空いた行
前回、藤丸は山田のことを書いた行を四冊の帖から拾い直し、四本目の筋を見つけました。
今回は、その並べ直したものを佐吉に読んでもらいます。量り直す相手が欲しくて家に入れた者に、初めて帖をまるごと預ける日です。
抜き書きを一枚、作った。
四冊から拾った山田の行を、日の順に書き写しただけのものである。帖をそのまま渡してもよかったが、四冊を繰りながら読ませるのは、読む者の手間が大きい。手間の大きいものを渡すと、読むほうは大事なところだけを読む。大事かどうかを決めるのは、渡した側になってしまう。
書き写しながら、藤丸は一度だけ手を止めた。
抜き書きに入れる行と、入れない行がある。入れないと決めたものが一つあった。
そのことは、深く考えずに先へ進んだ。
* * *
昼を過ぎてから、佐吉を呼んだ。
部屋の空いた一畳には、一昨日から紙が数枚と硯が置かれている。文机はまだ入れていない。佐吉は板の間に膝をつき、背をまっすぐにして座った。
「山田のことを、並べ直しました。読んでいただけますか」
藤丸は、今年の帖と、抜き書きをした紙を一枚、前に置いた。
佐吉は両手で受け取り、目だけを動かした。読むのが早い。文字を追うというより、頁のどの辺りに何があるかを先に見ている。寺で五年、人の書いた帳を毎日開いてきた者の目だった。
「四つの筋が、同じ一つのことの、初めと、中と、今にございますな」
「四つ目は、今朝書いたばかりです」
「紙の値の」
「はい」
佐吉は、その行をもう一度見た。
「安芸の紙が高いのは、寺だからだと思うておりました」
「私も、そう思っていました」
「……道でございましたか」
それだけ言って、佐吉は黙った。責める色も、驚いた色もない。ただ、自分が五年払い続けた値のことを、いま初めて別の場所から見ている顔だった。
藤丸は、その顔を見て、少し安心した。
筋の並べ方について、佐吉は何も言わなかった。異を唱えなかったのではなく、そこには言うことがなかったのだろう。合っているものに、この者は「よう書けてございます」以上のことを言わない。
「ほかに、お気づきのところは」
藤丸は、そう訊いた。
軽い気持ちで訊いた。並べ直したところの粗を一つ二つ拾ってもらえれば、それでよかった。
佐吉は、抜き書きの紙を膝の上に置き、帖のほうを手に取った。頁を、三枚ばかり前へ繰った。
そして、指を止めた。
「頭の空いた行が、一つございます」
* * *
藤丸は、息を止めた。
春の頁だった。蔵改めの数日あと、甚兵衛が東回りから戻った日の、その次の行。
時季も、聞見の別も、筋の数も、何も書いていない。事柄の欄にも、何もない。頭から終わりまで、白いまま一行だけ空けてある。
「……気づかれましたか」
「はい」
「なぜ、そこだと」
佐吉は、帖を裏返して、光に透かした。
「消したのであれば、跡が残りまする。墨は、拭うても紙が毛羽立ちまする。この行は、毛羽立っておりませぬ」
佐吉は、帖を元に戻した。
「初めから、空けてございます」
藤丸は、答えなかった。
「前後の行は、日を置かずに書いておられます。書き足すために空けておかれたのなら、次の頁を書き始めるまでのあいだに埋まりましょう。埋まっておりませぬ。四月のあいだ、空いたままにございます」
佐吉は、そこで一度、目を上げた。
「これは、書かなんだのではのうて、書けなんだのではございませぬか」
* * *
部屋が、静かになった。
庭で、蝉が一匹だけ鳴いていた。
あの日、書こうとした言葉は、いまでも覚えている。
――山田は、残らぬ。
春に、山田の三つの筋が一本に繋がった夜のことだった。書こうとして、筆が止まった。この帖の決まりでは、事柄の前に出所を書く。見たのか、聞いたのか。どちらでもなかった。
