藤丸の糸口
麦踏みも一区切り、父からは田の見立ての手ほどきを受け、甚兵衛からは安芸への細い糸口が届きます。焦らず点を並べていく、静かな一話です。
霜は、もう朝にも薄くなっていた。
畔の隅、麦踏みの足跡だけが残る土の上に、薄い陽が差している。藤丸は、お咲と並んで、苗の根元を踏み歩いていた。冬の間、幾度となく繰り返してきた動きは、もう体に馴染んでいる。
「藤丸様。苗、だいぶしっかりしてきたように思います」
「そうですね。霜にも、よく耐えているようです」
そんな言葉を交わしながら、二人は畔をもう一巡りした。お咲の言う通り、苗は青々として、葉先に霜の傷みも見えなかった。
藤丸は、ふと足を止めた。
(鳥に食われた跡も、もう広がっていない。霜にも、ちゃんと耐えている)
藁を被せたこと、毎朝の麦踏み――小さな手当てを重ねてきた分だけ、苗はしっかりと育っている。そう思うと、これまでの手間が、無駄ではなかったように思えた。
その思案を遮るように、屋敷のほうから声がかかった。
「藤丸様。旦那様が、お呼びです」
女中の声に、藤丸は土のついた手を払って立ち上がった。
* * *
父の間には、いつもの年貢台帳が広げられていた。
ただ、今日は、見比べるだけの紙ではなかった。
「藤丸。麦踏みも、もう一区切りじゃ。次は、これを見よ」
差し出されたのは、上分・下分それぞれの田の覚書だった。水の引き具合、川との近さ、土の色合いまで、細かく書き込まれている。
「この中で、麦を蒔くに向いた田は、どこだと思う」
藤丸は、紙を受け取った。
(正解を、聞かれているわけではない)
これまでの父との間で、もう察していたことだった。昌源は、答えを最初から持っているわけではない。長年の覚書から、なんとなくの見当はついているのだろうが、それを言葉で示すことはしない。
藤丸は、台帳の数字を、一つずつ目で追った。
「……稲を刈ったあと、水がすぐに抜ける田が、良いのではないかと思います。川に近く、土が固すぎない田であれば、麦の種を蒔く頃合いに、間に合いやすいかと」
昌源は、何も言わなかった。ただ、紙を片づける手が、一瞬だけ止まった。
藤丸には、それで十分だった。
「水はけのほかにも、見るべきところはございますか」
昌源は、少し間を置いてから答えた。
「土の色も、見るがよい。黒みの強い土は、肥えていることが多い。白茶けた土は、痩せておることが多いものじゃ」
藤丸は、台帳の覚書に並ぶ「色合い」の記載を、もう一度見直した。これまでは、ただの覚え書きとしか思っていなかった項目に、初めて意味が宿った気がした。
「水はけと、土の色。両方を見れば、見立てが、もう少し確かになりますね」
昌源は、何も言わなかった。ただ、わずかに頷いただけだった。
「もう一つ、伺いたいことがあります」
「申せ」
「来年、麦や蕎麦の種は、どこから取るのですか」
昌源は、少し意外そうな顔をした。それから、短く答えた。
「実りの良かった穂を、毎年いくらか、残しておくものじゃ。それを、次の種にする」
藤丸は、それを聞いて、静かに頷いた。
(選んで、残す。当たり前のようで――)
ただ選ぶだけでは、毎年、なんとなくの良し悪ししか積み重ならない。どの株が、どれだけ良かったか。それを覚えておけば、選び方そのものが、年を経るごとに、もっと精度を上げられるはずだった。
そう思いついたが、藤丸は、それを口にはしなかった。
(まだ、何も試していない。今は、思いつきのままで十分だ)
刈り入れは、まだ先のことだった。今、形にすべきことではない。
父の間を出ると、廊下の先に、冬の終わりの陽が、薄く伸びていた。
* * *
その日の昼過ぎ、お咲が裏門のほうから、小さく息を切らせて駆けてきた。
「藤丸様。父が、戻りました」
藤丸は、台帳のことを、ひとまず胸の奥に仕舞った。
* * *
甚兵衛は、いつものように荷を下ろし、旅塵に汚れた顔で、軽く頭を下げた。
「藤丸様。先のお尋ね、少しばかり、手がかりを得てまいりました」
「堺までは、ずいぶんかかったのでは」
「ええ、今回は、いつもより足を伸ばしました」甚兵衛は、肩を回しながら答えた。「堺の馴染みのところで、世間話のついでに、安芸の名を出してみたのです。すると、ひとり、心当たりがある、という方がおりまして」
藤丸は、それを聞いて、静かに頷いた。
(世間話のついで、か)
正面から尋ねて回るのではなく、馴染みの場で、ふとした拍子に名を出す。それだけで、糸が一本、見つかることもある。藤丸には、それも、覚えておくべき手筋に思えた。
「安芸の、海産物のことですか」
「ええ。安芸の浜から出る荷を扱う商人に、直に行き当たったわけではございませぬが――堺の知り合いに、安芸の干物や塩魚を時折扱う者がいる、という話を聞きました。名は、まだ確かなものではございません。ただ、糸口くらいには、なるかと」
藤丸は、それを聞いて、静かに頷いた。
(糸口、か)
商人そのものではない。名前すら、まだ確かではない。それでも、何もなかったところに、細い糸が一本、通った。
「その方に、繋いでいただくことは、できますか」
甚兵衛は、少し考えてから答えた。
「すぐには、難しいかと存じます。堺の商人衆にも、付き合いの濃さというものがございますので。ただ、次の旅で、もう少し近づけるよう、当たってみましょう」
「お願いします」
藤丸は、それだけ答えた。急いで答えを出すべきことではない、とわかっていた。
甚兵衛は荷を背負い直し、また裏門のほうへ歩いていった。
* * *
その晩、藤丸は布団の中で、今日のことを、一つずつ並べてみた。
水の抜けが早い田。土の色という、もう一つの見方。種を選んで残すという、当たり前のようで奥のある工夫。そして、安芸の海産物への、まだ細い糸口。
どれも、今すぐ何かになるものではなかった。土地の見立ても、まだ父から正しいと言われたわけではない。種選びの思いつきも、刈り入れまでは試せない。安芸の糸口も、名前すら定まっていない。
(一つひとつは、まだ細い)
それでも、今日のことは、これまでとは少し違っていた。土地を見る目、種を選ぶ目、商いの糸を辿る目――別々のはずのものが、同じ自分の頭の中で、隣り合って座っている。それだけのことだが、藤丸には、それで十分だった。
(急いで、形にする必要はない)
焦らず、今はただ、隣り合わせておくだけでいい。いつか、どれかとどれかが、自分から動き出す日が来るはずだった。
障子の外で、冬の終わりの風が、まだ低く鳴っていた。藤丸は、目を閉じた。
今回は、父から「土地の見立て」(水はけ・土の色)を教わり、種を選んで残すという工夫にも自分で気づきます。同時に、甚兵衛からは安芸の海産物商人への、まだ名前も定かでない細い糸口が届きました。
どれもすぐに形になるものではありませんが、「急いで形にする必要はない」「隣り合わせておくだけでいい」という藤丸の姿勢に、この物語らしい呼吸を感じていただければ幸いです。
土地・種・商いという別々の目が、藤丸の中で少しずつ隣り合い始めています。




