藤丸の杭
甚兵衛が久武の荷を背負って、安芸へと旅立ちます。見送ったあと、藤丸は畔に杭を差し、自分の見立てを形にしていきます。
霜は薄くなっていたが、朝の風はまだ冷たかった。
裏門のあたりに、甚兵衛の姿があった。荷をまとめ、紐をかけ直しているところだった。傍らには、お咲が立っている。
藤丸が歩み寄ると、甚兵衛が顔を上げた。
「藤丸様」
「支度は、すみましたか」
「ええ。紙と乾物、文吉殿と仁助殿からお預かりした分を、まとめております」
甚兵衛は、荷を一つ持ち上げて見せた。さほど大きくはない。だが、軽くはなさそうだった。
「これが、久武の荷、ということになります」
藤丸は、その荷をしばらく見ていた。
(これは、もう、私一人の頼みごとではない)
久武の名を背負った荷。甚兵衛が一人で安芸の地を歩くのと、家の名のもとに歩くのとでは、重さが違う。それは、もう何度も自分に言い聞かせてきたことだった。
「中身は、いつもと変わりませんか」
「ええ。紙と、乾物が少々。海産物を商う者を訪ねる口実としては、これで十分かと存じます」
「多すぎても、少なすぎても、目立ちます。それくらいが、ちょうど良いのでしょう」
甚兵衛は、小さく笑った。
「藤丸様も、ずいぶん、荷の加減まで気にされるようになりましたな」
「父上の仰せの通り、海産物を商う者を訪ねるだけにしてください。家中のことには、決して踏み込まないように」
「承知しております」
甚兵衛は、深く頷いた。何度も確かめたことを、もう一度確かめる。藤丸にとっては、それが自分にできる最後の支度だった。
お咲が、父の荷紐をもう一度結び直しながら、口を開いた。
「父上、道中、お気をつけて」
「うむ」
甚兵衛は短く答えると、藤丸のほうに向き直った。
「藤丸様も、お元気で」
「道中、ご無事で」
それだけの言葉だった。だが、藤丸には、それで十分だった。
甚兵衛は荷を背負い、一礼すると、東に向かう道を歩き出した。お咲と藤丸は、その背中が見えなくなるまで、門のところに立っていた。
道の先に、まだ霜の残る畔と、その向こうに広がる早春の田が見えた。安芸へ続く道は、その田の脇を通り、やがて山の向こうへ消えていく。
風が、東から吹いていた。
* * *
甚兵衛の姿が見えなくなると、藤丸はしばらく、その道の先を見ていた。
(待つだけというのは、思っていたより、落ち着かないものだな)
机の上で安芸のことを考えるのと、誰かが実際に歩いて行くのを見送るのとでは、感じるものが違った。これまで、知ることは自分の役目だと思っていた。だが、知ったことを誰かが運んでいく姿を見るのは、初めてだった。
お咲が、隣でぽつりと言った。
「父が帰ってくるまで、何日くらいでしょうか」
「前と同じくらいなら、十日ほどでしょう」
「そうですか……」
お咲は、それ以上は何も言わず、家のほうへ戻っていった。藤丸も、門のところに立ち続けているわけにはいかなかった。
* * *
藤丸は、文机から年貢台帳を持ち出し、畔へ向かった。
霜の名残がまだ薄く残る田の縁を、ゆっくりと歩く。台帳に記された升目の数字と、目の前に広がる田の実際の姿を、何度も見比べた。
(水はけの早いところ。土の色が、黒みを帯びているところ)
父から教わった見立て方を、今度は自分の足で確かめる番だった。これまでは、台帳の数字を眺めるだけだった。今日は、実際の田に立って、それを確かめる。
一か所目。稲刈りのあと、水の引きが早かったと覚えている田だった。しゃがみ込み、土を少しすくってみる。指の先で揉むと、黒みが強い。父の言った通りだった。
藤丸は、傍らに置いていた杭を一本、田の隅に差した。土はまだ冷たく、固かったが、思ったより素直に入った。
二か所目も同じように確かめ、杭を差す。三か所目は、土の色がやや白茶けていたため、見送ることにした。
杭の立つ田を、もう一度見渡した。台帳の数字だけだったものが、今は、目の前に立つ二本の杭という、形のあるものになっていた。
(覚えておくだけでは、いつか忘れる。杭を差せば、誰の目にも見える形になる)
そこまで考えたところで、ふと、別の考えが浮かんだ。
(今、自分がしているのは、すでに水はけの良い田を選んでいるだけだ)
杭を差したのは、もともと水はけの良かった田だった。土が、生まれつき選んでくれていたとも言える。
(水そのものを動かせれば、選べる田は、もっと増えるのではないか)
田の脇を流れる小さな溝に、目をやる。水の流れを変えれば、抜けの悪い田も、いつか変わるかもしれない。そんな思いつきが、頭の隅をかすめた。だが、それは今すぐにできることではなかった。溝を掘るにも、人手がいる。今の自分には、まだ早すぎる話だった。
(今日は、ここまでだ)
藤丸は、その考えを頭の隅に置いたまま、杭の立つ田の様子を、もう一度目に納めた。
* * *
夕刻、藤丸は文机に戻り、台帳に書き込みをした。「水はけ良好・黒土」と記した田の名を、二つ。まだ少ないが、これが始まりだった。
筆を置き、窓の外を見る。日は、もう東の山の向こうに沈みかけていた。
甚兵衛が向かった道の先にも、同じ夕暮れが来ているはずだった。十日。長くはないが、短くもない時間だった。その間、安芸では何が起こり、ここでは何が変わるのか。どちらも、今はまだわからない。
藤丸は、それ以上は考えず、台帳を閉じた。今日できることは、今日のうちに終えた。あとは、甚兵衛が戻る日を待つだけだった。
今回、甚兵衛が久武の荷として初めて安芸へ旅立ち、藤丸は「知ったことを、誰かが運んでいく姿を見送る」という初めての経験をします。待つことの落ち着かなさも、正直に描かれていました。
その一方で、畔では父から教わった見立てを自分の足で確かめ、杭という形あるものに残していきます。「覚えておくだけでは、いつか忘れる。杭を差せば、誰の目にも見える形になる」という気づきや、「水そのものを動かせれば」という次の芽も見えてきました。
甚兵衛の帰りを待つ十日間、安芸と久武それぞれで何が動くのか、次回以降に注目です。




