お咲の山
お咲を連れて、藤丸が改めて久武の山を訪れます。里山と霊山の違い、女人禁制の理由への静かな疑い、そして「一つの帖にまとめる」構想が少し輪郭を持つ一話です。
甚兵衛が安芸へ立って数日が過ぎた朝、藤丸はお咲と連れ立って、屋敷裏の山道に立っていた。
「ほんとに、私もご一緒してよろしいのですか」
お咲が、まだ少し信じられない顔で藤丸を見た。山へ行くと約束したのは藤丸の方からだったが、父・昌源に許しを取るまでには、思ったより時がかかった。お咲を山へ連れて行くことに、最初は渋る顔をされたのだ。それでも「平六が付くなら」という条件で、ようやく頷いてもらえた。
「平六が一緒だから、大丈夫だよ」
藤丸が答えたところで、当の平六が竹の杖を片手に、のっそりと現れた。
「待たせたか。さて、行くか」
三人は里山の道を登り始めた。木々の間を抜ける風はまだ冷たく、足元の土には霜の名残があった。道の脇には、まだ芽吹かぬ木々が並び、その隙間から、淡い朝の光が幾筋も差し込んでいる。鳥の声が、思いのほか近くで響いた。お咲は、父・甚兵衛の荷を手伝うことも多いだけに、道々目に入るものを次々と尋ねた。
「この木は、何に使われるのですか」「あの太さだと、どこへ運ぶのでしょう」
平六はその度に、面倒がらずに答えてやった。橡は実が取れる、杉は柱に向く、松は脂が多くて燃やしやすい――山にある木にも、それぞれの役目があるのだと。
「では、細い枝や、曲がった木は、どうするのですか」
お咲が、足元に落ちていた枝を一本拾い上げて尋ねた。
「ああ、それは薪や炭に回す。柱には使えぬが、捨てるものでもない。寒い時期は、村の誰もが欲しがるものよ」
平六がそう答えると、お咲は得心したように頷いた。太い木にも細い枝にも、それぞれ行き着く先があるのだと、藤丸はその様子を見ながら思った。
半刻ほど登ったところで、杣小屋が見えてきた。すでに何度か来ている藤丸にとっては馴染みの場所だが、お咲は目を丸くして小屋を見上げた。中からは斧の音が響いている。
「ここで木を切り出して、川まで運ぶんだ」
藤丸が説明すると、お咲は小屋の奥で作業をしている杣人たちの方を、興味深そうに覗き込んだ。
「女子が来るのは珍しいな」
杣の一人が、笑いながら言った。咎めるような口振りではなかったが、平六が横から付け加えた。
「山によっては、女子は入れぬところもある。山の神が怒ると言うてな」
藤丸は、その話を初めて聞いたわけではなかった。だが今は、わざと知らぬふりをして尋ねた。
「それは、何故なのだ」
「さあな。昔からの決まりごとよ。山の神は気難しいというでな、祟りを恐れて、女子を入れぬ山があるのさ」
平六は、それ以上の理由は知らないという風に答えた。藤丸は素直に頷いてみせたが、内心では別のことを考えていた。
――山を荒らされたくない者たちが、誰も簡単には踏み込めないように、そういう決まりを作ったのかもしれない。神の怒りという言葉は、人を遠ざけるための、よくできた言い回しなのだろう。
もっとも、それを口に出すつもりはなかった。
「では、ここの山は構わぬのですね」
藤丸が確かめると、平六は頷いた。
「ここは里の山だ。霊山ではない。お咲が来ても、誰も文句は言わぬ」
お咲はその話をさほど気にした様子もなく、すでに杣小屋の脇に積まれた丸太に近づいて、手で触れていた。
「これも、誰かが山から運び出すのですね」
ふと、お咲がそう呟いた。「紙も、乾物も、魚も――結局、誰かが手をかけて、ここまで届くのだと、前に申しました。木も、同じなのですね」
* * *
「これも、誰かが山から運び出すのですね」
お咲の一言に、藤丸は丸太を見たまま、少し考えた。
「うん。紙も、乾物も、魚も、木も――どれも、誰かが手をかけて、ここまで来ている」
「ええ」
お咲は、丸太の木肌を指でなぞった。
「父が運ぶ荷も、いつも、誰かの手から誰かの手へ、渡っていくものばかりです。紙は文吉様、乾物は仁助様――それぞれ、別々の方から」
「そうだね」
藤丸は、丸太から少し離れたところに積まれた、別の木の山に目をやった。あちらは、寺の修繕に使うのだと、先日平六から聞いていた。
(紙、乾物、海のもの、そして木)
別々の場所から、別々の人の手を経て、それぞれ別の場所へ運ばれていく。これまでは、その一つひとつを、別の糸として扱っていた。
「もし」
藤丸は、お咲に向かって、ゆっくりと言った。
「もし、これを一つにまとめられたら、どうなるだろう」
「一つに、とは」
「紙がどれだけ要るか。乾物がどれだけ要るか。木がどれだけ運べるか。それを、一つの帖に書きつけておけたら――誰が何を、どれだけ持っているか、すぐにわかるようになる」
お咲は、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「そうすれば、父も、無駄に歩かずに済むかもしれません」
「うん」
藤丸は、それ以上は言わなかった。まだ、思いつきの段階だった。どう帖をつけるのか、誰がそれを管理するのか、考えるべきことは多い。だが、お咲の一言が、その輪郭を少しだけ、はっきりさせてくれた気がした。
* * *
「そろそろ、戻るか」
平六の声で、二人は丸太から離れた。杣小屋を後にし、来た道を戻り始める。お咲は、振り返って、もう一度小屋のほうを見た。
「平六様」
「なんだ」
「また、今度も、連れて来ていただけますか」
平六は、少し驚いた顔をしてから、ふっと笑った。
「物好きな娘よ。まあ、藤丸様が許すなら、構わぬが」
藤丸は、頷いた。
「次は、もう少し先まで見てみたいな」
お咲が、嬉しそうに頷いた。それから、少し考えるような顔をして、続けた。
「藤丸様。もし、紙も乾物も魚も木も、一つの帖にまとめられたら――それを、どなたがお使いになるのですか」
藤丸は、すぐには答えられなかった。
帖を作るところまでは考えていた。だが、それを誰が持ち、誰が使うのか――そこまでは、まだ考えていなかった。父か。甚兵衛か。それとも、いずれ自分自身か。
「……それは」
言葉が、その先で止まった。
お咲は、答えを急かさなかった。ただ、藤丸の横を、黙って歩いた。
山道を下る足音だけが、しばらく続いた。木々の間から差す光が、登りのときより、いくらか強くなっている。麓に近づくにつれ、風の冷たさも、少しずつ和らいでいくのがわかった。
今回、藤丸はお咲・平六と共に山を歩き、「女子を入れぬ山がある」という言い伝えに触れます。表向きは素直に頷きながらも、内心では「山を荒らされたくない者たちが作った、人を遠ざけるための言い回しかもしれない」と考えるところに、藤丸らしい観察眼が表れていました。
また、お咲の「誰かが手をかけて、ここまで届く」という一言から、紙・乾物・海のもの・木を「一つの帖にまとめられないか」という構想が、前回よりもう一歩具体的な形になっていきます。ただし「それを誰が使うのか」というお咲の問いには、藤丸もすぐには答えられませんでした。
この帖の構想が、この先どんな形になっていくのか、楽しみにしていただければ幸いです。




