藤丸の苗
蒔いた種に、鳥害や霜害という初めての壁が現れます。お咲や甚兵衛から教わったことを、藤丸がすぐに試していくお話です。
種を蒔いてから、十日ほどが過ぎていた。
朝晩の冷えは、日ごとに増していた。庭の松の葉も、もう乾いた音を立てて鳴るようになっている。藤丸は、お咲を連れて、畔の隅へ向かった。
蒔いたばかりの頃は、ただの土の色をしていたその一区に、今は小さな緑がいくつも顔を出していた。麦の芽だった。
「出ていますね」
お咲が、しゃがんで覗き込んだ。藤丸も並んでしゃがんだ。
喜びは、すぐに消えた。
一区の端、目を凝らすと、芽の出ていない筋がいくつかあった。等間隔に蒔いたはずの種が、そこだけ抜けたように欠けている。藤丸は、その土を、指先で軽く払った。
土の中から、種の殻が出てきた。割れていた。芽を出した跡ではなかった。何かに、食われた跡だった。
「これは……」
「鳥でしょうか」
お咲が、空を見上げた。
「このあたりは、雀がよく来ます。蒔いたばかりの種は、よく狙われると、父から聞いたことがあります」
藤丸は、その欠けた筋を、もう一度見た。
(全部ではない。だが、放っておけば広がる)
種代は、自分の銭で出したものだった。うまくいかなければ、その理由を自分の口で父に申せ――昌源との約束が、すぐに頭の中で動いた。今はまだ、報告するほどの段階ではない。だが、何もせずに見ているだけでは、欠けた筋がもっと広がるだけだった。
「お咲。何か、防ぐ手はないでしょうか」
「はい。前に父が申していました。蒔いたばかりの種は、薄く藁を被せておくと、鳥に食われにくいと」
「藁を、被せる、ですか」
「はい。ただ、厚く被せると、芽が出にくくなるとも申しておりました。薄くするのが、肝心だそうです」
藤丸は、それを聞いて頷いた。
「やってみましょう」
* * *
近くに積まれていた稲藁の束に、二人は手を伸ばした。稲刈りのあと、まだ使われずに残っていたものだった。少しずつほぐしながら、欠けた筋とその周りに、薄く撒いていく。
子供の手では、思うようにはいかなかった。何度も、風に飛ばされた藁を、拾い直した。
日が傾く頃には、一区の端だけ、藁の色が混じった景色になっていた。
「これで、少しは凌げるでしょうか」
「父の言う通りにしたのですから、大丈夫だと思います」
藤丸は、それだけ言って、土に汚れた手を見た。
(人から聞いたことを、ちゃんとやる。それも、自分の分だ)
* * *
それから数日して、甚兵衛が屋敷に戻ってきた。藤丸は、お咲とともに、裏門へ様子を見に行った。
「藤丸様。畔の隅は、いかがですか」
「鳥に食われた跡があったので、藁を薄く被せました。お咲から、甚兵衛の言っていたことを聞きました」
甚兵衛は、少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「それは、よい手を打たれました。ただ、これから先、もう一つ気をつけることがございます」
「もう一つ、というのは」
「霜でございます。霜が降りると、土が凍って、苗の根元が浮き上がることがございます。浮いたままでは、根が傷んで、苗が弱ります」
「浮いたら、どうすればよいのですか」
「土を、踏み戻すのです。これを『麦踏み』と申します。霜の朝が続く頃に、苗の根元を、軽く踏んで均しておくのです」
藤丸は、その言葉を、胸の中で繰り返した。
(麦踏み、か)
聞いたことのない言葉だった。だが、なぜそうするのかは、すぐに腑に落ちた。土が凍って浮き上がるなら、踏んで戻せばよい。理屈は、単純だった。
「やってみます」
* * *
霜が、初めて畔に降りたのは、その十日ほど後だった。
朝、藤丸が見に行くと、土の表面が、白く固まっていた。藁を取り除いてみると、苗の根元の土が、わずかに浮き上がっていた。指で押すと、ぽろりと崩れるように土が剥がれ、根の一部が、空気に晒されていた。
「甚兵衛の言っていた通りですね」
お咲が、しゃがみ込んで言った。
藤丸は、しゃがんで、浮いた土を、そっと踏み戻した。根が土に戻るように、力を加減しながら、何度か足で均した。お咲も、見様見真似で、同じように土を踏み始めた。
その晩も、霜が降りた。次の朝も、その次の朝も。藤丸は、毎朝、畔の隅に通った。浮いた土を踏み戻すことが、いつしか日課になっていた。
* * *
ひと月ほど経った頃、藤丸は父の間を訪ねた。
「畔の隅のことで、申し上げたいことがございます」
昌源は、文机から顔を上げた。
「うまくいかなかったか」
「すべては、うまくいっておりません。鳥に種を食われた箇所があり、お咲から聞いた話で、藁を被せて防ぎました。それでも、いくつかは芽が出ませんでした」
藤丸は、続けた。
「霜で、根が浮く箇所もございました。甚兵衛から、麦踏みということを教わり、土を踏み戻すことで凌いでおります。今のところ、それ以上は広がっておりません」
昌源は、何も言わず、藤丸の顔を見ていた。
「すべてが順調、とは申せません。ですが、欠けた分はそのままにせず、人から聞いたことを、すぐに試しました」
しばらく、部屋の中が静かだった。
「誰に教わった、と申したな」
「お咲と、甚兵衛です。私一人で考えたことではございません」
昌源は、わずかに目を細めた。
「人に聞き、すぐに動いた、というわけか」
「はい」
「もそっと、見ておれ」
それだけだった。藤丸は、その言葉の意味を、すぐには掴みきれなかった。励めという意味なのか、まだ足りぬという意味なのか、どちらとも取れた。ただ、悪い返事ではない、という気はした。
昌源は、いつもの調子で、文机の上の紙に視線を戻した。
藤丸は、深く頭を下げて、部屋を出た。
* * *
廊下を歩きながら、藤丸は、自分の手を見た。土の汚れは、もう洗い落としていたが、まだ感触が残っているような気がした。
(うまくいかぬ時も、自分の口で申す)
約束を、初めて果たした。大きな結果ではなかった。それでも、欠けたところを、欠けたまま放っておかなかった。それだけのことが、今は確かな手応えだった。
裏門のほうから、お咲の声がした。
「藤丸様。父が、また次の旅に出るそうです。今度は、東のほうまで回ると申しておりました」
藤丸は、足を止めた。
「東、ですか」
「はい。戻ったら、また何か話を持ってきてくれるかもしれません」
藤丸は、それだけ聞いて、小さく頷いた。
(東――)
まだ、何の話かはわからなかった。ただ、聞きたいことが、また少し増えていた。
今回、藤丸は畔の隅の麦に鳥害・霜害という初めてのつまずきに直面します。自分で一から編み出すのではなく、お咲や甚兵衛から聞いた知恵(藁被せ、麦踏み)を、すぐに実際の手で試していくところが、藤丸らしさだったように思います。
父への報告でも、「うまくいっていない部分も含めて、隠さず申す」という姿勢を貫きました。昌源の「もそっと、見ておれ」という一言は、まだ評価の定まらない、含みのある返事のままです。
最後に触れられた「東」の話(安芸)が、この先どう繋がっていくのかも気になるところです。




