藤丸の戻り荷
甚兵衛が安芸から戻り、初めての糸口――廻船問屋・次郎兵衛との出会いを報告します。同じ報告を聞いても、藤丸と親直では見ているものが違う、そんな一話です。
十日目の朝、霜はもう薄く、田の縁に消え残るだけになっていた。藤丸が稽古場から戻る途中、お咲が小さく駆けてくるのが見えた。
「藤丸様、父が、戻りました」
声に、力がこもっていた。藤丸は弓を置いたまま、裏門へ急いだ。
甚兵衛は、出ていったときと同じ荷を背負っていたが、その重さの分け方が変わっているのが、遠目にもわかった。日に焼けた顔は、十日前より少し痩せて見えた。
「甚兵衛、ご無事でしたか。十日、長い道中でしたね」
「藤丸様。ただいま、戻りました」
甚兵衛は荷を下ろし、一つ息をついた。それから、懐から小さな包みを取り出した。
「まず、これを。安芸で、お預かりしたものでございます」
中身は、鰒を干したものだった。それほど多くはない。片手に収まる程度の量だった。
「次郎兵衛という、廻船問屋の主人に会えました。安芸の浦で、海のものを商っている男です」
「鰒ですか。岡豊の川では、まず手に入らぬものですね」
「ええ。安芸の岩礁でしか取れぬものだと、次郎兵衛も申しておりました」
「これだけ、ですか」
「いきなり大きな話を持っていっても、相手は乗ってきません。まず、これだけ、お試しにと――そう言われましてな」
藤丸は、その干物を見つめた。多いか少ないかではなく、これが最初の一歩であることはわかった。
「次郎兵衛は、どのような男でしたか」
「用心深い男です。久武の名を出しても、すぐには顔色を変えませんでした。何度か言葉を交わすうち、こちらが本気だと分かってから、ようやく、これを」
「では、向こうも、こちらを試しているということですね」
「ええ。商いというのは、そういうものでございます」
藤丸は、小さく頷いた。机の上の数字とは違う、人と人の間の駆け引きが、そこにあった。
「久武からは、何を渡したのですか」
「紙を、少々。文吉殿からお預かりした分のうち、半分だけをお渡ししました」
「半分だけ、ですか。残りは、なぜ渡さなかったのです」
「安芸では、次郎兵衛のほかにも、声をかけておきたい者が何人かおります。すべてを一人に渡してしまえば、他に回す分がなくなります」
「では、残りは、他の者のために」
「それもありますが、もう一つ。次郎兵衛のような男は、こちらがどれだけの荷を持っているか、それとなく目で測っております。持っている分をすべて見せてしまえば、こちらの懐の中まで、向こうに知られたことになります」
藤丸は、その言葉を一度、自分の中で確かめた。
「すべてを出さぬことで、こちらの大きさを、測らせない――そういうことですか」
「左様でございます」
「それから、もう一つ。次郎兵衛から聞いた話ですが」
「何でしょう」
「内陸のほうに、麦や蕎麦をまとめて買いたがっている商人がいるそうです。米が足りぬ年に備えて、蓄えておきたい者が増えているとか。次郎兵衛の知り合いだそうで、名はまだわかりませぬが」
藤丸は、その話を聞いて、すぐには言葉が出なかった。海のものだけでなく、畑のものにも、買い手がいるかもしれない――それは、まだ形のない、小さな種に過ぎなかった。
「それも、いつか、確かめてみたいですね」
「まだ、ただの噂程度のことです。気を急がれませぬよう」
「わかっています。今は、聞いたというだけで十分です」
報告の最後に、甚兵衛がもう一つ、付け加えた。
「それから……これは、商いとは別の話なのですが」
「何でしょう」
「安芸では、近頃、荷の詮議がいつもより厳しくなっておりました。何を運んでいるか、誰の使いか、これまでより念入りに見られましてな。次郎兵衛のところへ行くにも、一度、足止めを食らいました」
