藤丸の覚え
猪の干し肉を試しに次郎兵衛へ送ってみますが、思うようには喜ばれません。失敗を数えて終わらせず、原因を一つずつ潰していく藤丸のやり方が描かれる一話です。
甚兵衛が戻ってから、三日が過ぎていた。
次郎兵衛の問い——紙のほかに、何を運べるのか。藤丸は、それを考え続けていた。
手元にあるものを、一つずつ数えた。文吉の紙。仁助の乾物。平六が教えてくれた、杣の木材。それぞれは、すでに誰かと繋がりがある。だが、それを次郎兵衛のところまで持っていけるかは、まだわからなかった。
藤丸は、甚兵衛を呼んだ。
「甚兵衛。乾物は、安芸まで運べるか」
「仁助殿の品なら、量はございます。ただ、次郎兵衛殿のところには、すでに鰒の干物がございましょう。同じ干物を持っていっても、向こうにとっては、目新しいものにはなりませぬ」
藤丸は、頷いた。たしかに、向こうがすでに持っているものを運んでも、意味は薄い。
「木は、どうだ」
「木は、量がございます。が、運ぶには船が要ります。今、紙や乾物を積む程度の小さな船では、木材まではとても」
藤丸は、少し黙った。
(あるものを、ただ運べばいいわけではない。向こうが、何を求めているかを、先に知っておく必要がある)
甚兵衛は、藤丸の顔を見て、静かに言った。
「藤丸様。一つ、よろしいですか」
「うん」
「次郎兵衛殿は、こちらに何を運べるかを聞いてまいりました。これは、向こうが、欲しいものを決めてから言うてきたのではないと、わたしは思うております。むしろ、こちらに聞いてみたという形でございましょう」
藤丸は、その言葉を、頭の中で確かめた。
(向こうも、まだ何が欲しいか、はっきりとは言えぬのだろう。ならば、問うたところで、答えは出てこない)
甚兵衛に聞いて答えが出る話ではなかった。
(聞くのではなく、見ることだ)
紙は、もう渡した。乾物も、向こうにはすでにある。ならば、まだ渡していないものを、少しずつ試しに乗せてみればいい。喜ばれれば、次から増やす。喜ばれなければ、それきりにする。一度に多くを賭けるのではなく、少しずつ確かめながら進む。
藤丸は、そう思いついた。
一度きりの取引ではなく、次の便、また次の便で、何が向こうに合うかを見極めていく。それが、今の自分にできる答えだった。
藤丸は、甚兵衛にその考えを話した。
「次の便で、紙はいつもの通り渡せ。それと、もう一つ——猪の干し肉を、ほんの少しだけ加えてみてくれ」
甚兵衛は、少し驚いた顔をした。
「猪の干し肉、にございますか」
「平六から、この間もらった。塩で締めて、よく乾かしてある。鰒の干物とは、味も違う。喜ばれるかどうかは、わからない。だから、少しだけでいい」
「もし、喜ばれなければ」
「それきりにすればいい。喜ばれたら、次から増やす。多くを賭けず、少しずつ確かめながら進めればいい」
甚兵衛は、しばらく藤丸の顔を見ていたが、やがて頭を下げた。
「承知いたしました。さっそく、量を見繕いましょう」
ただ、平六の獲った猪は、もとより久武の山のものだ。藤丸は、それを勝手に外へ出すことの重みを、わかっていた。
その日の夕方、藤丸は父・昌源の文机を訪ねた。
「父上。お願いがございます」
昌源は、文を読む手を止めて、藤丸を見た。
「申せ」
「平六が獲った猪の干し肉を、少しだけ、安芸の商人へ試しに渡したいのです。山のものを、よそへ出すお許しをいただきたく」
昌源は、しばらく黙っていた。それから、低く言った。
「山の獲物は、村の者たちの口にも入るものだ。よそへ出すなら、まず村に断りを通せ。その上でなら、構わぬ」
「はい」
「それと——」
昌源は、藤丸をまっすぐに見た。
「一度きりで終わらせるな。やるなら、結果を見て、次に何をするか、お主自身で決めよ」
藤丸は、その言葉を、静かに受け取った。
(また、同じことを言われた)
麦の試作のときも、父は同じような言葉をかけた。うまくいかぬときは、理由を自ら申せ、と。今度も同じだった。
「承知いたしました」
