藤丸の隅
藤丸が初めて、自分から父に「これをやりたい」と申し出ます。畔の隅の小さな一区に、麦か蕎麦を試す――小さいけれど、大きな一歩のお話です。
稲刈りが終わり、田には刈り株だけが残っていた。
風が変わっていた。日中はまだ暑さが残っていたが、朝夕の空気には、もう確かな冷たさが混じっている。藤丸は、刈られたばかりの田の畔を、お咲と並んで歩いていた。
「もう、麦を作る郷もあるそうですね」
お咲が言った。父・甚兵衛から聞いた話だという。稲を刈ったあとの田に麦を蒔く郷が、近隣にもいくつかあるらしい。
藤丸は、それを聞いて、足を止めた。
(親信兄上が言っていたのと、同じだ)
刈り株の間に青い葉が伸びていた光景を、まだ覚えている。あれは去年のことだった。米だけでは、年によって心もとない。麦があれば、いくらかは凌げる――親信の言葉が、今、もう一度頭の中で動いた。
そこに、甚兵衛から聞いた、もう一つの話が重なった。米の出来が悪い郷でも、麦や蕎麦を作っておいたところは、それほど慌てていなかったという話。
(うちの田では、なぜやっていないのだろう)
藤丸は、畔に沿って歩きながら、田の様子を見比べた。久武家の田は、岡豊のうちでも良い田だと、前に聞いたことがある。水を含んだ土は、黒く湿っていた。稲には、向いている土だった。
(だが、麦には、向かないのかもしれない)
麦は、湿った土を好まない。水はけの悪い良田は、稲には向くが、麦にはむしろ不向きだ。だから、これまで誰も、ここで麦を作ろうとはしなかったのだろう。よその、米の取れがそれほど良くない郷――水はけの良い、痩せた土地の郷――が、先に麦や蕎麦を取り入れていたのも、頷ける話だった。
藤丸は、畔の隅に目を止めた。
田の縁、一番端の一区だけ、土の色が他より少し乾いていた。日当たりはいいが、水が溜まりにくい場所だった。稲には向かない、ちょうど隅に追いやられたような土地だった。
(あそこなら)
「藤丸様」
お咲が、その顔を覗き込んだ。
「何か、お考えですか」
藤丸は、すぐには答えなかった。
(やるなら、今だ)
麦を蒔くのは、稲を刈ったすぐ後でなければならない。時を逃せば、来年まで待つことになる。
* * *
その日の午後、藤丸は父の間へ向かった。
呼ばれたわけではなかった。自分から、足を運んだのは、これが初めてだった。
「父上」
障子の前で、藤丸は声をかけた。
「入れ」
短い返事だった。いつもと変わらない声だった。
障子を開けると、昌源は文机の前に座っていた。藤丸は、その前に膝をついた。
「申し上げたいことがございます」
昌源は、筆を置いた。何も言わず、藤丸を見た。
「畔の隅を、少し――お借りしたいのです」
「畔の隅、とは」
「刈り株の残った田の、縁の一区です。水はけが良すぎて、稲には向かぬ場所がございます。あそこなら、麦か蕎麦を試せるのではと」
部屋の中が、しばらく静かになった。
昌源は、何も言わなかった。藤丸も、何も言わなかった。
やがて、昌源が口を開いた。
「あの隅か」
「ご存じでしたか」
「知らぬわけがない。あれは、稲には向かぬ土地ゆえ、これまで誰も手を入れなかった」
「はい。稲に向かぬからこそ、空けておくのは惜しいと思いました」
昌源は、わずかに目を細めた。
「なぜ、それを思いついた」
藤丸は、一度、息を整えた。
「親信兄上から、麦の話を聞きました。それと、甚兵衛から、麦や蕎麦を作っておいた郷は、米の出来が悪い年でも、それほど慌てなかったという話を聞きました。考えてみれば、よその郷が麦を作るのは、米の取れがそれほど良くないからだと思います。我が家の田は、良田ゆえ、これまで麦を考える必要がなかった。それだけのことだったのではないでしょうか」
「それだけか」
「……それだけでは、ありません」
藤丸は、続けた。
「紙の値も、布の値も、年によって動きます。米だけでなく、年貢の数も、上分と下分で違います。一つのことに頼っていると、悪い年が来たとき、凌ぐ術がありません。麦や蕎麦があれば、米が悪くても、食うものは残ります」
