藤丸の弓
甚兵衛の帰りを待つ間、藤丸は弓の稽古に身を入れ始めます。そこへ、猟師の平六との出会いも重なる、待つ時間の使い方のお話です。
甚兵衛が安芸へ出てから、五日が過ぎていた。
まだ戻るには早い。それは藤丸にもわかっている。わかっていても、朝起きて顔を洗うたび、つい東の道を見てしまう自分がいた。
その朝も、稽古場から打ち合う音が聞こえてきた。覗くと、親信が木刀を構え、家中の若い衆を相手に小太刀の型を見せていた。藤丸も、これまで月に幾度かは弓を引き、型をなぞる程度の稽古に顔を出していた。だが、それは久武の子として当たり前に課された分だけで、身を入れて取り組んだことはなかった。
(向いている場所が違う、か)
先日、親直に言われたばかりの言葉が、また頭の中で鳴った。自分には戦う場所がない。それはわかっている。わかっているからこそ、何もできずに突っ立っているこの五日間が、妙に落ち着かなかった。
稽古が一区切りついたところで、藤丸は親信に声をかけた。
「兄上。弓の稽古、これからは数を増やしていただきたく」
親信は木刀を下ろし、藤丸を見た。少し驚いたような顔をしている。
「藤丸が、自分から申すとは」
「これまでは、課されただけのことしかしておりませんでした。ですが――今は、何か手を動かしておきたいのです」
親信はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「お主が前に出ることはあるまい。だが、的を外さぬ目を持つことは、お主の役にも、どこかで繋がるはずだ」
その日のうち、藤丸は父・昌源の間を訪ねた。月の決まりの日ではなかったが、許しを得るには、自分から出向くのが筋だと思った。
「父上。弓の稽古を、これまでより身を入れて行いたく思います」
昌源は手を止め、藤丸を見た。
「何故、急に」
藤丸は、考えていた答えを口にした。
「甚兵衛が戻るまで、待つだけでは……気持ちが落ち着きませぬ。それに、的を定めて射るのは、田を見立てるのと、そう遠くないように思うのです」
昌源は、その言葉に小さく笑った。
「弓は、急いて当たるものではない。地に足をつけ、的だけを見よ」
「はい」
「ならば、好きにせよ。ただし――稽古場で励む間は、台帳のことは忘れてよい」
その日の昼から、藤丸は的の前に立つ数を増やした。これまでより的までの間を一歩離し、矢の数も倍に増やした。何度引いても、矢は的の外れた場所に落ちた。
それでも、藤丸には妙な心地よさがあった。台帳の数字や畔の土と違い、的を狙うことだけに頭を使っていればよい。久しく忘れていた、何も考えずに済む時間だった。
矢を引く間は、何も考えずに済む。そう思っていたのに、的を見据えるたび、畔で見た二本の杭が、ふと頭の隙間に滑り込んでくることがあった。
(水を動かすには、人手がいる)
田の水はけを変えるには、畔を掘り、溝を作り直す手間がかかる。久武の家の者だけでは、とても足りない。村の者を借りるにしても、誰に、どう頼めばよいのか、藤丸にはまだ見当がつかなかった。
(甚兵衛が戻れば、村のことにも詳しい者を知っているかもしれない)
そこまで考えて、藤丸は弓を下ろした。今すぐに答えの出ることではない。甚兵衛が戻り、安芸の話が片づいてから、改めて考えればよい。そう思い直し、もう一度、的に向かって弓を構えた。
* * *
稽古を始めて三日ほどした昼下がり、藤丸は的を外し続けた矢を拾いに、稽古場の外れまで足を伸ばした。そこへ、見慣れぬ男が一人、何かを背負って通りかかった。
歳の頃は四十ほど。日に焼けた顔と、山仕事に慣れた足取り。背負っているのは、藁で包んだ大きな荷だった。
お咲が、ちょうど藤丸を呼びに来ていて、その男を見るなり声を上げた。
「あ、平六さんだ」
「お咲、知り合いか」
「うちの近くに住んでる猟師さん。たまに、山のものを持ってきてくれるの」
平六と呼ばれた男は、お咲に気づくと小さく頭を下げ、ついでのように藤丸にも会釈した。
「久武様の若様でしたか。これは――猪の肉でしてな。今朝、山で仕留めたばかりで」
藤丸は荷から覗く、肉の塊に目をやった。米と魚以外の食べ物を、こうして目の前で見るのは初めてのことだった。
「これを、どうするのだ」
「へえ。寒いこの時期は、こうして山のものを食ろうて、力をつけるのです。村の年寄りや、体の弱った者には、ことに」
「平六、その肉は、どこに納めるのだ」
「主に、村の年寄りや、体の弱った者にと。毎日食うものではございませぬが」
「久武の家でも、分けてもらえるか。父に話してみたい」
平六は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「若様がそうおっしゃるなら、お持ちいたしましょう」
その夜、藤丸は昌源に、昼間のことを伝えた。
「猪の肉を、家でも頂けるよう頼みました。寒い時期、年寄りや体の弱った者の力になると聞きました」
昌源は、矢のことを聞いた時と同じように、少し間を置いた。
「米だけでは、人は持たぬか」
「米も魚も、不作や不漁の年には頼りになりませぬ。山のものも合わせておけば、いざという時の備えが、一つ増えるかと存じます」
「……好きにせよ。台帳に響かぬ範囲でな」
藤丸は頷いた。的を外し続けた三日間と、平六との偶然の出会い。どちらも、まだ小さな一歩に過ぎない。だが、的を見る目と、食べ方を見る目もまた、同じ頭の中に並んで座っているのだと、藤丸はそう思った。
今回、藤丸は甚兵衛の帰りを待つ落ち着かなさから、弓の稽古に自分から身を入れることにしました。「的を定めて射るのは、田を見立てるのと、そう遠くない」という理屈づけも、藤丸らしいところです。
猟師の平六との出会いから、米・魚以外の備え(猪肉)にも目を向けたのも印象的でした。「不作や不漁の年には、山のものも備えの一つになる」という発想は、これまでの二毛作・海産物への関心と同じ根から出ているように思います。
待つだけの時間の中でも、的を見る目と、食べ方を見る目が、少しずつ藤丸の中で育っていく回でした。




