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太助の田

太助と畔を歩くうち、藤丸は「知っていることと、並べて比べること」の違いに気づきます。帖を一人で抱える怖さと、昌源の静かな胸算用が重なる一話です。

「藤丸様、こっちのあぜはどうでしょうな」


太助たすけが指す先には、田の隅にある小さな土地があった。藤丸は小さな体で精一杯背伸びをして、その土を覗き込む。


「ここ、しめってる」


「ほう。よくお分かりで」


太助は感心したように頷いた。藤丸の目には、その土地が他より少し湿っているように見えた。水はけが悪い場所だ。麦や蕎麦そばには向かない。


春からこの数日、藤丸は太助について畔を歩いていた。秋に米を収穫したあとの田に、麦や豆を植えられないか。米だけに頼らず、もう一つの収穫を得られないか――その思いつきを、太助に相談していたのだった。


「ここは前に大雨のとき、水が溜まりよりました」


太助はそう言いながら、別の田を指した。


「ここは、去年豆がよく穫れたとこです」


「ここは、日当たりがようて、いつも一番先に乾く田で」


太助は次々と、田にまつわる話をした。どの田がどうだったか、太助はよく覚えている。藤丸はそれを聞きながら、少し不思議に思った。


(知ってるのに……)


太助の話は、一つ一つの田の思い出のようなものだった。あの田は、あのとき、こうだった。この田は、去年、こうだった。けれど、「どの田が麦に向くか」とまとめて並べて考えることは、まだしていないようだった。


「藤丸様の仰る通りで。……いや、それにしても」


太助が手を止めて、藤丸の顔を見た。


「わしは、どの田がどうだったか、ちゃんと覚えとります。なのに、藤丸様に聞かれるまで、麦に向く田がどこかなんて、考えたこともありませんでした」


「?」


「藤丸様に聞かんと、分からん。困ったことに」


太助はそう言って、苦笑いを浮かべた。藤丸はそのとき、ふと引っかかるものを感じたが、それが何なのかは、まだうまく言葉にならなかった。


*  *  *


太助との畔歩きを終えて村を出ようとしたとき、藤丸はおさきとすれちがった。お咲は籠を抱えて、何かの葉を集めている途中らしかった。


「藤丸様、また畔を見て回っとったの」


「うん。麦に向く田、探してた」


「ふうん」


お咲はそう言って、籠の中の葉を見せてきた。


「これ、何の葉か分かる?」


藤丸は覗き込んだが、見たことのない葉だった。


「分からない」


「うちも分からん。でも、苦いって聞いたから、何かに使えるかと思って摘んでみたの」


お咲はそう言って、けらけらと笑った。藤丸はその様子を見ながら、ふと考えた。


お咲は、知らない葉をただ知らないままにしない。「何に使えるか」という問いに変えて、確かめにいく。


(それ、自分が帖でやっていることと、似てるかもしれない)


太助の話も、椎茸のことも、藤丸はいつも「これは何に使えるか」「どちらが向いているか」という問いに変えてきた。知っているか知らないかではなく、目の前のことを問いに変えられるかどうか――お咲には、その動きが自然にできているのかもしれない。


それ以上のことは、まだ考えがまとまらなかった。藤丸はお咲とともに、屋敷へ向かって歩き出した。


*  *  *


その夜、藤丸は布団の中で、太助の言葉を思い出していた。


「藤丸様に聞かんと、分からん」


太助だけではない。甚兵衛じんべえも、平六へいろくも――誰かに何かを尋ねられると、藤丸はいつもちょうを思い浮かべる。椎茸しいたけのこと、紙のこと、乾物のこと、畔のこと。書き込んできたあの帖には、藤丸しか目を通さない。


もし自分が、明日この家からいなくなったら。


そう考えて、藤丸は少し怖くなった。畔のどこが麦に向くか、椎茸がどの季節に多く出るか、文吉ぶんきちがどんな紙を欲しがっているか――それを知っているのは、自分一人だけだ。誰かに聞かれて初めて答えられる。誰も、自分に聞かなければ、何も分からないままだ。


