藤丸の土産
次郎兵衛への次の荷を前に、藤丸は「数で測れない加減」という壁にぶつかります。お咲の一言がきっかけで、商いに新しい何かが加わる一話です。
霜は、もうどこにも見えなくなっていた。
畔の縁に伸びる若草は、日に日に色を濃くしている。麦踏みの足跡だけが残っていた土も、今はもう、踏まれた跡が見分けられないほど、苗が育っていた。
藤丸は、稽古場の脇を通りながら、その苗の伸びを目で追った。
(水はけの良い田に立てた杭。あれが、どう育つかは、まだ先の話だ)
刈り入れまでは、まだ遠い。穂を選んで残すという思いつきも、頭の隅に置いたままだった。今すぐ形にすべきことではない。それは、もう何度も自分に言い聞かせたことだった。
裏門のほうから、荷を検める音が聞こえてきた。藤丸が歩み寄ると、甚兵衛が荷の中身を一つずつ並べているところだった。
「甚兵衛。次の旅は、もう支度を」
「ええ。暖かくなる前に、もう一度、安芸へ参ろうかと思いまして」
甚兵衛は、紙の束を数えながら答えた。
「次郎兵衛のところへ、また」
「左様で。前に半分だけお渡しした紙の残り、そろそろ動かしてもよい頃合いかと存じます」
藤丸は、その紙の束を見つめた。
(前は、向こうの様子を見るための、ほんの少しだった)
次郎兵衛は、用心深い男だと聞いている。久武の名を出しても、すぐには顔色を変えなかったという男だ。今度は、もう少し踏み込んだ品を持たせるべきだろうか。
「紙の残り半分を、すべて持たせますか」
「すべてとなると、いささか急ぎすぎかと存じます。次郎兵衛も、まだこちらを試している頃合いでしょうから」
「では、どれくらいが」
「そこは、私にもまだ、はっきりとは申せませぬ」
甚兵衛は、紙を畳み直しながら、少し困ったような顔をした。
「商いの加減というのは、数で測れるものでもございません。多すぎれば、こちらが焦っていると見られる。少なすぎれば、本気でないと見られる」
藤丸は、それを聞いて、自分の中で何かが詰まったような気がした。
(数字なら、いくらでも比べられる。だが、これは、数字で測れるものではない)
年貢の升目も、紙の値も、これまでは比べて、見立てればよかった。だが、人の気持ちの加減というのは、台帳のどこにも書かれていない。
「甚兵衛は、これまで、こういうとき、どうしてきたのですか」
「さあ……長く商いをしておれば、なんとなく、見当がつくようになるものです。ただ、それを言葉で申し上げるのは、難しゅうございます」
藤丸は、それ以上は問わなかった。問うても、すぐに答えが出るものではない、ということだけは、わかった。
* * *
その日の昼下がり、藤丸はお咲と並んで、畔を歩いていた。麦踏みはもう終わっていたが、苗の様子を見て回るのは、ふたりのちょっとした習わしになっていた。
「父が、また安芸へ参るそうですね」
「うん。次郎兵衛殿に、もう少し品を渡すことになる」
「何を、持っていかれるのですか」
「紙を、もう少し。それと、乾物も少々」
お咲は、それを聞いて、小さく首を傾げた。
「それだけ、ですか」
「他に何が要ると」
お咲は、すぐには答えなかった。畔の縁に屈み込み、苗の葉先を指で触れながら、しばらく黙っていた。
「藤丸様は、いつも、どれだけ渡すかを、考えておられますね」
「それが、商いの段取りだと思うが」
「ええ。それは、そうだと思います」
お咲は、立ち上がって、藤丸の顔を見た。
「ただ、父がよく申すのです。品を渡すだけでは、ただの取引で終わる。相手の家のことまで、少し気にかけると、取引が、付き合いに変わる、と」
藤丸は、その言葉を、すぐには受け止められなかった。
「家のこと、とは」
「次郎兵衛殿に、お子はおられますか」
藤丸は、答えられなかった。考えてもみなかったことだった。
「……わからない」
