藤丸の向き
安芸郡から訪れた一人の旅の僧をきっかけに、親直が藤丸の動きに気づきます。同じ的を、違う角度から狙う兄弟の距離が、初めて言葉になる一話です。
霜はもう、朝にもまったく見えなくなっていた。
庭の松の根元には、若い下草が伸び始めている。畔を歩いてから幾日か過ぎ、藤丸は文机に戻って、書き写しの稽古を続けていた。麦に向く田を見立てる目も、文字を覚える稽古も、同じように、少しずつ積み重ねるしかないものだった。
筆を置いて、墨の乾き具合を確かめていたとき、表口のほうで聞き慣れぬ声がするのに気づいた。
廊下の先、玄関先に、網代笠を背負った旅装の僧が立っていた。墨染めの衣は旅塵にまみれ、草鞋の紐もすり減っている。出てきた女中が何か言葉を交わし、奥へ取り次ぎに行った。
しばらくして、応対に出てきたのは親直だった。
駒丸が元服を済ませ、親直と名乗るようになったのは、もう何年か前のことだった。あの頃から、客の応対のような場が、いつの間にか兄の役回りになっていた。
藤丸は、廊下の隅まで歩を進めて、それを見ていた。
* * *
「遠方より、ご苦労でござった」
親直の声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「安芸郡のほうから参られたとか」
「はい」僧は、頭を下げた。「寺の本堂を、いくつか修めねばならず、檀家衆の喜捨を頂きながら、こうして西へ参っております」
親直は、それだけ聞いて、しばらく黙った。喜捨の支度を、誰かに言いつけるような気配もない。ただ、僧の顔を見ていた。
間が空いた。
僧は、その静かさに居心地が悪くなったのか、自分から言葉を継いだ。
「安芸のほうも、近頃は寺への寄進が薄うなっておりまして。御家のほうも、いろいろと物入りのようで」
「物入り、とは」
「さあ、詳しいことは、私のような者にはわかりませぬ。ただ、家中の方々の中にも、思うところのある御方が、おられるとは聞いております」
親直は、頷いた。咎める声も、急かす声も出さなかった。
「ようございますな。誰しも、思うところは、あるものじゃ」
それだけ言って、親直は喜捨の支度を女中に言いつけた。話は、それで終わったように見えた。
* * *
僧が暇を告げる前、ふと、世間話のように言葉をこぼした。
「私どもの寺では、近隣の子らに、文字や経も教えております。中には、算用に明るい子もおりまして、蔵の出し入れまで任されることもございます」
親直は、それには何も答えなかった。ただ、軽く頷いただけだった。
藤丸は、廊下の隅で、その一言を、静かに胸の中に留めた。
(文字も、算用も――)
今すぐ何かになる話ではなかった。ただ、寺というところが、ただ経を読むだけの場所ではないらしい、ということだけが、小さく残った。
僧は、喜捨の包みを背負い直し、深く一礼して、門を出ていった。
* * *
僧の後ろ姿が門の外に消えてから、お咲が縁側からそっと顔を出した。
「藤丸様。今のは、安芸郡から来た方ですか」
「うん。寺の喜捨を集めて回っているそうだ」
お咲は、少し考えるような顔をした。
「変わったお客様でしたね。普通の旅の僧は、もっと早く用を済ませて、すぐに次へ向かうものですが……」
「そう思うか」
「父が、よくそう申しております。長居をする旅人には、長居をする理由があるものだと」
藤丸は、それを聞いて、何も答えなかった。ただ、僧が最後に残した「算用に明るい子」という言葉が、もう一度、頭の中で小さく動いた。
* * *
親直が、女中に何か言いつけて戻ってくるところだった。藤丸の前で、足を止める。
「藤丸」
「……兄上」
「お主、近頃、甚兵衛に妙な頼みをしておるそうじゃな」
藤丸の指が、わずかに動いた。
(知っているのか)
「安芸の海産物を商う者を、探しておるとか」
「……それは」
藤丸は、すぐには答えられなかった。誰から聞いたのか、それを問う前に、親直が先に口を開いた。
「咎めておるわけではない。ただ、お主が、安芸の繋ぎ目を探しておるなら――わしも、似たようなことを探っておる」
藤丸は、親直の顔を見た。
「似たようなこと、というのは」
「商いの筋ではない」親直は、少し間を置いた。「家の中に、隙間がないかを見ておる」
「隙間――」
「どこの家にも、思うところのある者がおる。さきほどの僧も、そう申しておったろう」
藤丸は、何も言わなかった。
言葉にすれば、何かを認めることになる気がした。
「わしのやり方は、お主とは向きが違う」親直は、薄く笑った。「お主は、舟と荷を辿る。わしは、人と人の隙間を辿る。同じところを見ておるようで、見ておる場所は、まるで違う」
それだけ言うと、親直は、奥へ歩き出した。
* * *
藤丸は、その背を、しばらく見送っていた。
(同じ的を、違う角度から見ている)
自分は、商人の道筋から、安芸という家に近づこうとしている。親直は、家臣という人の心の隙間から、同じ家に近づこうとしている。狙う相手が違う以上、両方が同時に進んでも、互いを邪魔するものではない。
そこに気づいたとき、藤丸の中で、何かが静かに繋がった。
(争わずに済む道を、二人で別々に作っているのかもしれない)
商いで安芸との繋がりができていれば、いずれ安芸がどうなろうと、その先も商いと人の縁は続いていく。家臣の中に隙間ができていれば、いつか戦になったとしても、その隙間が、争いを早く、小さく済ませる助けになるかもしれない。
戦うのは、親信の役目だ。だが、戦になる前に、ほとんど勝ちを決めてしまう側――それが、自分と親直の役目なのかもしれない。そう思うと、藤丸の中に、奇妙な落ち着きが生まれた。
ただ、それは、心地よい落ち着きではなかった。
(自分と兄は、思っていたより、近いところに立っているのかもしれない)
廊下の先、親直の足音は、もう聞こえなくなっていた。
今回、安芸郡から来た旅の僧との短いやり取りをきっかけに、親直が藤丸の「安芸への糸口探し」に気づいていたことが明らかになります。
「わしのやり方は、お主とは向きが違う」「同じところを見ておるようで、見ておる場所は、まるで違う」――対人操作型の親直と、国家運営型の藤丸が、初めて互いの役割を言葉にして認め合う場面でした。
争わずに済む道を、二人が別々に作っているのかもしれない、という気づきは、藤丸にとって心地よいばかりではない発見だったようです。この兄弟の距離感が、この先どう変化していくのか、見守っていただければ幸いです。




