藤丸の畔
台帳の文字だけでは足りない――藤丸がお咲を連れて、初めて自分の足で畔を歩きます。机の上の知恵と、畔に立つ者の知恵が重なる一話です。
霜は、もう朝にもほとんど見えなくなっていた。
父の間で見せられた覚書は、まだ藤丸の手元にあった。上分・下分の田の水の引き具合と、土の色合いを記したものだった。あれから幾日か、藤丸は折を見て、その紙を開き直していた。
机の上で見比べるだけでは、紙の上の話で終わってしまう。
(一度、歩いてみたい)
台帳の文字だけでは、自分の見立てに自信が持てなかった。水はけと土の色――昌源から得た二つの目印を、実際の田で確かめてみたかった。とはいえ、一人で田を見て回るには、まだ足腰も知恵も足りないことは、藤丸自身がよくわかっていた。畔の歩き方も、田の見方も、誰かの目を借りたほうがよい。
「お咲。畔を歩きたいのですが、付き合ってもらえますか」
縁側で繕い物をしていたお咲は、すぐに顔を上げた。
「畔、ですか。麦踏みなら、もう一区切りと伺いましたが」
「麦踏みではありません。来年のために、麦に向く田を探しておきたいのです」
お咲は少し考えるような顔をしてから、頷いた。
「父がよく言っております。畔は、歩いた数だけ物を教えてくれると」
藤丸は、その言葉を、静かに胸の中で繰り返した。
* * *
二人は、まず上分の外れ、覚書に名のあった田を訪ねた。稲を刈ったあとの株が、まだそのまま残っている。
藤丸は畔に立って、田の隅から水の溜まり方を目で追った。
「ここは、水が引くのが早そうです」
「ええ。よく見ると、隅のほうに、わずかな傾きがあります」
お咲が、畔の縁を指差した。藤丸の見ていなかった場所だった。
(傾き、か)
台帳には、そこまでは書かれていない。水はけの良し悪しを、もう一段細かく見るための目印が、一つ増えた。
次に向かった田は、土の色が違った。黒みの強い土が、踏むたびに、しっとりと沓に絡みついた。
「ここは、肥えている田だと思います」
「父が、泊まった村で、そこの百姓からそう聞いたと申しておりました。色の濃い土は、よく実ると」
藤丸は、それを聞いて、静かに頷いた。
(行商人の言葉と、父の覚書――別々の道から、同じところに行き着く)
それが、思いのほか嬉しかった。
三つ目の田に差しかかったところで、お咲の足が止まった。
水はけは悪くない。土の色も、申し分なかった。覚書の二つの目印だけ見れば、これも候補に入るはずだった。
「ここは……どうでしょう」
お咲が、珍しく言葉を濁した。
「何か、気になりますか」
「うまく言えないのですが――ここは、山からまっすぐ下りてくる地形のように思います」
藤丸は、お咲の指す方を見た。山際から田へ、何も遮るもののない一筋の坂があった。
(地形――)
台帳にも、昌源の言葉にも、こうした地形の窪みのことは出てこなかった。
* * *
「その地形が、麦に障るのですか」
藤丸が問うと、お咲は少し困ったような顔をした。
「障るかどうかは、私にはわかりません。ただ、父が、ある村に泊まった晩、そこの年寄りからそう聞いたと申しておりました。山の冷気がまっすぐ流れ込んで溜まる田は、霜が居座りやすいと」
「霜が、居座る」
「冷気の通り道にならない田は、霜が下りても、日が昇れば早く消えます。冷気がまっすぐ流れ込んで溜まる田は、なかなか抜けきらず、霜も長く居座ると聞きました」
藤丸は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
(水はけ、土の色、それから冷気の溜まり方――)
昌源から教わった二つの目印は、台帳の数字から拾えるものだった。だが冷気の溜まり方のことは、台帳のどこにも書かれていない。歩いて、その場に立って、肌で感じなければわからないことだった。
「お咲は、それをどこで覚えたのですか」
「覚えた、というほどのことでもありません。父が、よその村に泊まった話をするとき、土地の者から聞いたこととして、いつもそんなことを口にしておりました。聞き流していたつもりでしたが――」