「父なら、きっと聞いているはずです。今度、聞いてみますね」
お咲は、それだけ言って、また苗のほうに目を戻した。藤丸は、その横顔を、しばらく見つめていた。
(紙の量を、何度も測り直していた。だが、相手の家の中までは、一度も考えていなかった)
商いの段取りに、数えられないものが混じっている。それは、これまで藤丸が触れてこなかった種類のものだった。
* * *
夕刻、甚兵衛が裏門のところに戻ってきた。お咲が、その姿を見つけて駆け寄った。
「父上、次郎兵衛殿のこと、聞いてきていただけましたか」
「ああ。今日、文吉殿のところで、安芸帰りの商人とたまたま行き合ってな。少し、世間話をしてみた」
甚兵衛は、荷を下ろしながら答えた。藤丸も、その場に近づいた。
「次郎兵衛殿には、幼い娘がおるそうだ。三つか四つくらいだとか」
「娘が」
「それと、近頃、咳が長引いておるとも聞いた。安芸でも、この時季は風邪が流行っておるらしい」
藤丸は、それを聞いて、お咲の昼間の言葉を思い出した。
(家のことを、少し気にかける)
「甚兵衛。乾物のほかに、何か、咳に良いものを持たせることはできますか」
甚兵衛は、少し驚いた顔をした。
「咳に、と申しますと――生姜の干したものなら、少しは家にございますが」
「それを、少し分けて持っていってもらえますか」
「商いの品ではございませんが」
「商いの品でなくてもいい。次郎兵衛殿の娘のために、と言って渡してください」
甚兵衛は、しばらく藤丸の顔を見ていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「承知いたしました。それなら、紙や乾物とは別に、こちらで包んでおきましょう」
お咲が、嬉しそうに言った。
「父上、それなら、私が包みを作ります」
「うむ、頼む」
藤丸は、その様子を見ながら、自分の中で何かが少し変わったのを感じた。
(紙の量を測ることは、商いの段取りだ。だが、生姜の干したものを分けることは、段取りとは呼べない)
数えられるものと、数えられないもの。両方を一つの荷に入れて、初めて、次郎兵衛のもとへ届く何かになるのかもしれない。そう思うと、これまで自分が見てきた「段取り」が、少し狭かったように思えた。
* * *
数日後、甚兵衛はまた荷をまとめ、東へ向かう道へ出立した。荷の隅には、紙と乾物のほかに、お咲が包んだ小さな紙包みが一つ、加えられていた。
藤丸とお咲は、いつものように、門のところでその背を見送った。
「藤丸様」
「うん」
「次郎兵衛殿の娘の咳、早く治るといいですね」
「ああ」
藤丸は、それだけ答えた。お咲は、それで満足したように、家のほうへ戻っていった。
藤丸は、もう一度、畔のほうへ目を向けた。霜はとうに消え、若草はさらに伸びている。水はけの良い田に立てた杭も、青々とした苗の中に、まだ静かに立っていた。
商いの糸も、田の杭も、今はまだ細く、小さい。だが、どちらも、放っておいて育つものではなかった。誰かが手を加え、待ち、また手を加える――そうして、少しずつ太くなっていくものだった。
春の風が、東から吹いていた。甚兵衛が向かった道の先にも、同じ風が吹いているはずだった。
今回、藤丸は品物の「量」ばかりを気にしていたことに気づかされます。お咲の「取引を、付き合いに変える」という一言や、甚兵衛が聞いてきた次郎兵衛の娘の話をきっかけに、生姜という数えられない品を荷に加えることになりました。
「数えられるものと、数えられないもの。両方を一つの荷に入れて、初めて届く何かになる」という気づきは、これまで台帳や升目で物事を測ってきた藤丸にとって、新しい視点だったように思います。
商いの糸も、田の杭も、まだ細く小さいままですが、少しずつ太くなっていく様子が伝わればと思います。




