甚兵衛の便り
甚兵衛が安芸から戻り、次郎兵衛の変化を伝えます。お咲から預かった問い「帖は誰が使うのか」に、藤丸が初めて自分の言葉で答える一話です。
杣小屋から戻ってから、五日が過ぎていた。
お咲の問いは、まだ藤丸の中に居座っていた。
――もし、紙も乾物も魚も木も、一つの帖にまとめられたら、それは、どなたがお使いになるのですか。
答えは、まだ出ていなかった。考えるたびに、同じところで止まった。今の自分には、まだ重すぎる問いだった。
その日の午後、裏門のあたりで、女中たちの声が少し高くなった。
「甚兵衛様が、お戻りにございます」
藤丸は、文机から顔を上げた。
* * *
裏門に出てみると、甚兵衛がちょうど荷を下ろしているところだった。お咲が先に駆け寄っていた。
「父上、お帰りなさいませ」
「おお、お咲。留守の間、変わりはなかったか」
甚兵衛の声は、いつもより少し疲れていたが、表情は前の帰りよりも、いくらか柔らかかった。
藤丸が近づくと、甚兵衛は荷の結びを確かめながら、頭を下げた。
「藤丸様。お待たせいたしました」
「次郎兵衛殿は、どうだった。生姜は、届けられたか」
藤丸が問うと、甚兵衛は少し笑った。
「ええ。それが、何よりも先に申し上げたいことでございました」
「娘さんの、咳は」
「もう、ずいぶん良くなっておったそうで。次郎兵衛殿が、何度も礼を申しておりました。商いの品ではなく、家の者を気にかけてもらえたことが、よほど嬉しかったご様子で」
藤丸は、それを聞いて、小さく息をついた。先の訪問で、自分の言葉だけでは形にならなかったものが、今度は確かに相手に届いたらしい。
「それで、紙は」
「お預かりした残り半分、すべてお渡しいたしました。前の倍の量を渡したことになりますが、次郎兵衛殿は、何も訝るふうもなく、受け取ってくれました」
「向こうからは、何か」
「鰒の干物を、前より多めに。それと――今度は、次郎兵衛殿のほうから、こちらに尋ねてまいりました」
藤丸の指が、わずかに動いた。
「尋ねてきた、というのは」
「久武のお家では、紙のほかに、何を運べるのか、と」
甚兵衛は、そこで少し声を落とした。
「これまでは、こちらが訪ねていく一方でした。今度は、向こうから、何が欲しいかを聞かれたのです。これは、前とは違う構えかと存じます」
藤丸は、その言葉を、静かに胸の中で確かめた。
(一度目は、ただ品を交わすだけだった。二度目で、向こうが、こちらに何かを求める側に回った)
商いというものが、少しずつ、ただの取引から、何かもう少し違う形に近づいているのかもしれない。お咲が前に言った「付き合いに変わる」という言葉を、藤丸は思い出した。
「乾物の話のほかに、何か聞いたか」
「ええ、道中で、もう一つ」甚兵衛は、声をやや落とした。「堺のほうでは、近頃、鉄砲の数が、噂だけでなく、実際に増えてきておるとか。前は『火を吹く筒がある』という話でしたが、今は『どこの家でも、いくつか持つようになった』という話に変わっておりました」
藤丸は、それを聞いて、何も言わなかった。だが、胸の中で、何かが小さく動いた。
(前の頃は、まだ噂でしかなかった。それが、もう、形のあるものとして語られている)
時が、また少し進んでいるのだと、藤丸は思った。
* * *
甚兵衛が荷を片付けに行ったあと、藤丸はしばらくその場に立っていた。
次郎兵衛が、こちらに何を運べるかを尋ねてきた。鉄砲が、もう珍しいものではなくなりつつある。どちらも、机の上の数字だけでは捉えられない、何か大きな流れの端のように思えた。
「藤丸様」
声に顔を上げると、お咲が縁先に立っていた。
「父の話、聞かれましたか」
「うん。次郎兵衛殿が、こちらに何を運べるか聞いてきたそうだ」
お咲は、それを聞いて、嬉しそうに頷いた。
「それは、良い知らせですね」
「ああ」
藤丸は、それだけ答えてから、少し迷うように続けた。
「お咲」
「はい」
「山で、お主が聞いたこと――一つの帖にまとめたら、誰が使うのか、という問い。あれから、何度も考えていた」
お咲は、何も言わず、藤丸の言葉を待った。
「まだ、はっきりとした答えは出ていない。だが、今日の話を聞いて、一つだけわかったことがある」
「何でしょう」
「紙が、文吉殿のところで動かなくなっていたとき、乾物の仁助殿の荷と合わせて、船に乗せた。それで、両方が前より運べるようになった」
「ええ、覚えています」
「次郎兵衛殿のところも、同じかもしれない。紙だけでは、向こうにとって、まだ薄い付き合いだった。だが、生姜を添えたことで、向こうが、こちらに何を求めているかを、初めて口にしてくれた」
藤丸は、そこで一度、言葉を切った。
「帖にまとめるというのは、ただ数字を並べることではないのかもしれない。誰が、何を、どれだけ持っていて、何を求めているか――それを知っている者が、それぞれの糸を、繋ぎ合わせる役目を担うことになる」
「それは、藤丸様のことですか」
藤丸は、すぐには答えられなかった。
「まだ、わからない。父上かもしれない。甚兵衛かもしれない。だが――」
もう一度、言葉を探した。
「今、紙と乾物と海のものと木のことを、一番よく知っているのは、自分だと思う。だから、今はまだ、自分が、それを覚えておく役目でいいのかもしれない」
お咲は、しばらく藤丸の顔を見ていた。それから、小さく頷いた。
「わかりました。それなら、私も、父が運ぶものを、もう少し、ちゃんと覚えておきます」
「うん」
「いつか、藤丸様が、それを使う日が来たら、すぐにお答えできるように」
藤丸は、その言葉に、何も返さなかった。ただ、頷いた。
まだ、何も形になっていない。それでも、お咲の問いに、今日はじめて、自分の言葉で、ほんの少しだけ答えられた気がした。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日のことを、一つずつ思い出していた。
次郎兵衛が、こちらに何を求めるかを尋ねてきたこと。堺の鉄砲が、噂から実物に近づいていること。そして、お咲の問いに、はじめて自分の言葉で答えたこと。
帖をまとめるという思いつきは、まだ何も形になっていない。誰がそれを管理するのかも、まだ決まっていない。それでも、今日、ひとつだけ確かなことがあった。
(自分が、それを覚えておく役目でいい。今は、それで十分だ)
答えを急ぐ必要はなかった。次郎兵衛との糸も、鉄砲の噂も、まだこれから、どう育つかわからない種だった。
障子の外で、早春の夜風が、低く鳴っていた。藤丸は、目を閉じた。
今回、次郎兵衛が初めて「久武の家は、紙のほかに何を運べるのか」と自分から尋ねてきたことが伝えられます。生姜という数えられない品を添えたことが、取引を一歩「付き合い」に近づけていたようです。
また、前話からお咲に投げかけられていた「一つの帖にまとめたら、誰が使うのか」という問いに、藤丸は「今、それを一番よく知っているのは自分だから、自分が覚えておく役目でいい」と、初めて自分の言葉で答えます。まだ何も形にはなっていませんが、藤丸自身の立ち位置が、少しだけはっきりした回でした。
堺の鉄砲が「噂」から「実物」に近づいているという話も、静かに時の流れを感じさせます。




