藤丸の願い
兄たちがそれぞれの役目で家の力になっていく中、藤丸が初めて父に「お願い」を申し出ます。裏口から覗いていた安芸を、正面から訪ねられるようになるまでのお話です。
霜は、もう朝にも見えなくなっていた。
毛利の話を聞いた晩から、幾日か過ぎていた。藤丸は文机の前に座り、墨を磨りながら、ぼんやりと考えていた。
(兄上には、戦うという役目がある)
親信は、籠城の話を聞いて、すぐに稽古場で皆に話すと言った。戦の場で、兵をまとめ、敵と渡り合う――それが、もう兄の役目になっている。
(親直兄上には、家を切り盛りする役目がある)
客の応対も、家中の細かな差配も、いつの間にか兄が引き受けるようになっている。安芸の家中に隙間がないかを探ることも、その延長にあるのだろう。
兄たちは、もう、それぞれの形で、家の力になっている。
(自分は、まだ何の力にもなれていない)
机の上で、年貢の数字と、紙の値と、甚兵衛の運んでくる噂を、並べて見比べる。それだけが、今の自分に出来ることだった。
筆を置いて、藤丸は墨の乾き具合を確かめた。
(机の上だけでは、いつまでも、机の上のままだ)
安芸の話は、もう何度も机の上を通り過ぎていた。五千貫という大きさ。室戸を回って堺まで出る川と海の道筋。商人の荷を念入りに調べるようになったという噂。そして、それぞれの兄が、それぞれの形で、同じ家に近づこうとしていること。
知っていることは、増えていた。だが、知っているだけで止まっていた。
(待っているだけでは、いつまでも机の上だ)
そう思ったとき、藤丸は筆を置いた。座ったまま、もう一度、自分の考えを確かめた。これは思いつきではない。何日も、机の上で温めてきたものだった。
* * *
父の間に向かう廊下は、もう何度も歩いた道だった。だが今日は、足の運びが、いつもと少し違って感じられた。
障子の前で膝をつく。
「藤丸でございます」
「入れ」
短い声だった。いつもと変わらない。
障子を開けると、昌源は文机の前で、紙の束を整えているところだった。藤丸を一目見て、手を止めた。
「月の決まりより、早いな」
「今日は、覚書を見るためではございません」
藤丸は、そう言ってから、少し間を置いた。
「お願いがございます」
昌源は、紙を置いた。何も言わず、藤丸の顔を見ていた。値踏みするような、それでいて急かさない目だった。
藤丸は、その目を見返した。
「安芸のことを、お調べすることを、お許しいただきたく存じます」
* * *
昌源は、しばらく黙っていた。
「安芸、か」
「はい」
「なぜ、今なのだ」
藤丸は、少し間を置いてから答えた。
「これまでは、知るだけで止まっておりました。安芸は、海と川を使って、よその国とも商いをしていると聞きます。それを、机の上で眺めているだけでは、いつまでも眺めているだけで終わります」
「眺めているだけでは、足りぬと申すか」
「はい。いつか、この久武の周りでも、舟を使った商いを広げる目があるなら、すでにうまく回している家を、今のうちに見ておくべきだと思います」
昌源は、何も言わずに、藤丸を見ていた。
「それから、もう一つ」
藤丸は続けた。
「甚兵衛に、安芸の海産物を商う者を探すよう、これまで私が一人で頼んでおりました。ですが、安芸では、近頃、商人の荷の詮議が前より厳しくなっているとのことです。このまま、私の名だけで、甚兵衛に私的に動かせ続けるのは、危ういと思います」
「危ういとは」
「もし甚兵衛が、安芸の地で何かを問われたとき、後ろに何もなければ、甚兵衛一人の身が危うくなります。久武の名で動いているとわかれば、それは、ただの商いの探りに見えます。名もなく動けば、ただの怪しい者に見えます」
昌源は、わずかに目を細めた。
「お主、それを、誰かに言われたか」
藤丸は、首を横に振った。
「兄上たちは、それぞれの場所で、それぞれのことをしておられます。私は、私の場所で、考えました。これは、自分で考えたことです」
昌源は、しばらく藤丸を見ていた。それから、ふっと、息を抜くように言った。
「己の足で、歩いてまいれ、と言うたな。あの頃、お主はまだ三つであった」
「……はい」
「ずいぶん、歩いたものよ」
短い言葉だった。だが、藤丸には、その重みがわかった。
「よい」
* * *
「ただし」
昌源は、表情を変えずに続けた。
「お主が動かすのではない。甚兵衛が動くのだ。久武の荷として、安芸の海産物を商う者を訪ねる――それだけのことにしておけ。家中の事情には、一切踏み込むな。それは、お主の役目ではない」
「承知しております」
「月の決まりのとき、安芸のことも、合わせて見せよ」
昌源は、そこで少し間を置いた。
「思えば、お主に、多くを教えた覚えはない。それでも、よう育っておるわ」
それだけ言うと、紙の整理に戻った。話は、それで終わったというふうだった。
藤丸は、静かに障子を開けて、部屋を出た。
* * *
裏門のあたりに、甚兵衛の姿があった。次の旅の支度をしているところらしい。傍らに、お咲もいた。
「藤丸様」
甚兵衛が頭を下げる。藤丸は、二人の前に立った。
「甚兵衛。これからは、安芸の海産物の件、私の名だけで頼むのはやめます」
甚兵衛が、わずかに顔を上げた。
「久武の荷として、正式に当たってもらうことになりました。父の許しを得ています」
甚兵衛は、しばらく藤丸の顔を見ていた。それから、深く頭を下げた。
「……それは、ありがたいことでございます」
声に、これまでとは違う重みがあった。商人の身一つで安芸の地を当たることと、家の名を背負って当たることの違いを、甚兵衛自身が、誰よりもわかっているのだろう。
お咲が、ほっとしたような顔をした。
「父が、これで少しは、気を張らずに済みますね」
「ええ」
藤丸は、それだけ答えた。
お咲は、それから、少し改まったように言った。
「藤丸様が、旦那様にそこまでして下さったとは、存じませんでした」
「大したことではありません。私が、安心して頼みたかっただけです」
藤丸がそう言うと、お咲は小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。
* * *
廊下を歩きながら、藤丸は、これまでのことを思い返した。
これまで、安芸のことは、隙間から覗くようにして見てきた。甚兵衛の噂話、商人の世間話の切れ端――誰にも気づかれぬよう、裏口から覗くような探り方だった。
今日からは、違う。
久武の荷として、正面から訪ねることができる。名を隠す必要はない。
(裏口から覗いていたものを、正面の戸から訪ねられるようになった)
それだけのことだった。だが、藤丸には、それで十分だった。
障子の外で、早春の風が、まだ少し冷たく鳴っていた。
今回、藤丸は「安芸のことを調べる許し」を、自分から昌源に願い出ます。これまで甚兵衛に私的に頼んでいたことのリスク(安芸での詮議が厳しくなっていること)にも自分で気づき、久武の名を背負わせることで甚兵衛を守るという理屈も、きちんと自分の言葉で説明しました。
昌源の「己の足で、歩いてまいれ」という三歳の頃の言葉と、「ずいぶん、歩いたものよ」という今の一言が重なるところに、この親子の積み重ねが表れていたように思います。
甚兵衛・お咲との場面でも、「裏口から覗いていたものを、正面の戸から訪ねられるようになった」という藤丸の実感が、今回の変化をよく表しています。




