毛利の知恵
甚兵衛が持ち帰ったのは、遠く中国地方・毛利氏の籠城戦の噂話でした。同じ戦の話を聞いても、親信と藤丸では見ている場所がまるで違う――そんな一話です。
早春の陽が、稽古場の砂に薄く差していた。
親信が稽古から戻るのは、いつも夕刻だった。だが今日は、まだ陽の高いうちに、木刀を担いだまま屋敷の裏門のほうへ歩いてきた。今日は稽古が早めに終わったらしい。
裏門のあたりでは、ちょうど甚兵衛が荷を下ろしているところだった。藤丸とお咲は、その荷を覗き込んでいた。
「藤丸様。お待たせいたしました」
甚兵衛が頭を下げる。藤丸が頷いたところで、親信が足を止めた。
「甚兵衛か。久しいな」
「親信様。これは――」
甚兵衛が慌てて荷の脇に膝をつく。親信は気にする様子もなく、荷の様子を眺めた。
「今日は、何を運んできた」
「紙と布が、いつもの通りでございます。それと――」
甚兵衛は、荷を検めながら、声を落とした。
「道中、ちょっとした話を聞きまして。諸国の物売りの間で、近頃よく語られる話でございます」
藤丸は、その言い方に、少し耳を引かれた。
(また、噂の類か)
これまでも、甚兵衛が運んでくるのは、たいてい確かなことではなく、誰かが誰かから聞いた話の切れ端だった。それでも、藤丸にとっては、いつも何かの種になった。
親信も、木刀を担いだまま、その場に立ち止まっていた。武芸の話なら、聞いておきたいという顔をしていた。
「申せ」
親信が促す。甚兵衛は、少し背筋を伸ばした。
「安芸国――こちらの安芸殿とは別の、ずっと遠い、中国地方のほうの安芸国でございます。そちらの吉田郡山という城で、数年前、大きな戦があったそうにございます」
「中国の話か。土佐には縁がなさそうだが」
親信が言う。藤丸は、黙って聞いていた。
(縁がないとは、まだ言えない)
国の名が違っても、戦の形には、学べるものがあるかもしれない。そう思っていた。
「攻めてきたのは、尼子という大層大きな家の軍勢でございました。守るほうは、毛利という、さして大きくない家で、兵はおよそ三千ほど。されど、城の中には、近隣の村人まで入れて、八千ほどの人が籠もったとか」
「三千で、三万を」
親信の声が、わずかに変わった。
「ひと月や二月の話ではございません。秋から年明けまで、ずいぶん長く持ちこたえたそうで」
藤丸とお咲は、互いに顔を見合わせた。親信は、木刀を地面に立てて、続きを促した。
「詳しく申せ」
* * *
甚兵衛は、声をひそめて続けた。
「城に入れた村人まで合わせて、八千ほどの口があったと申します」
「八千。城に、それだけの口を抱えて、よく持ったものだな」
親信が呟いた。武芸の腕で考える者の感想だった。
藤丸は、別のことを考えていた。
(八千の口を、何ヶ月も食わせる)
兵糧というのは、戦う者の分だけでは済まない。女も子も、城に入れた以上は食わせなければならない。それを数ヶ月分、用意していたということだ。
「城下に火をかけられても、毛利方は迎え撃ちもせず、ただ黙って耐えたとか申します。代わりに、刈り入れの済んだ稲は、すべて城へ運び込んで、敵に渡さぬようにしておったそうで」
「渡さぬように、か」
親信が、少し感心したように言った。「敵に物を渡さねば、敵もまた、食うに困る。城を囲んでおっても、攻め手のほうが先に弱る」
藤丸は、その言葉に、静かに頷いた。
親信は、それを戦の駆け引きとして見ていた。藤丸は、同じ稲の話を、もう少し別の形で見ていた。刈り入れを先に済ませ、自分の手元に集める。それだけのことで、攻める側と守る側の食う力が、まるごと入れ替わる。武器を交えるより前に、すでに半分は決まっていたのかもしれない。
