↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
26/141

藤丸の畔

台帳の文字だけでは足りない――藤丸がお咲を連れて、初めて自分の足で畔を歩きます。机の上の知恵と、畔に立つ者の知恵が重なる一話です。

霜は、もう朝にもほとんど見えなくなっていた。


父の間で見せられた覚書は、まだ藤丸の手元にあった。上分・下分の田の水の引き具合と、土の色合いを記したものだった。あれから幾日か、藤丸は折を見て、その紙を開き直していた。


机の上で見比べるだけでは、紙の上の話で終わってしまう。


(一度、歩いてみたい)


台帳の文字だけでは、自分の見立てに自信が持てなかった。水はけと土の色――昌源から得た二つの目印を、実際の田で確かめてみたかった。とはいえ、一人で田を見て回るには、まだ足腰も知恵も足りないことは、藤丸自身がよくわかっていた。畔の歩き方も、田の見方も、誰かの目を借りたほうがよい。


「お咲。畔を歩きたいのですが、付き合ってもらえますか」


縁側で繕い物をしていたお咲は、すぐに顔を上げた。


「畔、ですか。麦踏みなら、もう一区切りと伺いましたが」


「麦踏みではありません。来年のために、麦に向く田を探しておきたいのです」


お咲は少し考えるような顔をしてから、頷いた。


「父がよく言っております。畔は、歩いた数だけ物を教えてくれると」


藤丸は、その言葉を、静かに胸の中で繰り返した。


*  *  *


二人は、まず上分の外れ、覚書に名のあった田を訪ねた。稲を刈ったあとの株が、まだそのまま残っている。


藤丸は畔に立って、田の隅から水の溜まり方を目で追った。


「ここは、水が引くのが早そうです」


「ええ。よく見ると、隅のほうに、わずかな傾きがあります」


お咲が、畔の縁を指差した。藤丸の見ていなかった場所だった。


(傾き、か)


台帳には、そこまでは書かれていない。水はけの良し悪しを、もう一段細かく見るための目印が、一つ増えた。


次に向かった田は、土の色が違った。黒みの強い土が、踏むたびに、しっとりと沓に絡みついた。


「ここは、肥えている田だと思います」


「父が、泊まった村で、そこの百姓からそう聞いたと申しておりました。色の濃い土は、よく実ると」


藤丸は、それを聞いて、静かに頷いた。


(行商人の言葉と、父の覚書――別々の道から、同じところに行き着く)


それが、思いのほか嬉しかった。


三つ目の田に差しかかったところで、お咲の足が止まった。


水はけは悪くない。土の色も、申し分なかった。覚書の二つの目印だけ見れば、これも候補に入るはずだった。


「ここは……どうでしょう」


お咲が、珍しく言葉を濁した。


「何か、気になりますか」


「うまく言えないのですが――ここは、山からまっすぐ下りてくる地形のように思います」


藤丸は、お咲の指す方を見た。山際から田へ、何も遮るもののない一筋の坂があった。


(地形――)


台帳にも、昌源の言葉にも、こうした地形の窪みのことは出てこなかった。


*  *  *


「その地形が、麦に障るのですか」


藤丸が問うと、お咲は少し困ったような顔をした。


「障るかどうかは、私にはわかりません。ただ、父が、ある村に泊まった晩、そこの年寄りからそう聞いたと申しておりました。山の冷気がまっすぐ流れ込んで溜まる田は、霜が居座りやすいと」


「霜が、居座る」


「冷気の通り道にならない田は、霜が下りても、日が昇れば早く消えます。冷気がまっすぐ流れ込んで溜まる田は、なかなか抜けきらず、霜も長く居座ると聞きました」


藤丸は、それを聞いて、しばらく黙っていた。


(水はけ、土の色、それから冷気の溜まり方――)


昌源から教わった二つの目印は、台帳の数字から拾えるものだった。だが冷気の溜まり方のことは、台帳のどこにも書かれていない。歩いて、その場に立って、肌で感じなければわからないことだった。


