藤丸の筋
猪を村の外へ出すには、まず村への筋を通さねばなりません。誰かに任せず、自分の口で語る――藤丸が初めて「村の年寄」という新しい相手に向き合う一話です。
平六に村への断りの話をしてから、二日が過ぎていた。
藤丸は、自分の文机の前で、何度も同じところで考えが止まっていた。
(村に断りを通す、とは――誰に、何を言えばいいのだろう)
甚兵衛なら、すぐにできることかもしれない。だが父・昌源の言葉を思い出すと、それでは意味が違う気がした。
――一度きりで終わらせるな。やるなら、結果を見て、次に何をするか、お主自身で決めよ。
甚兵衛に任せれば、楽だった。だが、それでは「お主自身で決めよ」という言葉から、また一歩離れてしまう。
藤丸は、裏山の麓へ平六を訪ねた。
「平六。猪を、よそへ出す件で、村に断りを通さねばならぬ。誰に、どう話せばいい」
平六は、しばらく考えてから言った。
「村のことなら、太助という年寄がおります。猪や雉のことも、たいていはあの方の耳に入りますで」
「太助殿は、どういう人だ」
「悪い人ではございません。ただ、村のことには、人一倍、念を入れる方でございます」
藤丸は、頷いた。
「平六が、話してくれるのか」
平六は、少し困った顔をした。
「それも、できぬわけではございませぬが――藤丸様。これは、わたしから申すより、藤丸様御自らお話しになったほうが、よろしいかと存じます」
「何故だ」
「猪を出すと決めたのは、藤丸様にございます。決めた方が、ご自分の口で筋を通す。それが、村の年寄には、何よりも通りがよろしいのです」
藤丸は、その言葉を、胸の中で繰り返した。
(誰かに任せず、自分で話す――)
これまで、村の者と直に向き合ったことは、なかった。文吉や仁助、次郎兵衛とは話したことがある。だが、それはみな商人だった。村の年寄というのは、藤丸にとって、初めて会う種類の相手だった。
「わかった。太助殿のところへ、案内してくれるか」
平六は、少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「承知いたしました。明日にも、参りましょう」
* * *
翌日の昼前、藤丸は平六に連れられて、村の外れにある一軒の家を訪ねた。
軒先に薪が高く積まれ、土間の隅には、見たことのない道具がいくつも並んでいた。声をかけると、しばらくして、白髪の混じった男が出てきた。これが太助だった。
太助は、藤丸の姿を見て、少し意外そうな顔をした。
「これは――久武様の若様が、何用で」
「太助殿に、お願いがあって参りました」
藤丸は、まず頭を下げた。それから、用件を一つずつ話した。平六の獲った猪の干し肉を、ほんの少しだけ、安芸の商人に試しに渡したいこと。父から、よそへ出すなら、まず村に断りを通せと言われたこと。
太助は、黙って聞いていた。話が終わると、しばらく間を置いてから、低く言った。
「若様。猪は、村の年寄や、病に臥せった者のための備えにございます。それを、よそへ出すと申されますか」
藤丸は、その言葉を、まず受け止めた。
「太助殿。村の備えを減らすつもりは、決してございません。出すのは、ほんの少量だけ。次の猟で獲れた分のうち、村の取り分を確かと残し、その上で余る分だけを、試しに使わせていただきたいのです」
太助は、まだ表情を変えなかった。
「量のことは、わかりました。ですが――平六の分が、よそへ出ると知れれば、他の猟師たちも、同じように望むやもしれませぬ。誰の分は出してよく、誰の分は駄目なのか、決めるのは容易うございませぬ。それに、よそで悪く言われれば、責めを負うのは平六にございます。久武様ではございませぬ」
藤丸は、その言葉に、すぐには答えられなかった。
(量だけの話ではなかったのか)
太助が案じているのは、他の猟師との公平さと、平六一人が責めを負う立場に置かれることだった。
「太助殿。今度のことは、あくまで一度だけの試しにございます。これをもって、誰もがよそへ出せるようになる、というものではございません。平六の分だけを、わたしが頼んだこととして扱っていただきたく存じます。また、何か不都合があれば、真っ先にわたしのところへお知らせください。平六一人に、責めが及ぶことはないようにいたします」
「若様御自らが、そこまで仰せになるなら……」
太助は、藤丸の顔を、しばらく見ていた。
「よろしい。次の猟の分から、村の取り分を確かと残した上で、余る分だけ、一度きり、試させていただきましょう。ただし――これは久武様が引き受けられたこと。平六にだけ、後で苦労をかけるようなことになれば、わたしも黙っておりませぬぞ」
「承知いたしました」
藤丸は、深く頭を下げた。
太助は、それ以上は何も言わず、軒先の薪に目をやった。話は、それで終わりだった。
* * *
帰り道、平六が並んで歩きながら、ぽつりと言った。
「太助殿が、あれほどすぐに頷くのは、珍しゅうございます」
「そうなのか」
「へえ。あの方は、村のことになると、なかなか首を縦に振らぬ方でして」
藤丸は、それを聞いて、少し考えた。
(量のことだけなら、もっと早く片づいたはずだ)
太助が本当に気にしていたのは、よその評判ではなく、村の中の公平さと、平六一人に負担が偏ることだった。そこに答えを返してから、初めて話が動いた。
(甚兵衛や父に任せていたら、ここまで気づけなかったかもしれない)
商人との取り決めとは、勝手が違った。文吉や次郎兵衛は、損得で動く。だが太助は、村という、損得だけでは測れないものを背負っていた。
藤丸は、その違いを、今日初めて、肌で感じた気がした。
山道を下りながら、藤丸は何度か、太助の家のほうを振り返った。
軒先の薪の山は、もう木立の向こうに隠れて見えなかった。それでも、藤丸の足は、来たときよりも、少しだけしっかりと地を踏んでいるように感じられた。
今回、藤丸は初めて商人ではなく「村の年寄」太助と向き合います。太助が案じていたのは量の多寡ではなく、他の猟師との公平さと、平六一人に責めが偏ることでした。損得で動く商人とは違う理屈に、藤丸は今日初めて触れたことになります。
「甚兵衛や父に任せていたら、ここまで気づけなかったかもしれない」という藤丸の実感は、これまでの人任せではない一歩を、また一つ積み重ねたことを示しています。
帰り道、藤丸の足取りが「来たときより、少ししっかりと地を踏んでいる」という描写に、今回の手応えがよく表れていました。




