藤丸の段取り
紙屋の文吉さんが困っている――そんな小さな話から、藤丸が初めて「繋ぎ役」として動きます。駒丸との会話も含め、今回は少し兄弟の距離感が変わるお話です。
初夏の日差しが、日ごとに強くなっていた。
甚兵衛から堺の噂を聞いた日から、半月ほどが経っている。父に進言したあの日のことは、藤丸の中で、まだ形を変えながら残っていた。
(もそっと、見ておれ、か)
父の言葉を、藤丸は何度も思い出していた。あの日のように、また自分から父の間へ行くことは、まだ早い気がしていた。同じ手を、続けて使うものではない。それくらいは、わかっていた。
* * *
その日の昼下がり、お咲が縁側に座る藤丸のところへ来た。
「藤丸様。紙屋の文吉さんが、近頃、難しい顔をしているそうです」
「文吉さん」
藤丸は、その名を、すぐに思い出した。城下の道沿いで紙を商う、あの店先の主だった。客が紙の厚みを確かめてから値を聞く、あの店だ。
「何があったのですか」
「詳しくは、私もわかりません。ただ、父が言うには――荷が、思うように運べなくなっているとか」
藤丸の胸の奥が、わずかに動いた。
(それは――)
自分が父に話したことと、無関係ではない気がした。
* * *
藤丸は、お咲を連れて、城下まで足を運んだ。
文吉の店先は、以前と変わらず紙を積んでいたが、店主の顔には、見覚えのない疲れがあった。藤丸を見ると、驚いた顔をしたが、すぐに丁寧に頭を下げた。
「これは、藤丸様」
「文吉さん。困っていることがあると聞きました」
文吉は、少し迷ってから、口を開いた。
「実は……堺へ運ぶ船が、なかなか取れぬのです。これまでお願いしていた船頭が、近頃は別の荷で手一杯だと申しまして」
「別の荷、というのは」
「鉄砲やその薬を求める商人の荷だと、聞いております。船が先に塞がってしまい、私のような紙の荷は、後回しにされてしまうのです」
藤丸は、黙って聞いていた。
(やはり、そうか)
自分が父に話した筋が、文吉の店先で、そのまま起きていた。船と人手には限りがある――それは、ただの思いつきではなく、今、目の前にいる一人の商人を、確かに苦しめていた。
「このままでは、紙が売れずに、傷んでしまいます。だが船頭に頭を下げても、向こうにも事情があると言われれば、それ以上は……」
文吉は、それだけ言って、肩を落とした。
藤丸は、しばらく考えた。
(鉄砲の荷でないなら、船は空いているはずだ)
すべての船が、鉄砲の荷で塞がっているわけではない。塞がっているのは、堺との間を行き来する、限られた船だけだ。それ以外の船頭――近場の荷しか運ばない者なら、まだ余りがあるかもしれない。
ただ、それを誰が知っているかが、問題だった。
藤丸には、わからなかった。だが、わかる者を、一人知っていた。
「文吉さん。少し、待っていてください」
藤丸は、それだけ言って、店先を離れた。
* * *
裏門の脇で、甚兵衛はちょうど荷をまとめているところだった。藤丸を見ると、いつもの調子で頭を下げた。
「藤丸様。今日は、また何の御用で」
「甚兵衛。聞きたいことがあります」
藤丸は、文吉の店先で聞いた話を、一つずつ伝えた。船が鉄砲の荷で塞がっていること。紙が運べずに困っていること。
甚兵衛は、黙って聞いていた。
「それで、藤丸様は、何をお望みで」
「鉄砲の荷を運ばない船頭を、知りませんか。近場の荷しか運ばない人なら、まだ空きがあるかもしれません」
甚兵衛は、少しの間、藤丸の顔を見ていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「……心当たりが、ないわけではありません。浦戸まで出ぬ、国分川の内だけを行き来する船頭が、何人かおります。堺との取り合いには、関わっておりませぬ」
「その人たちなら、文吉さんの紙を、運んでもらえますか」