「お咲は、それをどこで覚えたのですか」


「覚えた、というほどのことでもありません。父が、よその村に泊まった話をするとき、土地の者から聞いたこととして、いつもそんなことを口にしておりました。聞き流していたつもりでしたが――」


お咲は、そこで言葉を止めて、少し恥ずかしそうにした。


「こうして畔に立つと、思い出すものですね」


藤丸は、その横顔を見た。


(覚書にない目印を、お咲が持っている)


行商人の娘として育った中で、自然と身についた感覚なのだろう。台帳の数字を読むことに慣れた自分の目とは、違う種類の目だった。


「お咲の父は、いつも、そういう話をしているのですか」


「ええ。荷を運ぶ先々で、泊まった村の百姓から、その土地の田畑のことも、よく聞かされるようです。地形の傾き、霜の居座り方、水の出方――商いの話と一緒に、いつも何かしら持って帰ってきます」


「それを、お咲も聞いているのですね」


「聞いているだけで、自分が何か知っているとは、思っておりませんでした」


お咲は、少し困ったように笑った。藤丸は、それ以上は問わなかった。だが、お咲の中に、まだ言葉になっていない目印が、他にもあるかもしれない――そう思うと、これからの畔歩きが、もう少し楽しみになった。


「その田は、外しておきましょう」


藤丸が言うと、お咲は、少し驚いた顔をした。


「私の話だけで、よろしいのですか」


「水はけと土の色だけでは、見えないものがあるとわかりました。それなら、見えるところまで、見ておくべきだと思います」


お咲は、それ以上は何も言わず、ただ小さく頷いた。


*  *  *


その日のうちに、二人は四つの田を歩き終えた。水はけ、土の色、冷気の溜まりやすさ――三つの目印を当てはめて、候補に残ったのは二つだけだった。


屋敷へ戻る道で、藤丸は懐の覚書を、もう一度開いて見た。歩く前よりも、紙の上の文字が、少し重みを持って見えた。


「お咲がいなければ、見落としていました」


「私一人では、水はけも土の色も、見分けがつきませんでした。藤丸様の見立てがあってこそです」


二人は、それ以上は言葉を重ねなかった。それで十分だった。


屋敷の裏門が見えたところで、ちょうど甚兵衛が荷を検めているところに行き合った。


「藤丸様、お咲。畔仕事の帰りですか」


「ええ。来年に向けて、田を見ておりました」


甚兵衛は、二人の足元の泥を見て、軽く笑った。


「それは、ようございます。畔で覚えたことは、台帳の文字より、よほど身に残るものでして」


それだけ言うと、甚兵衛は荷を背負い直した。


「私も、明日からまた旅に出ます。お咲、留守を頼むぞ」


「はい」


藤丸は、その背を見送りながら、安芸の糸口のことを、ふと思い出した。だが今日は、それを問う日ではなかった。


*  *  *


夜、藤丸は布団の中で、今日のことを思い返していた。


台帳の数字。父から教わった二つの目印。そして、お咲が持っていた、地形と霜という、もう一つの目印。


(机の上の知恵と、畔に立つ者の知恵――)


どちらか一方では足りない。両方を並べて、初めて見立てが確かなものになる。それは、これまでの自分が、台帳と覚書ばかりを頼りにしていたことへの、小さな気づきでもあった。


(次に父の間へ行くときは、このことも伝えておきたい)


ただ、今はまだ、二人で歩いて見つけたことを、形にする段階だった。父に伝えるのは、もう少し先でよい。


障子の外で、早春の風が、まだ冷たく鳴っていた。藤丸は、目を閉じた。

今回、藤丸は父から得た「水はけ」「土の色」という二つの目印を、実際に畔を歩いて確かめます。そこで思わぬ形で光ったのが、お咲の持っていた「地形と霜の居座り方」という、台帳にはない目印でした。

行商人の娘として、意識せず身についていた感覚が、藤丸の見立てを一段深いものにしてくれる――この主従とも友人ともつかない二人の関係性が、今回はよく表れていたように思います。

「机の上の知恵と、畔に立つ者の知恵、どちらか一方では足りない」という気づきを、藤丸がこの先どう活かしていくのか、楽しみにしていただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。