藤丸の東風
甚兵衛が東の安芸から戻り、海と川を使った大きな商いの話を持ち帰ります。長宗我部との桁違いの差を知った藤丸が、次の一手を考え始めるお話です。
冬の日差しは、地面に落ちる影を長くする。
畔の隅では、まだ麦踏みの日課が続いていた。霜の降りた朝、藤丸はお咲と並んで、苗の根元を踏み歩いた。もう、力の加減に迷うことはなかった。
「今朝は、霜が薄いですね」
「このまま、寒さが緩んでくれればよいのですが」
そんな言葉を交わしながら、二人は畔を一巡りした。苗は、まだ小さいが、根を浮かせることもなく、青みを保っていた。
その日の昼過ぎ、お咲が裏門のほうから走ってきた。
「藤丸様。父が、戻りました」
藤丸は手についた土を払って、立ち上がった。
* * *
甚兵衛は、いつものように荷を背負ったまま、裏門の脇で一息ついていた。旅塵にまみれた顔に、笑みが浮かんでいる。
「藤丸様。お待たせいたしました」
「お疲れさまでした。東のほうは、いかがでしたか」
「ええ。久方ぶりに、安芸まで足を伸ばしてまいりました」
甚兵衛は荷を下ろしながら、ゆっくりと話し始めた。
「あちらは、紙よりも海と川のほうが盛んでして。城のすぐそばに安芸川という川が流れておりまして、その川を下ったところに、舟をつける浜がございます。そこから荷を積んで、東は室戸のほうを回り、紀伊の水道を抜けて、堺や紀州のほうまで出ているとか」
「室戸を回って、堺まで……」
「魚や、干したもの、塩などを舟で運んで、よその国とも商いをしておるとか。京の商人とも、古くからの付き合いがあると聞きました」
藤丸は、それを聞いて、静かに頷いた。
(海と川を使った商い、か)
「その安芸という家は、それほど豊かなのですか」
子どもがそれを聞くのは、少し不自然かもしれない。そう思いながらも、藤丸は聞いた。
甚兵衛は、笑って答えた。
「五千貫、とも言われております。土佐の中でも、名の知れた大きさだそうで」
五千貫。藤丸は、その額を、頭の中で測ってみた。紙一束の値。年貢として運ばれる米の量。甚兵衛に託した、まだささやかな元手。これまで拾い集めてきた数字を並べれば、五千貫がどれほどの重みを持つかは、おおよそ見当がついた。
(自分の手の中にあるものとは、桁が違う)
久武家一つで、どれだけの貫文を動かせるのか、藤丸には正確な数はわからない。だが、岡豊のお家がまだ大きくなっていく途中だという甚兵衛の言葉と並べて考えれば、安芸という家が、それだけで一段違う場所に立っているのは、はっきりと感じられた。
「長宗我部のお家は、それに比べると、どうなのですか」
甚兵衛は、笑って答えた。
「さあ、そこまでは私にはわかりません。ただ、岡豊のお家は、これからまだ大きくなっていく途中だと、どこかで聞いたことがございます」
それ以上は、甚兵衛も深くは語らなかった。商人の口から出る話には、いつも、そういう薄い膜がかかっている。藤丸は、それも承知していた。
「それから、もう一つ」
甚兵衛が、声をやや落とした。
「安芸では、商人の荷を、以前より念入りに調べるようになっておりました。何を運んでいるか、誰の荷か――前にお話しした噂は、本当のようでございます」
「何か、あったのでしょうか」
「さあ、それも、私にはわかりませぬ。ただ、川と海を使う家ほど、出入りには敏くなる、というのが道理かもしれません」
甚兵衛はそう言って、荷をまた背負い直した。
「今日はこれで。また何か、聞き及びましたら」
藤丸は、頭を下げる甚兵衛を見送りながら、しばらくその場に立っていた。
* * *
その晩、藤丸は布団の中で、今日聞いた話を、何度も思い返していた。
安芸という家。海と川を使った商い。室戸を回って堺まで出る道筋。五千貫という大きさ。商人の出入りに敏くなったという噂。
問題は、その先だった。
知っていることをただ眺めているだけでは、何も変わらない。藤丸は、頭の中で、いくつかの道を並べてみた。
ひとつ。真似ることはできないか。土佐にも、海はある。久武家の周りにも、川はある。安芸が室戸を回って堺まで出ているのなら、同じ海を、自分たちが使えない道理はないはずだった。
ふたつ。安芸そのものを、商いの相手として引き込むことはできないか。敵にも味方にも決めず、ただ荷をやり取りする間柄であれば、争わずに、安芸の豊かさの一端に触れることができるかもしれない。甚兵衛のような行商人を介せば、その糸口はすでにあるとも言えた。
みっつ。力で奪ってしまえば、一番早い。
その考えが浮かんだ瞬間、藤丸は、すぐにそれを胸の中で打ち消した。
(それは、自分の役目ではない)
長宗我部は、まだ土佐七雄の中でも小さな家だった。兵を動かせる立場でもない。何より、奪うという道は、親信の役目であり、親直の役目だった。自分が踏み込むべき道ではない。
(自分にできるのは、段取りだけだ)
真似るか、取り込むか。今すぐどちらかを選べるわけではなかった。土佐の海をどう使えるかなど、藤丸にはまだ何の手立てもない。安芸を引き込むにしても、相手にされるはずもない、ただの久武家の三男坊だった。
それでも、頭の中の地図には、また新しい点が一つ増えた。
(海、川、安芸――)
紙の値、年貢の数字、堺の噂、麦と蕎麦の備え。これまで集めてきた欠片に、また一つが加わった。点と点が、いつ線になるのかは、まだわからない。
障子の外で、冬の風が、低く鳴っていた。
翌日、藤丸は甚兵衛が次の旅に出る前に、もう一度声をかけた。
「甚兵衛。安芸の海産物を商う人を、誰か知っていますか」
甚兵衛は、少し驚いた顔をした。
「それは……探せば、おらぬこともないかと思いますが。何か、お考えがおありで」
「まだ、考えがあるわけではありません。ただ、知っておきたいのです」
甚兵衛は、しばらく藤丸の顔を見ていた。それから、小さく頷いた。
「承知いたしました。次の旅で、それも当たってみましょう」
藤丸は、それだけで十分だった。
(待っているだけでは、足りない)
いつか自分に言い聞かせた言葉を、もう一度、静かに思い出した。
冬の日差しが、畔の隅にも、屋敷の庭にも、変わらず落ちていた。
今回、藤丸は「安芸」という五千貫の家の大きさを知り、自分たちとの桁の違いを実感します。真似るか、取り込むか、あるいは力で奪うか――三つの道を思い浮かべながらも、「奪う」は自分の役目ではないと自分ではっきり退けたところに、藤丸の立ち位置が改めて示されました。
甚兵衛に「安芸の海産物を商う人を知らないか」と自分から尋ねる場面も、これまでの受け身の姿勢から、また一歩踏み出した変化だったように思います。
海・川・安芸という新しい点が、これまでの欠片とどう繋がっていくのか、楽しみにしていただければ幸いです。




