藤丸の山
台帳の中の「山方」の一行から、藤丸は初めて久武の山と杣の存在を知ります。田とは違う時の流れ、山の理屈に触れる一話です。
霜はとうに消え、若草も伸び切っていた。畔の苗は、もう誰の目にも青々として見える。甚兵衛が安芸へ出立してから、まだ三日ほどしか経っていない。
藤丸は、父の間の隅で、年貢の台帳を広げていた。畔の隅で麦と蕎麦を試したことが、ひと区切りついて以来、こうして台帳に目を通す機会が、以前より増えていた。
数字を一つずつ、目で追う。田の升目。米の量。紙の値。見慣れた並びの中に、見慣れない一行があった。
「山方 壱貫 孫八」
藤丸は、その一行を、何度か読み返した。
(田のことばかり見ていた。山のことは、一度も)
「父上」
昌源が、文机から顔を上げた。
「この『山方』とは、何でございますか」
昌源は、少し間を置いてから答えた。
「山年貢じゃ。木を伐る者から、運上として取る分よ」
「木を、伐る者、とは」
「杣じゃ。久武の山にも、何人かおる」
藤丸は、その言葉を、胸の中で繰り返した。
(山にも、人の手が入っている)
「久武の山、とは、どこにございますか」
「屋敷の裏手から、北へ続いておる。お主も、見たことがないわけではないはずだ」
藤丸は、答えに窮した。北の山並みは、確かに何度も目にしていた。だが、それが「久武の山」であるとは、考えたこともなかった。
「木は、誰でも伐れるのですか」
「いや」昌源は、筆を置いた。「許しを得た者だけよ。勝手に伐れば、咎められる」
「何故、許しが、要るのですか」
「木は、すぐには育たぬ。今ある木を、皆が好きに伐れば、いずれ山は丸裸になる。それでは、誰の得にもならぬ」
藤丸は、頷いた。台帳の数字とは、少し違う理屈だった。田は、毎年植え替えられる。だが山の木は、そう簡単には戻らない。
「もそっと、知りたいか」
「はい」
昌源は、わずかに口の端を上げた。
「平六に聞け。あの男は、山のことなら、誰よりも歩いておる」
* * *
裏門のあたりに、見慣れた背中があった。
「平六」
声をかけると、平六は荷を下ろしながら振り返った。
「これは、藤丸様。今日は、雉を少々」
藁に包まれた荷から、鳥の羽が覗いていた。藤丸は、それを一瞥してから、本題を切り出した。
「平六は、久武の山にも入るのか」
平六は、少し驚いた顔をした。
「へえ。猟をするには、山に入らねば、何も獲れませんで」
「山には、木を伐る者もいると、父から聞いた。平六は、その者たちと、会うことはあるか」
「ありますとも。杣の連中とは、山の中で、たびたび顔を合わせます」
藤丸は、その言葉に、もう少し詳しく聞きたいという顔をした。
* * *
平六は、雉の荷を脇に置いて、立ったまま話し始めた。
「杣の連中は、山の上のほうに、小さな小屋を構えておりまして。木を伐るのも、運ぶのも、おおよそ冬から春先にかけてが多うございます」
「何故、その時季なのだ」
「夏場は、木に水気が多すぎて、重いんでございます。それに、夏は田の仕事もありますから、人手も足りませぬ」
藤丸は、頷いた。木にも、田と同じように、向く時季があるのだと、初めて知った。
「伐った木は、どうするのだ」
「大きいものは、寺の修繕や、橋の架け替えに。細いものは、矢柄や、桶の材に。それと――川に流して、下の浜まで運ぶこともございます」
「国分川を、使うのか」
「へえ。山から伐り出した木を、川に浮かせて、流れに乗せるんでございます。途中で誰かが見張っておらねば、よその者に持っていかれることもございますがな」
藤丸は、その光景を、頭の中で思い描いた。山の上で伐られた木が、川を流れて、いつか自分が見た浦戸の海まで届く。そう思うと、田の畔とはまるで違う、もう一つの道筋が、頭の中に浮かんだ。
「杣の者たちは、好きに木を伐っているわけではないのだろう」
「とんでもございません。どの木を伐るか、村の年寄りと、お屋形のお許しを得てからでなければ。勝手に伐れば、後で揉めますで」
「揉める、とは」