藤丸は、深く頭を下げた。
その夜、藤丸は自分の文机——まだ小さな板に過ぎないものだが——の前に座り、紙の切れ端に、今日のことを書き留めた。
次郎兵衛殿。紙。猪の干し肉、少量。次第を見て、増減を決める。
それだけの、短い覚えだった。
帖にまとめるという思いつきは、まだ誰にも詳しくは話していない。甚兵衛にも、何を試すかだけを伝えた。なぜそれを試すのか、この先どこへ繋がる話なのかは、まだ語っていなかった。
(話せば、楽になるかもしれない)
そう思う一方で、藤丸は筆を止めた。
まだ、形になっていないものを、人に見せるのは早い。今は、自分の手元だけに、この覚えを置いておく。誰が何を持っていて、何を求めているか——それを知っているのは、今のところ、自分一人でいい。
紙の切れ端を、文机の小さな引き出しにしまった。
障子の外で、早春の風が、まだ冷たく鳴っていた。藤丸は、その引き出しを、もう一度確かめるように、軽く押さえた。
* * *
数日後、甚兵衛が安芸から戻ってきた。
「次郎兵衛殿は、紙は喜んでお受けになりました。猪の干し肉は……珍しいと、最初は手に取ってくださったのですが」
甚兵衛は、少し言葉を選ぶように続けた。
「献立に出されたところを見ていたのですが、皆様、あまり箸が伸びませんでした。臭みが強い、というような顔をしておられて」
藤丸は、それを聞いて、すぐには何も言わなかった。
(猪が悪いわけではない。臭みが、強すぎたのだ)
「次郎兵衛殿は、何か言っていたか」
「『悪い品ではない』と仰せでした。ただ、それ以上は、何も」
言葉を選んだ気遣いだということは、藤丸にもわかった。気を遣われるということ自体が、答えだった。
その翌日、藤丸は裏山の麓へ足を運び、平六を訪ねた。
「平六。猪の臭みを、抑える手はないか」
平六は、しばらく考えてから言った。
「血抜きそのものは、いつもやっております。獲ってすぐ、血を抜き、川で洗う。それで、家で食べる分には、十分でございました」
「今度は、違うのか」
「今度のは、何日も船に乗り、知らぬ誰かの口に入ります。家で、その日のうちに食べる猪とは、わけが違いまする。血の残りも、塩の効かせ方も、これまでよりずっと念を入れねば、長くは持ちませぬ」
藤丸は、頷いた。
(猪も、平六の腕も、悪くはなかった。これまでと、運び先が違っていたのだ)
「次に獲るときは、家で食う分とは別に、よそへ出す分だけ、特に念を入れてやってもらえるか」
「承知いたしました。やり方を変えて、次第がわかるまで、何度か試させていただきます」
平六は、それだけ言って、軽く頭を下げた。
藤丸は、文机の引き出しから、先日の覚え書きを取り出した。
次郎兵衛殿。紙。猪の干し肉、少量。次第を見て、増減を決める。
その下に、新しい一行を書き加えた。
猪、よそへ出す分は念を入れて。次の便で、もう一度試す。
臭みが消えれば、また少し渡してみる。それでも駄目なら、味付けや乾し方を、もう一度見直す。一度の不評で終わらせず、原因を一つずつ潰していく——それだけのことだった。
派手な答えではなかった。だが、それでいいのだと、藤丸は思った。
覚え書きを引き出しに戻し、藤丸はもう一度、紙の隅に小さく書き添えた。
急がず、一つずつ。
障子の外で、早春の風が、まだ低く鳴っていた。
今回、藤丸は「聞くのではなく、見ること」——少しずつ試して確かめる、という商いの進め方に行き着きます。猪の干し肉は結果として箸が伸びなかったものの、平六から「家で食べる分と、よそへ出す分では、血抜きや塩の効かせ方が違う」という具体的な原因が見えてきました。
一度の不評であきらめず、原因を一つずつ潰していく——派手さのない、地道な姿勢がよく描かれた回だったように思います。父・昌源からの「一度きりで終わらせるな、結果を見て次を自分で決めよ」という言葉も、麦の試作のときと重なる、この親子らしいやり取りでした。
藤丸だけの覚え書きが、少しずつ厚みを増していく様子も見どころです。