「それから、女や子供にまで、竹の先に金紙や銀紙をつけて、打ち振らせたとも申します。兵が多く見えるように、と」
「見せかけの兵か。それも、戦のうちだ」
親信が、また感心したように言った。
藤丸も、それには別の感心をした。
(見せかけるにも、紙が要る)
金紙、銀紙。ただの飾りではなく、見せるための道具だ。戦の支度というのは、刀や弓だけではない。紙一つにも、使い道がある。
「援軍は、いつ来たのだ」
親信が問うた。
「ずいぶん経ってからのようでございます。秋に攻め込まれ、年が明けて、ようやく後詰めが着いたとか」
「ずいぶん、待たせたものだな」
「ただ、後詰めの家にも、別に攻めねばならぬところがあったそうで。すぐに動けなかったのも、無理はないかと」
藤丸は、それを聞いて、また別のことを思った。
(待たされた側も、待たせた側も、それぞれ理由がある)
すぐに来てくれぬ援軍を恨むのではなく、来るまでの間、城の中で食いつなぐ算段を整えておく。父・昌源がいつか口にした、文を急がず三日寝かせるという話と、どこか似ている気がした。急いで動くことより、待っている間に何を整えておくかのほうが、ものを言う。
甚兵衛は、それで一通り話し終えたという顔をした。
「噂程度の話でございますので、どこまで確かかは、私にもわかりませぬが」
「いや、よい話を聞いた」
親信が、木刀を担ぎ直しながら言った。「三千で三万を防いだというなら、頭の使い方が、よほど良かったのだろう。今日の稽古で、皆にも話してみよう」
藤丸は、それを聞きながら、自分の中にあるものを、まだ口には出さなかった。
* * *
その晩、藤丸は親信の部屋に呼ばれた。
灯りの下、親信は木刀の手入れをしながら、今日の話をもう一度なぞっていた。
「あの戦、考えれば考えるほど、面白い」
「兄上は、どこが一番気に入りましたか」
「持ちこたえたことだ。三千の兵が、三万に攻められて、半年近くも崩れなかった。それは、刀の腕では測れぬ強さだ」
藤丸は、それを聞いて、少し考えてから答えた。
「私は、刈り入れた稲のことが、気になりました」
「稲か」
「兵だけでなく、村の者まで城に入れて、八千の口を養った。それを支えたのは、戦う力ではなく、先に集めておいた米だったのだと思います」
親信は、木刀を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……同じ戦を見て、お主とは、見ているところが違うようだな」
「向いている場所が、違うだけだと思います」
藤丸は、そう答えた。
親信は、それに何も返さなかった。ただ、木刀の手入れを、また始めた。手元の動きは、迷いのないものだった。
藤丸は、それ以上は言わず、部屋を出た。
廊下を歩きながら、藤丸は思った。
(兄上は、城が崩れなかった理由を、耐え抜いた人の力に見ている)
(自分は、同じ理由を、戦の前にどれだけ整えておけたかに見ている)
どちらも、間違ってはいない。ただ、見る場所が違うだけだ。それは、いつか親直が口にした言葉と、よく似ている気がした。
障子の外で、早春の夜風が、まだ少し冷たく鳴っていた。藤丸は、自分の部屋へ戻り、布団に入った。
今回は、甚兵衛の噂話(毛利氏の郡山城籠城戦)を通して、親信と藤丸それぞれの物の見方の違いが対比されます。親信は「三千で三万を防いだ耐える力」に感心し、藤丸は「刈り入れた稲を先に集めておいたこと」に目を向けました。
どちらも間違いではなく、ただ向いている場所が違うだけ――これは以前、親直が口にした言葉ともよく響き合っています。三兄弟それぞれの役割の違いが、戦・暗躍・富国という形で、少しずつくっきりしてきた回だったように思います。