「それは、商いがしにくくなった、ということですか」
「ええ。次郎兵衛も、商人の出入りに気を遣う日が増えたと、こぼしておりました」
藤丸は、それを聞いて、小さく頷いた。
「では、次に行くときは、もう少し早めに支度をしたほうがいいですね」
「左様で」
藤丸にとっては、それだけの話だった。荷が遅れる、足止めを食らう――商いの都合として、頭の中に収めた。
* * *
その晩、廊下で親直と行き会った。
「藤丸。甚兵衛が戻ったそうじゃな」
「はい。安芸の海産物の件、糸口がつきました」
「それは、よいことよ」
親直は、それだけ言って、すぐには立ち去らなかった。
「ところで――安芸の荷の詮議が、近頃厳しいと聞いたが」
「ええ。甚兵衛も、足止めを食らったと」
「ほう」
親直の目が、わずかに細くなった。藤丸とは、どこか違う色をしていた。
「商人の荷をいちいち検めるというのは、よほど何かを恐れているか、よほど何かを隠したいか――どちらかよ」
「それは、商いの話ではないのですか」
「商いの話で片づくこともあろう。だが、こういうのは、たいてい二つ重なっておる」
親直は、それ以上は言わず、口元だけで薄く笑った。
「藤丸は、それでよい。お主は、糸口を見つけたことを、誇ってよかろう」
それだけ言うと、奥へ歩いていった。藤丸は、その背を、しばらく見送った。
(同じ話を聞いて、見ているところが違う)
甚兵衛の足止めを、藤丸は商いの支障として聞いた。親直は、その奥にあるかもしれない何かを、すでに探り始めている目をしていた。
* * *
翌日、藤丸は父・昌源の間で、安芸での成果を報告した。
「次郎兵衛という廻船問屋と、糸口がつきました。鰒の干物を、紙と引き換えに。まだ小さな商いですが、これから続けられればと存じます」
昌源は、その報告を黙って聞いていた。
「内陸の麦や蕎麦を買いたがる商人がいるという話も、次郎兵衛から聞いたそうです。まだ、噂程度のことですが」
「商いの種は、噂のうちから拾うものよ。よかろう」
昌源は、それだけ言って、紙の整理に戻ろうとした。だが、ふと手を止めた。
「荷の詮議が厳しいという話も、聞いておるか」
「はい。甚兵衛が、足止めを食らったと」
「親直から、何か申してきたか」
「……何かを恐れているか、隠したいか、どちらかだと」
昌源は、それに、何も答えなかった。ただ、わずかに目を細めて、しばらく黙っていた。
「お主は、それには踏み込むな。お主の役目は、糸口を太くすることよ」
「承知しております」
藤丸は、それだけ答えて、頭を下げた。
* * *
その夜、藤丸は布団の中で、今日までのことを思い返していた。
鰒の干物。紙の半分。麦と蕎麦という、まだ形のない種。そして、親直の、あの細い目。
(自分の畝は、自分で育てればいい)
安芸の家中で何が起きているのか、それは親直の畝だった。藤丸の畝は、糸口を太くすることだ。今はまだ、両方とも、芽が出たばかりに過ぎない。
障子の外で、初春の風が、まだ少し冷たく鳴っていた。
今回、甚兵衛が安芸の廻船問屋・次郎兵衛との糸口をつけて戻ってきます。「すべてを出さぬことで、こちらの大きさを測らせない」という駆け引きの理屈を、藤丸が自分の言葉で理解していく過程が丁寧に描かれていました。
一方で、安芸の荷の詮議が厳しくなっているという同じ話を、藤丸は商いの支障として聞き、親直は「何かを恐れているか、隠したいか」という別の目で見ています。「自分の畝は、自分で育てればいい」という藤丸の結論に、兄弟それぞれの役割分担が改めて表れていました。
麦や蕎麦を買いたがる商人がいるという、まだ形のない噂も気になるところです。