太助の言葉を思い出す。


「藤丸様に聞かんと、麦に向く田がどこかなんて、考えたこともありませんでした」


太助は、田の一つ一つをよく知っている。なのに、それを並べて比べることは、まだしていない。藤丸が持っているのは、もしかしたら、太助の知っていることを「並べて比べる」やり方そのものなのかもしれない。


それなら、帖そのものを誰かに渡さなくても、やり方だけを少しずつ教えることはできるだろうか。


(お咲なら……)


お咲はいつも、藤丸の話を面白がって聞いてくれる。椎茸のときも、傷んだ木のことも、お咲が先に気づいたから、藤丸の考えが進んだ。


でも、教えるということは、それだけ多くを預けるということでもある。お咲が、誰にも言わずにいられるか。藤丸にはまだ、それを確かめる機会がなかった。


帖をすぐに見せるのは、まだ早い気がする。けれど、考え方――水はけを見る、日当たりを見る、並べて比べる、そういうことなら、少しずつ話してみてもいいかもしれない。


藤丸はごろりと寝返りをうった。


(今度、お咲に話してみようか)


答えはまだ出ない。けれど、何も思いつかなかったこれまでとは、少し違う気がした。


帖は今夜も、文机ふづくえの上で、藤丸一人だけを待っている。


*  *  *


翌朝、藤丸は昌源しょうげんの文机のそばに座り、昨日のことを話した。太助との畔歩き、お咲の葉、それから帖のこと――帖そのものの中身までは話さなかったが、「一人で抱えるのは、少し心配になった」ということだけは伝えた。


「ふむ」


昌源は筆を置き、藤丸の顔を見た。


「太助は、何と言っておった」


「藤丸様に聞かんと分からん、って」


「お咲は」


「何も。まだ、話してない」


「なぜ、話さなかった」


藤丸は少し考えた。


「お咲が、誰にも言わずにいられるか、まだ分からないから」


「ほう」


昌源はそれだけ言って、わずかに目を細めた。それ以上は何も言わなかった。


昌源は少し黙った。それから、いつもと変わらぬ声で言った。


「お前の好きにせよ。誰に話すかも、何を話すかも」


「うん」


藤丸はそれだけで満足して、文机を離れた。


藤丸が部屋を出たあと、昌源はしばらく筆を持たぬまま、障子の方を見ていた。


三男に、傅役もりやくをつけるべきか。これまでは、親信ちかのぶにも親直ちかなおにも、武芸や行儀の師がついていた。それは、武芸を磨くため、行儀を整えるための師だった。藤丸に必要なのは、おそらく違う種類の師だろう。誰に何を話し、誰に何を隠すか――その見極めを、まだ藤丸一人でやらせている。


藤丸には、まだ誰もいない。藤丸が一人で抱えていることが増えているのなら、それを支える誰かが、いずれ必要になるかもしれない。


昌源はそこまで考えて、また筆を取った。今はまだ、考えるだけでいい。

今回、太助の「藤丸様に聞かんと、分からん」という一言から、藤丸は自分がしていることの正体に触れます。太助は田の一つ一つをよく覚えているのに、それを並べて比べることはしていない――藤丸が持っているのは、知識そのものというより「並べて比べるやり方」なのかもしれない、という気づきです。

同時に、帖を自分一人だけが見ている現状に、藤丸は初めて怖さを覚えます。お咲に教えるかどうか迷いながらも、まだ答えは出せませんでした。

そして最後、昌源が藤丸に「傅役」が要るのではないかと静かに考え始める場面は、これまでの兄二人とは違う種類の師を、藤丸のために探し始める第一歩です。この考えが、この先どんな出会いに繋がっていくのか、楽しみにしていただければ幸いです。

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