平六の山
「どれだけ、いつ」を知るため、藤丸はお咲と共に平六の山を訪ねます。傷んだ木に多く生える椎茸を見て、藤丸の頭の隅に、朧げな何かがよぎる一話です。
帖に一行目を書き入れてから、十日ほどが過ぎていた。
椎茸、次郎兵衛、定め――そこから先が、まだ動いていなかった。次郎兵衛に「どれほど、いつ頃」と問われたまま、答えを持たずにいる。
藤丸は、文机の引き出しから帖を取り出し、もう一度その一行を見た。
(定めるには、まず知らねばならぬ)
椎茸がどれだけ採れるのか。いつ採れるのか。平六に聞けば、何かが分かるはずだった。
藤丸は屋敷を出て、裏山の麓へ向かった。途中、井戸端でお咲を見かけ、足を止める。
「お咲。これから、平六のところへ行く。椎茸のことを尋ねに」
「椎茸の――」お咲の顔が、ぱっと明るくなった。「藤丸様、私もご一緒してよろしいですか。前に、また連れて行ってほしいと申しましたから」
藤丸は、その言葉を思い出した。山道を下りながら、お咲が確かにそう言っていた。
「父上に、伺ってからだ」
昌源のもとへ行き、二人で許しを求めた。昌源は少し眉を上げたが、前と同じ条件を口にした。
「平六が付くなら、構わぬ」
* * *
裏山の麓で、平六が竹の杖を手に待っていた。
「お二人揃って、何用じゃ」
「椎茸のことを、もう少し詳しく知りたい」藤丸が言った。「いつ、どれだけ採れるのか」
「ほう」平六は少し意外そうな顔をしたが、すぐに歩き出した。「ならば、山を見てもらうのが早い。来な」
三人は里山の道を登った。前に来た時より、木々の緑が濃くなっている。鳥の声も、前よりにぎやかだった。
杣小屋に近い場所まで来たところで、平六が足を止めた。
「ここから先に、椎茸の生える木が多い」
道の脇には、倒れた古木や、切り出されたまま放置された丸太がいくつも転がっていた。お咲が、その中の一本に目を留め、しゃがみ込んだ。
「藤丸様、これを見てください」
藤丸が近づくと、お咲が指差したのは、樹皮の裂けた古い丸太だった。裂け目のあたりに、椎茸が何枚も重なるように生えている。すぐ隣に転がる、樹皮の傷んでいない丸太には、一つも見当たらなかった。
「平六、これは――」
「ああ、それか」平六は、当たり前のことのように言った。「椎茸は、傷んだ木に多く生える。前から、そういうものだと知っとる。皮の裂けたところ、虫に食われたところ、雨で腐りかけたところ――そういう場所に、よく出る」
「傷んでいない木には、出ないのか」
「出ないわけではないが、少ない。傷んだ木のほうが、ずっと早く、ずっと多く出る」
藤丸は、裂け目のあたりを見つめた。お咲も、隣で同じ場所を見ていた。
「では、いつ採れるのだ」
「春と、秋が多い。夏は暑すぎて、冬は寒すぎる。だが、その年の雨の多さや、木の傷み具合次第で、ずいぶん違う。多い年もあれば、少ない年もある。約束できる数ではない」
平六の言葉に、藤丸は小さく頷いた。
(量も、時季も、はっきりとは定まらぬ)
次郎兵衛が求めていた答えは、ここにはなかった。代わりに、別のものが、藤丸の目の前にあった。
平六が、丸太の裂け目を竹の杖でなぞった。
「来年もまた、ここに出るだろう。だが、どれだけ出るかは、木次第、年次第としか言えぬ」
藤丸は、その裂け目を見つめ続けていた。何かが、頭の奥で小さく動いている。はっきりとした形ではない。ただ、似たものを、どこかで見た気がした。木の幹に傷をつけて、何かを育てる――そんな景色を、遠い昔に、何かの折に目にした覚えがある。だが、それがどこで見たものかも、何のためのものだったかも、思い出せなかった。
