うちも、同じかもしれません。父の荷のことは、よく知っているつもりでしたが、こうして並べたことは、一度もありません」
お咲は、しばらく藤丸の顔を見ていた。それから、小さく頷いた。
「やってみます」
それだけだった。帖そのものを渡したわけではない。やり方の、ほんの端を、見せただけだった。それでも、藤丸にとっては、初めての一歩だった。
* * *
夜、藤丸は文机に向かい、帖を開いた。
椎茸、次郎兵衛、定め――その先に、新しい言葉を書き加える。
今年秋、有る分を必ず届ける約。来年より増、見込み有り。
それから、少し場所を空けて、もう一行。
お咲に、並べて見る形を、一つ頼んでみた。
短い文字だった。だが、空白だった帖の隙間に、また一つ言葉が増えたことが、藤丸には、これまでとは違う重みに感じられた。帖の中身は、まだ自分一人のものだ。だが、帖のやり方は、今日、少しだけ、自分以外の手にも渡った。
筆を置き、墨が乾くのを待つ。文机の上で、帖は静かに、その一行を抱えていた。
今回、藤丸は「はっきりした答えを出さねば」という思い込みから抜け出し、お咲の言葉をきっかけに「分からないことは分からないと伝え、できることだけを小さく約束する」というやり方にたどり着きます。父・昌源に案を伝えた際の「分からぬことを、分からぬまま伝えるか。それも、一つのやり方じゃ」という反応にも、藤丸の判断を静かに受け止める様子が表れていました。
また、甚兵衛の探りに何も答えなかったお咲の姿を見て、藤丸は「疑って確かめるのでは、せっかくのことが台無しになる」と考え、直接問い詰めることをしません。そして帖そのものは渡さないまま、「並べて比べる」というやり方の端だけを、初めてお咲に見せることになりました。
帖の中身は今もまだ藤丸一人のものですが、そのやり方が少しずつ誰かに渡り始めた——今回はそんな小さな変化のお話でした。