お咲は、そこで言葉を止めて、少し恥ずかしそうにした。
「こうして畔に立つと、思い出すものですね」
藤丸は、その横顔を見た。
(覚書にない目印を、お咲が持っている)
行商人の娘として育った中で、自然と身についた感覚なのだろう。台帳の数字を読むことに慣れた自分の目とは、違う種類の目だった。
「お咲の父は、いつも、そういう話をしているのですか」
「ええ。荷を運ぶ先々で、泊まった村の百姓から、その土地の田畑のことも、よく聞かされるようです。地形の傾き、霜の居座り方、水の出方――商いの話と一緒に、いつも何かしら持って帰ってきます」
「それを、お咲も聞いているのですね」
「聞いているだけで、自分が何か知っているとは、思っておりませんでした」
お咲は、少し困ったように笑った。藤丸は、それ以上は問わなかった。だが、お咲の中に、まだ言葉になっていない目印が、他にもあるかもしれない――そう思うと、これからの畔歩きが、もう少し楽しみになった。
「その田は、外しておきましょう」
藤丸が言うと、お咲は、少し驚いた顔をした。
「私の話だけで、よろしいのですか」
「水はけと土の色だけでは、見えないものがあるとわかりました。それなら、見えるところまで、見ておくべきだと思います」
お咲は、それ以上は何も言わず、ただ小さく頷いた。
* * *
その日のうちに、二人は四つの田を歩き終えた。水はけ、土の色、冷気の溜まりやすさ――三つの目印を当てはめて、候補に残ったのは二つだけだった。
屋敷へ戻る道で、藤丸は懐の覚書を、もう一度開いて見た。歩く前よりも、紙の上の文字が、少し重みを持って見えた。
「お咲がいなければ、見落としていました」
「私一人では、水はけも土の色も、見分けがつきませんでした。藤丸様の見立てがあってこそです」
二人は、それ以上は言葉を重ねなかった。それで十分だった。
屋敷の裏門が見えたところで、ちょうど甚兵衛が荷を検めているところに行き合った。
「藤丸様、お咲。畔仕事の帰りですか」
「ええ。来年に向けて、田を見ておりました」
甚兵衛は、二人の足元の泥を見て、軽く笑った。
「それは、ようございます。畔で覚えたことは、台帳の文字より、よほど身に残るものでして」
それだけ言うと、甚兵衛は荷を背負い直した。
「私も、明日からまた旅に出ます。お咲、留守を頼むぞ」
「はい」
藤丸は、その背を見送りながら、安芸の糸口のことを、ふと思い出した。だが今日は、それを問う日ではなかった。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日のことを思い返していた。
台帳の数字。父から教わった二つの目印。そして、お咲が持っていた、地形と霜という、もう一つの目印。
(机の上の知恵と、畔に立つ者の知恵――)
どちらか一方では足りない。両方を並べて、初めて見立てが確かなものになる。それは、これまでの自分が、台帳と覚書ばかりを頼りにしていたことへの、小さな気づきでもあった。
(次に父の間へ行くときは、このことも伝えておきたい)
ただ、今はまだ、二人で歩いて見つけたことを、形にする段階だった。父に伝えるのは、もう少し先でよい。
障子の外で、早春の風が、まだ冷たく鳴っていた。藤丸は、目を閉じた。
今回、藤丸は父から得た「水はけ」「土の色」という二つの目印を、実際に畔を歩いて確かめます。そこで思わぬ形で光ったのが、お咲の持っていた「地形と霜の居座り方」という、台帳にはない目印でした。
行商人の娘として、意識せず身についていた感覚が、藤丸の見立てを一段深いものにしてくれる――この主従とも友人ともつかない二人の関係性が、今回はよく表れていたように思います。
「机の上の知恵と、畔に立つ者の知恵、どちらか一方では足りない」という気づきを、藤丸がこの先どう活かしていくのか、楽しみにしていただければ幸いです。




