表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
28/140

毛利の知恵

甚兵衛が持ち帰ったのは、遠く中国地方・毛利氏の籠城戦の噂話でした。同じ戦の話を聞いても、親信と藤丸では見ている場所がまるで違う――そんな一話です。

早春の陽が、稽古場の砂に薄く差していた。


親信が稽古から戻るのは、いつも夕刻だった。だが今日は、まだ陽の高いうちに、木刀を担いだまま屋敷の裏門のほうへ歩いてきた。今日は稽古が早めに終わったらしい。


裏門のあたりでは、ちょうど甚兵衛が荷を下ろしているところだった。藤丸とお咲は、その荷を覗き込んでいた。


「藤丸様。お待たせいたしました」


甚兵衛が頭を下げる。藤丸が頷いたところで、親信が足を止めた。


「甚兵衛か。久しいな」


「親信様。これは――」


甚兵衛が慌てて荷の脇に膝をつく。親信は気にする様子もなく、荷の様子を眺めた。


「今日は、何を運んできた」


「紙と布が、いつもの通りでございます。それと――」


甚兵衛は、荷を検めながら、声を落とした。


「道中、ちょっとした話を聞きまして。諸国の物売りの間で、近頃よく語られる話でございます」


藤丸は、その言い方に、少し耳を引かれた。


(また、噂の類か)


これまでも、甚兵衛が運んでくるのは、たいてい確かなことではなく、誰かが誰かから聞いた話の切れ端だった。それでも、藤丸にとっては、いつも何かの種になった。


親信も、木刀を担いだまま、その場に立ち止まっていた。武芸の話なら、聞いておきたいという顔をしていた。


「申せ」


親信が促す。甚兵衛は、少し背筋を伸ばした。


「安芸国――こちらの安芸殿とは別の、ずっと遠い、中国地方のほうの安芸国でございます。そちらの吉田郡山という城で、数年前、大きな戦があったそうにございます」


「中国の話か。土佐には縁がなさそうだが」


親信が言う。藤丸は、黙って聞いていた。


(縁がないとは、まだ言えない)


国の名が違っても、戦の形には、学べるものがあるかもしれない。そう思っていた。


「攻めてきたのは、尼子という大層大きな家の軍勢でございました。守るほうは、毛利という、さして大きくない家で、兵はおよそ三千ほど。されど、城の中には、近隣の村人まで入れて、八千ほどの人が籠もったとか」


「三千で、三万を」


親信の声が、わずかに変わった。


「ひと月や二月の話ではございません。秋から年明けまで、ずいぶん長く持ちこたえたそうで」


藤丸とお咲は、互いに顔を見合わせた。親信は、木刀を地面に立てて、続きを促した。


「詳しく申せ」


*  *  *


甚兵衛は、声をひそめて続けた。


「城に入れた村人まで合わせて、八千ほどの口があったと申します」


「八千。城に、それだけの口を抱えて、よく持ったものだな」


親信が呟いた。武芸の腕で考える者の感想だった。


藤丸は、別のことを考えていた。


(八千の口を、何ヶ月も食わせる)


兵糧というのは、戦う者の分だけでは済まない。女も子も、城に入れた以上は食わせなければならない。それを数ヶ月分、用意していたということだ。


「城下に火をかけられても、毛利方は迎え撃ちもせず、ただ黙って耐えたとか申します。代わりに、刈り入れの済んだ稲は、すべて城へ運び込んで、敵に渡さぬようにしておったそうで」


「渡さぬように、か」


親信が、少し感心したように言った。「敵に物を渡さねば、敵もまた、食うに困る。城を囲んでおっても、攻め手のほうが先に弱る」


藤丸は、その言葉に、静かに頷いた。


親信は、それを戦の駆け引きとして見ていた。藤丸は、同じ稲の話を、もう少し別の形で見ていた。刈り入れを先に済ませ、自分の手元に集める。それだけのことで、攻める側と守る側の食う力が、まるごと入れ替わる。武器を交えるより前に、すでに半分は決まっていたのかもしれない。


