藤丸の種
もらった品が巡り巡って増えていく――藤丸が初めて自分の意思で「元手」を人に預けます。銭を託す怖さと、その先で聞いた米・麦・安芸の噂も合わせてお届けします。
夏の盛りが過ぎ、稲穂が色づき始める頃だった。
紙と乾物の荷を、甚兵衛の道に乗せてから、ふた月ほどが経っている。お咲は、相変わらず藤丸のそばで、針仕事をしながら過ごしていた。
その日の昼下がり、お咲が改まった顔で藤丸の前に座った。
「藤丸様。父から、聞いたことがあるのです」
「何でしょうか」
「文吉さんと仁助さんからいただいた紙と干物、父の荷に加えてから――少しずつ、それが元手になっているようなのです」
藤丸は、お咲の話を、黙って聞いていた。
甚兵衛は、紙の一部を、別の郷で布と交換した。干物は、ある村で塩と替えた。一つずつは、わずかな儲けにもならない。だが、それを繰り返すたびに、手元に残るものが、少しずつ増えていった。
「父が申しておりました。藤丸様からいただいた品が、巡り巡って、こうして増えていくのは――不思議なものだと」
藤丸は、それを聞いて、静かに頷いた。
(増える、か)
紙も干物も、自分が作ったものではなかった。誰かの困りごとを繋いだ礼として、たまたま手元に来たものだった。それを、また別の場所へ送り出した。それだけのことだったが、その先で、確かに何かが育っていた。
「これは、藤丸様のものです」
お咲は、小さな包みを差し出した。開けると、わずかな銭が入っていた。
藤丸は、すぐには受け取れなかった。
(これは――)
困っている人を繋いだだけだった。元手を出したのも、運んだのも、甚兵衛だった。それでまた品をもらうのは、二度目だった。一度目より、もっと筋が違う気がした。
「私は、何もしておりません。甚兵衛が、運んだのです」
「されど、元になったのは、藤丸様のいただいた品です」
お咲は、それ以上は言わず、ただ包みを差し出したままだった。
藤丸は、結局、それを受け取った。
* * *
その日の夕方、藤丸は甚兵衛のところへ向かった。次の旅に出る支度をしているところだった。
包みを差し出そうとした手が、一度止まった。
(持ち逃げされたら、それで終わりだ)
銭を人に預けるということが、どういうことか、藤丸にはわかっていた。前の生でも、金を預けて戻らなかった話は、いくらも聞いたことがある。この時代なら、なおのことだろう。甚兵衛が、この銭を持ったまま、二度と戻らないことも、できないわけではなかった。
だが、藤丸は、すぐにそれを打ち消した。
(甚兵衛には、それをする理由がない)
甚兵衛は、お咲の父だった。お咲は、藤の方付きの女中として、この屋敷にいる。甚兵衛が久武家との縁を切れば、お咲の立場も危うくなる。それに、甚兵衛がこれまで運んできた荷も、評判も、すべて「また次の仕事をもらえる」という見込みの上に成り立っていた。一度の持ち逃げで、それをすべて失うのは、甚兵衛にとっても割に合わない話のはずだった。
(それに、まだ少ない額だ)
大きな額ではなかった。失っても、藤丸の暮らしが傾くようなものではない。まずは、これくらいの額で、確かめればいい。
そう考えてから、藤丸は、ようやく銭を差し出した。
「甚兵衛。これを、また元手に使ってください」
甚兵衛は、少し驚いた顔をした。
「藤丸様。これは、藤丸様のものとして――」
「自分一人で持っていても、増えません。甚兵衛が動かしてくれるなら、また育つはずです」
甚兵衛は、しばらく藤丸の顔を見ていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「……承知しました。お預かりいたします」
藤丸は、それで十分だった。
(持っているだけでは、何も生まない。回してこそ、初めて意味を持つ)
前の生で、何度も聞いた理屈だった。だが、それを自分の手で、初めて試した。三歳の頃から欠片を集めるだけだった藤丸にとって、これは初めての一歩だった。ただ、今日は、ただ素直に渡したわけではなかった。誰に、どれだけ、どんな理由で預けるか――それを、自分の頭で考えてから渡した。それが、前回までとは違う、今日の変化だった。
* * *
その晩、甚兵衛は荷を検めながら、世間話のように口を開いた。
「そういえば、先頃、北のほうで聞いた話ですが」
「何ですか」
「今年は、米の出来が、ところによって悪いとか。ただ、麦や蕎麦を畑に作っておいた郷は、それほど慌てておらぬそうで。米が足りずとも、食うものはある、という顔をしておりました」
藤丸は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
(米だけではない、か)
畿内の飢饉の噂を聞いたのは、もうずいぶん前のことだった。あの話を聞いたときは、ただの遠い国の話だと思っていた。だが、今、目の前の話は、もっと近い。米が悪くても、麦や蕎麦があれば、それで食いつなげる郷がある。
「それは、土佐でも、できることでしょうか」
「さあ……それは、私にはわかりませぬ。ただ、よその国では、そうしておるところもあると申すだけで」
藤丸は、それ以上は聞かなかった。今日は、それで十分だった。
甚兵衛は、最後に、もう一つ付け加えた。
「それから、東のほうの話も、少し」
「東、というのは」
「安芸殿のところです。近頃、商人の出入りに、前よりうるさくなったとか。何を運んでいるか、誰の荷か、よく見られるようになったと聞きました」
藤丸は、その名を、胸の中で繰り返した。
(安芸――)
名は、前に親信から聞いたことがあった。北の本山と並んで、東にもう一つ、そういう名があるというだけの話だった。それきり、名前だけが頭の隅に残っていた。今日聞いたのは、その続きだった。商人の出入りを見張るというのは、何かが、少しずつ動き始めている証のように思えた。
「それは、何か、あったのですか」
「さあ、それも、私にはわかりませぬ。ただの、噂程度の話でして」
甚兵衛は、それだけ言って、荷を背負い直した。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日聞いたことを、一つずつ並べていた。
銭という元手。麦や蕎麦という、米以外の備え。そして、安芸という、まだ動きの読めない東の名前。
どれも、今すぐ何かになるものではなかった。元手は、ようやく動き始めたばかりだ。麦の話は、まだ土佐に当てはまるかどうかもわからない。安芸は、名前を聞いただけで、その先の何もわからなかった。
(一つひとつは、まだ小さい)
それでも、藤丸の中の地図には、また新しい点が、いくつか増えた。点と点が、いつ線になるのかは、まだわからない。だが、点がなければ、線にはならない。
紙の値、年貢の数字、堺の噂――これまで集めてきた欠片と、今日の三つは、どこかで繋がっている気がした。まだ、その繋がりは見えない。見えるまで、集め続けるしかない。
(待っているだけでは、足りない)
いつか自分に言い聞かせた言葉を、藤丸はもう一度、静かに思い出した。
障子の外で、秋の気配を含んだ虫の声が、低く鳴っていた。藤丸は、目を閉じた。
今回、藤丸は初めて自分の判断で銭を甚兵衛に託します。ただ素直に渡すのではなく、「なぜ甚兵衛になら任せられるのか」を自分の頭で考えてから渡した、というところに、これまでとの違いが表れています。
また、甚兵衛から聞いた三つの話――米以外の備え(麦・蕎麦)、そして東の安芸のきな臭い噂は、どれもまだ小さな点に過ぎません。それでも、藤丸の中に少しずつ地図が広がっていく様子が伝わればと思います。
次回以降、これらの点がどう繋がっていくのか、見守っていただければ幸いです。




