藤丸の帖
椎茸が次郎兵衛に好評だったのも束の間、「次はどれだけ、いつ」と問われた藤丸は初めて答えに詰まります。頭の中だけでは追いつかなくなったその日、藤丸は一冊の帖を書き始めます。
早春の風はまだ冷たいが、日差しには柔らかさが混じり始めていた。岡豊の屋敷の縁先で、藤丸は甚兵衛の戻りを待っていた。庭先の梅はすでに散り、代わりに若芽が枝先を覆い始めている。
やがて、見慣れた背に荷を負った甚兵衛の姿が見えた。安芸まで往復した足は、いつもより重そうに見えた。
「若様、お待たせいたしました」
甚兵衛が荷を下ろし、息を整えながら座った。藤丸はすぐに身を乗り出す。
「椎茸は……どうだった」
「次郎兵衛様は、なかなか具合がよいと仰っておりましたぞ」
甚兵衛が懐から折りたたんだ紙を取り出し、藤丸の前に置いた。次郎兵衛から聞いた言葉を書き留めたものだという。
「『あれは船に積んでも傷まぬ。うちの魚や貝は、干したところで日が経てば味が落ちる。椎茸は、急いで運ばずとも傷む心配が少ないというのが、何よりよい』と、そう仰っておりました」
藤丸は紙を手に取り、目を落とす。船に積んでも傷まない――それは藤丸が思っていた以上の言葉だった。久武の山で採れたものが、海を渡る荷物として認められたということだ。
「他には、何か」
「『これからも、椎茸があれば回してほしい』とのことでございます。一度きりの品ではなく、続けて欲しいと」
「次は、どれほど、いつ頃にと聞かれたのですが……」
甚兵衛が少し困った顔をする。
「すぐにはお答えできず、『次に伺った時に、お応えいたします』とだけ申し上げて参りました」
藤丸はその言葉に、小さく頷いた。それは甚兵衛の落ち度ではない。今までは、平六に聞き、文吉に聞き、仁助に聞き、藤丸の頭の中で組み合わせて答えていた。だが「次は」と問われた途端、頭の中だけでは追いつかなくなっている自分に気づいた。
「次郎兵衛殿は、どれほどの量を望んでおられるのだろうか」
「さあ……それも、はっきりとは申されませんでした。ただ、船に積むものゆえ、あまり多すぎても困る、少なすぎても話にならぬとは仰っておりましたが」
「つまり、丁度よい数を、こちらで考えねばならぬということか」
「左様でございましょう」
甚兵衛は申し訳なさそうに頭を下げたが、藤丸はそれを責める気にはならなかった。丁度よい数がどれほどかは、次郎兵衛自身にも、はっきりとは分かっていないのだろう。だからこそ、こちらが見定めて示す必要がある。
「甚兵衛、よくやってくれた」
「いえ、殿が見立てた品でございますから」
甚兵衛が頭を下げる。藤丸はその言葉に頷きながらも、頭の中では別のことを考えていた。紙は文吉、乾物は仁助、海産物と今度の椎茸は次郎兵衛、木と猪は平六――それぞれの品が、それぞれの相手と結びついている。だが、誰が何を、どれだけ、いつ運んでいるのか。それを一つにまとめて見ている者は、まだいない。
甚兵衛が辞去すると、屋敷はまた静かになった。今までの取引は、品を渡し、対価を受け取れば、それで一つが終わっていた。だが今度は、次がある。続くという前提で物事を考えるのは、藤丸にとって初めてのことだった。
* * *
甚兵衛が下がってから、藤丸はしばらく縁先に座ったままだった。次郎兵衛からの言葉を書き留めた紙を、もう一度広げる。
定めて欲しい、と言われた。どれほど、いつ頃と問われ、答えられなかった。それは喜ばしいことのはずだったが、藤丸の頭の中では、喜びよりも先に、別のことが動き始めていた。続けるということは、次は今いつ、どれだけ運べるかを、こちらが先に答えられなければならないということだ。今までのやり方では、いつか間に合わなくなる。
藤丸は腰を上げかけたところで、ふと立ち止まった。これまで甚兵衛に託した品を、順に数え直してみようとする。紙は何度、乾物は何度、椎茸は今回が初めて――そこまでは思い出せたが、いつ、どれだけだったかとなると、はっきりしない。半月前だったか、ひと月前だったか。量も、多めに頼んだ時とそうでない時があったはずだが、頭の中ではもう混じり合っている。
藤丸は小さく息をついた。覚えているつもりだったものが、思い出そうとした途端、心当たりのない隙間ばかりになる。これでは、次に「どれだけ」と問われても、答えられない。
藤丸は立ち上がり、自室に戻った。文机の引き出しから、まだ使っていない帖を一冊取り出す。表には何も書かれていない、白いままの帖だった。
腰を下ろし、墨を擦りながら、何を書けばよいのかを考える。ただ品の名を並べるだけでは、次郎兵衛に「どれだけ、いつ」と問われた時に答えられない。品の名、相手の名、いつ運んだか、どれだけ運んだか――この四つが揃っていなければ、台帳としては使えないだろう。
父・昌源の文机には、年貢や蔵米を記した帖が幾つも積まれている。藤丸はそれを思い出した。あの帖も、ただ数を書き並べているわけではない。誰の田から、いつ、どれだけ納められたか――それが分かるように記されている。藤丸が作ろうとしているものは、それと同じ仕組みを、年貢ではなく商いに当てはめたものに過ぎない。
親信兄上は戦の前触れを見る。駒丸兄上は人の隙間を見る。自分はこれまで、商いの糸口を見ることを己の役目としてきた。だが糸口を見つけるだけでは、もう足りないところまで来ている。見つけた糸を、束ねて手元に置いておく場所が要る。それが、この帖になるのだろうと藤丸は思った。
だが、それは誰に見せるべきものでもない。甚兵衛にも、平六にも、お咲にも、断片だけを伝えればいい。何を試すか、何を運ぶか、それだけを。全体の形を知っているのは、今は自分一人でいい――それは隠し事ではなく、まだ誰の手にも余る重さだからだと、藤丸は思っていた。
墨の匂いが部屋に満ちる間、藤丸は何度も考えを巡らせた。やがて筆を取り、墨を含ませる。白い帖に向かって、藤丸は手を止めた。何から書けばいいのか、一瞬迷う。
品、相手、時季、量――まず四つの文字を、紙の端に小さく書き付ける。それから本紙の一行目に向き合った。
椎茸、次郎兵衛、定め、というところまで考えて、筆を下ろした。
一行目の墨が、紙の上に小さな筋を引いて乾いていく。それはただの文字だったが、藤丸の目には、ばらばらだった品と人を、初めて一つに結び留めた線のように見えた。
今回、椎茸が「傷みにくい」という思わぬ利点で喜ばれたことよりも、「続けてほしい」と言われて初めて答えに詰まったことの方が、藤丸にとって大きな出来事だったように思います。紙・乾物・海産物・椎茸・木——それぞれ別々に相手と結びついていた品を、誰も一つにまとめて見ていないという事実に、藤丸自身が気づいた回でした。
父の年貢帳をお手本に、「品・相手・時季・量」を記す帖を作り始める場面は、これまでの糸口探しから一段進んだ、藤丸なりの仕組み作りの第一歩です。ただし、その帖の全体像は今のところ藤丸一人だけが知っている——隠し事というより、まだ誰の手にも余る重さだから、という判断も、藤丸らしいところでした。
白い帖に記された最初の一行が、この先どう育っていくのか、楽しみにしていただければ幸いです。