(朧だ。だが、何かはある)
「平六」藤丸は、ゆっくりと言った。「傷んだ木に多く生えるなら――最初から、傷をつけてみたら、どうなるだろう」
平六が、杖を止めた。
「傷を、つける、とは」
「皮を、わざと裂いてみる。虫に食われるのを待たず、こちらで先に、傷を作っておく」
平六は、しばらく黙っていた。それから、丸太の裂け目と、藤丸の顔を、何度か見比べた。
「……試したことは、ない。自然に傷んだ木に出るのは、知っとる。だが、わざと傷をつけて、同じことが起こるかどうかは、わからん」
「うまくいくとは、思っていない」藤丸は、すぐにそう続けた。「ただ、傷んだ木に多く出るのが本当なら、傷をつけることで、何か変わるかもしれない。一度、試してみたい」
お咲が、二人の話を黙って聞いていた。それから、丸太の裂け目に、もう一度目を落とす。
「もし傷をつけた木にも生えたら、いつ生えるかが、少しは見当をつけられるようになりますね」
「そうだ」藤丸は頷いた。「いつでも、どれだけでも、とは言えぬ。だが、何もわからぬよりは、ましになる」
平六は、丸太を一本選び、竹の杖の先で軽く叩いた。
「よし。あちらに転がっている木のうち、何本か選んで、皮に傷をつけておく。生えるかどうかは、来年か、もっと先になるか、わからぬが」
「待つしかない、ということか」
「山のものは、急いては育たぬ。傷をつけたところで、すぐに椎茸が出るわけでもない。気の長い話になる」
藤丸は、その言葉を、静かに受け止めた。
(すぐに答えが出るものではない。だが、何もしなければ、何も変わらぬ)
平六は、近くにあった鉈を取り出し、丸太の一本に、浅く切り込みを入れた。お咲が、その様子を興味深そうに覗き込む。
「これで、しばらく様子を見る。来年、もう一度来てもらえれば、何か分かるかもしれぬ」
「うん。また、来る」
お咲が、嬉しそうに藤丸を見た。
「私も、また参ります」
山を下りる道で、藤丸は今日のことを、頭の中で整理していた。
次郎兵衛が求めていた「どれほど、いつ頃」という問いに、はっきりとした答えは出せなかった。春と秋に出ること、量は年によって変わること――それだけが、今わかったことだった。
その晩、藤丸は文机に向かい、帖を開いた。
椎茸、次郎兵衛、定め――その先に、新しい言葉を書き加える。
春・秋に多し。量は年により定まらず。傷をつけた木、試し中。
短い覚え書きだった。だが、空白だったところに、いくつかの言葉が並んだだけで、何もなかった時とは違う重みがあるように、藤丸には感じられた。
椎茸が、傷をつけた木からどれだけ生えるかは、まだわからない。次郎兵衛への答えも、まだ定まっていない。それでも、今日見た裂け目の景色は、藤丸の中に、小さな種のようなものを残していた。
障子の外で、夏に近づいた夜風が、低く鳴っていた。
今回、平六の案内で「椎茸は傷んだ木に多く生える」という経験則を知った藤丸は、「ならば、最初から傷をつけてみたら」という一歩を思いつきます。まだ発明というほどのものではなく、平六自身「試したことはない」と答えるところが、この時期らしい手探り感を伝えているように思います。
「朧だ。だが、何かはある」という藤丸の内心には、前世の記憶がぼんやりと重なっているようですが、はっきりとは思い出せません。この種明かしを急がず、少しずつ形にしていく書き方が、今回も丁寧に描かれていました。
帖に書き加えられた「傷をつけた木、試し中」の一行が、来年、どんな答えを運んでくるのか、楽しみにしていただければ幸いです。