昌源は、まだ何も言わなかった。
しばらくして、静かに問いを重ねた。
「銭にはならぬぞ」
「……はい」
「麦も蕎麦も、米のようには売れぬ。儲けにはならぬ。それでも、やるか」
藤丸は、すぐに頷いた。
「儲けのためではありません。悪い年が来たとき、家の者が食うものに困らぬための備えです」
「悪い年が、来るとは限らぬ」
「来ないとも、限りません」
昌源の口元が、わずかに動いた。笑ったのか、ただ息を吐いただけなのか、藤丸にはわからなかった。
「もし、うまくいかなかったら」
「畔の隅、ほんの少しの分です。それで凌げぬほどの痛手には、なりません」
「種代は、どうする」
「私が、出します」
昌源の目が、初めて、わずかに動いた。
「お主の銭か」
「甚兵衛に託していたものです。まだ、わずかですが」
しばらく、部屋の中が静かだった。
昌源は、文机の上の紙を一枚、手元に引き寄せた。何かを書くのかと思ったが、すぐにはそうしなかった。ただ、紙の上に視線を落としたまま、口を開いた。
「畔の隅、北寄りの一区を使え」
藤丸は、顔を上げた。
「ただし」昌源は続けた。「うまくいかぬときも、いかぬときの理由を、お主自身の口で、わしに申せ。種代を出すというなら、その分の責は、お主が負うものじゃ」
「……かしこまりました」
「もう一つ」
「はい」
「これは、お主の思いつきとして、家中に広めはせぬ。広めるかどうかは、結果を見てから決める」
藤丸は、それにも頷いた。今すぐ大きく広めることを望んでいるわけではなかった。まずは、小さな一区から確かめたかった。
昌源は、それで話を終えた。何かを褒める言葉も、労う言葉もなかった。ただ、いつもの調子で、文机の上の紙に向き直った。
藤丸は、深く頭を下げて、部屋を出た。
* * *
廊下を歩きながら、藤丸は、自分の手のひらを見た。
(決まった)
何か大きなことをしたわけではなかった。畔の隅の、ほんの一区だ。麦か蕎麦が、うまく育つかどうかも、まだわからない。それでも、藤丸の中には、これまでとは違う重みが残っていた。
これまでは、誰かの困りごとを繋ぐだけだった。文吉の紙、仁助の乾物、甚兵衛の道――それらは、藤丸が作ったものではなかった。今日、初めて、自分の考えを、自分の銭で、自分の畑で、確かめることになった。うまくいかなければ、その理由を、自分の口で父に話さなければならない。
(これが、自分の分だ)
戦は親信が担う。暗躍は駒丸が担う。自分の分は、まだ形になっていなかった。だが今日、その輪郭に、また一つ、線が引かれた気がした。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日のことを、一つずつ思い出していた。
畔の隅。種代。父の、いくつもの問い。そして、最後に渡された、責という重さ。
(銭にはならぬ、か)
昌源の言葉を、もう一度、胸の中で繰り返した。儲けにならぬことを、家のためにやる――それは、これまで考えてきたこととは、少し違う種類の話だった。誰かが見ていなければ、いつか困る者が出る。儲けに繋がらなくても、やらねばならないことはある。
(そういう理屈が、ここにもある)
ただ、今は、誰かに言われてやるのではない。自分で見つけ、自分で申し出て、自分の銭を使う。その違いが、藤丸の中で、静かに重く沈んでいた。
障子の外で、秋の虫の声が、低く響いていた。藤丸は、目を閉じた。
今回、藤丸は初めて自分の考えを、自分の銭で、自分の田で試すことになりました。これまでは人と人とを繋ぐだけでしたが、「うまくいかなければ自分の口で理由を父に話す」という責を、自分から引き受けています。
昌源の「銭にはならぬぞ」という念押しと、それでも許しを出す間合いに、この親子らしいやり取りが表れていたように思います。戦は親信、暗躍は駒丸、そして藤丸自身の「分」が、少しずつ輪郭を持ち始めた回でした。
畔の隅の麦(あるいは蕎麦)が、この先どう育っていくのか、見守っていただければ幸いです。