「それから、女や子供にまで、竹の先に金紙や銀紙をつけて、打ち振らせたとも申します。兵が多く見えるように、と」


「見せかけの兵か。それも、戦のうちだ」


親信が、また感心したように言った。


藤丸も、それには別の感心をした。


(見せかけるにも、紙が要る)


金紙、銀紙。ただの飾りではなく、見せるための道具だ。戦の支度というのは、刀や弓だけではない。紙一つにも、使い道がある。


「援軍は、いつ来たのだ」


親信が問うた。


「ずいぶん経ってからのようでございます。秋に攻め込まれ、年が明けて、ようやく後詰めが着いたとか」


「ずいぶん、待たせたものだな」


「ただ、後詰めの家にも、別に攻めねばならぬところがあったそうで。すぐに動けなかったのも、無理はないかと」


藤丸は、それを聞いて、また別のことを思った。


(待たされた側も、待たせた側も、それぞれ理由がある)


すぐに来てくれぬ援軍を恨むのではなく、来るまでの間、城の中で食いつなぐ算段を整えておく。父・昌源がいつか口にした、文を急がず三日寝かせるという話と、どこか似ている気がした。急いで動くことより、待っている間に何を整えておくかのほうが、ものを言う。


甚兵衛は、それで一通り話し終えたという顔をした。


「噂程度の話でございますので、どこまで確かかは、私にもわかりませぬが」


「いや、よい話を聞いた」


親信が、木刀を担ぎ直しながら言った。「三千で三万を防いだというなら、頭の使い方が、よほど良かったのだろう。今日の稽古で、皆にも話してみよう」


藤丸は、それを聞きながら、自分の中にあるものを、まだ口には出さなかった。


*  *  *


その晩、藤丸は親信の部屋に呼ばれた。


灯りの下、親信は木刀の手入れをしながら、今日の話をもう一度なぞっていた。


「あの戦、考えれば考えるほど、面白い」


「兄上は、どこが一番気に入りましたか」


「持ちこたえたことだ。三千の兵が、三万に攻められて、半年近くも崩れなかった。それは、刀の腕では測れぬ強さだ」


藤丸は、それを聞いて、少し考えてから答えた。


「私は、刈り入れた稲のことが、気になりました」


「稲か」


「兵だけでなく、村の者まで城に入れて、八千の口を養った。それを支えたのは、戦う力ではなく、先に集めておいた米だったのだと思います」


親信は、木刀を見つめたまま、しばらく黙っていた。


「……同じ戦を見て、お主とは、見ているところが違うようだな」


「向いている場所が、違うだけだと思います」


藤丸は、そう答えた。


親信は、それに何も返さなかった。ただ、木刀の手入れを、また始めた。手元の動きは、迷いのないものだった。


藤丸は、それ以上は言わず、部屋を出た。


廊下を歩きながら、藤丸は思った。


(兄上は、城が崩れなかった理由を、耐え抜いた人の力に見ている)


(自分は、同じ理由を、戦の前にどれだけ整えておけたかに見ている)


どちらも、間違ってはいない。ただ、見る場所が違うだけだ。それは、いつか親直が口にした言葉と、よく似ている気がした。


障子の外で、早春の夜風が、まだ少し冷たく鳴っていた。藤丸は、自分の部屋へ戻り、布団に入った。

今回は、甚兵衛の噂話(毛利氏の郡山城籠城戦)を通して、親信と藤丸それぞれの物の見方の違いが対比されます。親信は「三千で三万を防いだ耐える力」に感心し、藤丸は「刈り入れた稲を先に集めておいたこと」に目を向けました。

どちらも間違いではなく、ただ向いている場所が違うだけ――これは以前、親直が口にした言葉ともよく響き合っています。三兄弟それぞれの役割の違いが、戦・暗躍・富国という形で、少しずつくっきりしてきた回だったように思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