「山は、誰のものでもなく、皆のものでもございます。一人が好きに伐れば、次の年、別の者が困る。それで、誰がどこを伐るか、毎年話し合って決めるんでございます」
藤丸は、それを聞いて、台帳の「山方」の一行を思い出した。あの一貫という数字は、ただの運上ではなく、山を保つための取り決めの一部なのだと、ようやく腑に落ちた。
「平六は、その取り決めの場に出るのか」
「猟師は、杣ではございませんので、出ませんが。話だけは、よく耳に入ります」
藤丸は、それ以上は問わなかった。今日聞いたことだけで、すでに頭の中は、いくつもの像で埋まっていた。
* * *
平六が荷を担ぎ直し、屋敷の裏手へ去っていくのを、藤丸はしばらく見送っていた。
そこへ、井戸端から戻ってきたお咲が、声をかけた。
「藤丸様。平六さんと、何を話していたのですか」
「山のことだ。久武の山に、木を伐る者がいると知った」
お咲は、少し首を傾げた。
「山にも、人が入っているのですか」
「ああ。杣という。許しを得てから木を伐り、川に流して、浜まで運ぶそうだ」
藤丸は、台帳で見た「山方」の一行のことも、お咲に話した。お咲は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
「紙も、乾物も、魚も、それぞれ誰かが運んできてくれるものだと、ずっと思っていました。木も、同じなのですね」
藤丸は、その言葉に、ふと手を止めた。
(紙、乾物、海のもの、そして木――)
これまで、それぞれ別の場所で、別のきっかけから知ったものだった。紙は文吉、乾物は仁助、海のものは次郎兵衛、木は今日の平六。出会った順に、ただ頭の中に並べてきただけだった。
(一つの台帳に、まとめられないか)
田の升目とは違う並びになるだろう。だが、紙がどれだけ動いたか、乾物がどれだけ動いたか、木がどれだけ動いたか――それを一つの場所に書き並べれば、今はばらばらに見えているものが、何か一つの形に見えてくるかもしれない。
まだ、どう書けばよいのかはわからない。台帳の升目を新たに作るのは、父の許しを得てからのことだ。それでも、頭の中には、これまでとは違う形の紙が、一枚、広がった気がした。
「藤丸様。今度、山へ行かれるなら、私も連れて行ってください」
「危ないところでもないらしい。父にも、聞いておく」
お咲は、それで満足したように、井戸端のほうへ戻っていった。
* * *
数日後、平六に連れられて、藤丸は裏山の麓まで足を運んだ。
屋敷からは、半刻ほどの道のりだった。田の畔を抜け、木立が増え、やがて道は山肌に沿って続いた。
斜面の途中、伐られたばかりの木が、何本か横たえられていた。皮を剥がれた木肌が、白く光っている。傍に、太い縄と、見慣れない形の斧が置かれていた。
「あれが、杣の道具でございます」
平六が、指で示した。
藤丸は、その丸太を、しばらく見ていた。今はまだ、ただの木だ。だが、川を流れて、舟になるのか、橋になるのか、それとも誰かの家の柱になるのか。今はまだ、誰にもわからない。
山の上のほうから、人の声が、かすかに聞こえてきた。杣の者たちが、まだ働いているのだろう。
藤丸は、その声のする方角を、しばらく見上げていた。
平六が「そろそろ、戻りましょう」と声をかけた。藤丸は頷き、丸太のそばを離れた。
歩き出してからも、藤丸は何度か、後ろを振り返った。白く光る木肌が、木立の間に見えなくなるまで、その場所を目で追っていた。
今回、藤丸は台帳の「山方」という一行をきっかけに、これまで目を向けてこなかった久武の山と、そこで働く杣の存在を知ります。木を伐るにも許しが要ること、伐る時季が決まっていること、川を使って浜まで運ぶことなど、田とは違う理屈が積み重なっていきました。
お咲の「木も、同じなのですね」という一言から、紙・乾物・海のもの・木という、それぞれ別々に知った品々を「一つの台帳にまとめられないか」という発想が芽生えたのも、今回の大きな収穫です。
まだ丸太のままの木が、この先どんな形になっていくのか――藤丸の頭の中の「新しい紙」がどう育っていくのか、楽しみにしていただければ幸いです。