「さあ、それは……話してみねば、わかりませぬ。ただ、悪い話ではないかと」
甚兵衛は、そう言って、わずかに目を細めた。
「藤丸様は、そういうことまで、お考えになるようになりましたか」
藤丸は、それに、すぐには答えられなかった。
(考えるようになった、か)
困っている人がいて、別のところに、ちょうどいい空きがある。それなら、繋いだほうがいい。今日、初めてそう思った。それだけのことだった。
「困っている人がいて、ちょうどいい空きがあるなら、繋いだほうが、よいと思っただけです」
甚兵衛は、しばらく藤丸を見ていたが、やがて小さく笑った。
「よろしいでしょう。聞いてまいります」
* * *
それから五日ほどして、甚兵衛が文吉の店先へ顔を出したと、お咲から聞いた。
国分川の内だけを行き来する船頭の一人が、空いている荷の分だけ、文吉の紙を運ぶことを請け負ったという。大きな話ではない。これまでの半分ほどの量しか、一度には運べない。それでも、まったく運べないよりは、ずっとましだった。
文吉からの言葉は、藤丸に直接は届かなかった。ただ、お咲が伝えてくれた。
「文吉さんが、藤丸様に、よくよくお礼をと申しておりました」
藤丸は、それだけで十分だった。
* * *
その数日後、屋敷の客間から戻ってきた駒丸と、廊下で行き会った。
「藤丸」
「……兄上」
「紙屋の一件、聞いたぞ。船頭と商人を、お主が繋いだそうじゃな」
藤丸は、何と答えればいいか、すぐにはわからなかった。咎められるのか、それとも別の何かか。
駒丸は、しばらく藤丸を見ていた。それから、口元だけで、薄く笑った。
「客の応対も、似たようなものよ。誰が誰と話せば事が早いか、見極めて、その場を作る。お主のやったことと、そう違わぬ」
「……そうでしょうか」
「うむ」駒丸は、頷いた。「わしのは、誰かを動かして、わしの得になることを探す。お主のは、誰かと誰かを動かして、両方の得になることを探す。似ているようで、向きが違う」
それだけ言うと、駒丸は奥へ歩いていった。
藤丸は、その背を、しばらく見送った。
(似ているようで、向きが違う――)
以前、駒丸自身から言われた言葉と、よく似ていた。だが今日のそれには、前より少し、近いところに立っているような響きがあった。敵でも、味方でもない。それでも、まったく別の場所にいるわけでもない。
そのことが、藤丸の中に、小さく残った。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日までのことを、一つずつ思い出していた。
文吉の困った顔。甚兵衛との短いやりとり。お咲が伝えてくれた、礼の言葉。そして、駒丸の、あの一言。
今日、自分がしたことは、何も大きなことではなかった。困っている人と、空いている場所を、ただ繋いだだけだった。それでも、文吉の紙は、確かに運ばれた。
(名前は、残らなくていい)
父に進言したときのような、大きな手柄ではなかった。誰かに褒められるためにやったことでもなかった。ただ、目の前にある小さな困りごとを、片づけただけだった。それでよかった、と藤丸は思った。
障子の外で、夏の虫の声が、低く鳴っていた。藤丸は、目を閉じた。
今回、藤丸は自分の見立てが現実の困りごと(文吉の紙が運べない)につながっていることに気づき、初めて自分から動いて人と人とを繋ぎました。父への進言のような大きな手柄ではなく、名も残らない小さな段取りですが、藤丸にとっては大事な一歩だったように思います。
また、駒丸から「似ているようで、向きが違う」と評されたのも印象的でした。対人操作型の駒丸と、国家運営型の藤丸――同じ「段取り」でも向かう先が違うことが、今回の会話でくっきりと描かれています。敵でも味方でもない、この兄弟の距離感が、この先どう動いていくのか気になるところです。