頭の中には、帖とは別に、もう一冊の帳がある。紙でできていない帳である。前の世で覚えたものが、大方は薄れて、名前だけがいくつか残っている。土佐に大きな家が七つある、という並びの中に、山田という名は確かにあった。あって、その先が無かった。
北の本山。東の安芸。西の一条。この三つは、年と場所を伴って幾度も出てくる。山田だけが、名の一つきりだった。
名だけ挙がって先が無いというのは、早くに退いたということだ。
書けば、そう読める一行になる。読めば、その先を誰かが組み立てる。組み立てられるだけの重さが、あの一行にはあった。
だから、空けた。
四月のあいだ、誰も気づかなかった。
五日目に、気づかれた。
* * *
藤丸は、この者を家に入れた理由を思い出していた。
量り直す相手が欲しかった。自分の帖を、自分ではない目で読んでもらいたかった。
読んでもらったのだ。頼んだ通りのことが起きただけである。
(頼んだ通りのことが起きると、こうなるのか)
嘘は、つけなかった。つけば、この者の目を一度で腐らせる。この帖は嘘の入るものだと知った者は、二度と本気で読まない。
かといって、出所は言えない。言えるはずがなかった。
藤丸は、膝の上で手をそろえた。
「書けませんでした」
「は」
「この帖の決まりでは、事柄の前に出所を書きます。見たなら見、聞いたなら聞、それも誰から聞いたかまで。当て推量なら、何を見てそう思ったかを添える。添えられるから、当て推量として書けます」
「さようでございます」
「その一つは、どれにも入りません」
佐吉は、しばらく黙っていた。
黙っているあいだ、この者の頭の中で何かが並べ替えられていくのが分かった。読むのが早い者は、こういうときも早い。手がかりの少ないところへ手持ちのものを当てはめて、いちばん形の合うものを選ぶ。
やがて、佐吉は帖を膝の上に置き直し、背をさらに低くした。
「……差し出がましいことを、申し上げました。ご当家の内のことにございましょう。それがしは、伺うべきではございませなんだ」
「違います」
藤丸は、間を置かずに言った。
言ってから、自分でも少し驚いた。
四日前、この者は遅れの理由を言わなかった。嘘ではない。言わなかっただけだ。だが、言わなかったことで、遅れの出所がこの者に移った。
いま黙っていれば、この行の出所が、久武の家へ移る。移すのは、自分である。
それは、してはならない。
「家の内のことではありません。父上も、兄上たちも、母上も、この行のことは何もご存じありません。誰にはばかっているのでもありません」
佐吉が、顔を上げた。
「では……」
「出所は、私です」
藤丸は、白い行頭を指した。
「見たのでも、聞いたのでもありません。誰かの話から当てたのでもありません。私の中に、初めからあります」
「初めから」
「はい。どこで手に入れたのかを、私自身、うまく申せません」
嘘は、一つも言っていなかった。
言えることを、言えるだけ言った。この先へ一歩でも進めば嘘になるという、その一歩手前で止めた。
* * *
佐吉は、指を折るような目つきで、しばらく宙を見ていた。
「見。聞。当て推量」
「はい」
「三つにございますな」
「三つです」
「四つ目が、ございますのか」
藤丸は、答えなかった。答えないことが答えになるのは分かっていたが、それでよかった。
佐吉は、ふう、と短く息を吐いた。
「帳をつける者は、出所の欄が三つしかない帳を、三つで足りると思うて使いまする。足りぬものを持っている者だけが、足りぬと分かりまする」
その言い方には、責める色も、探る色もなかった。ただ、目の前に一つ、名のない箱が置かれたのを見ている顔だった。
「名が、ございませぬな」
「ありません」
「名のないものは、書けませぬ」
佐吉は、そう言って、帖の縁を指で軽く押さえた。
「それがしは、その四つ目が何かは伺いませぬ。伺うても、書ける形にはなりますまい」
藤丸は、頭を下げたくなるのをこらえた。
この者は、訊かないと言ったのではない。訊いても帖の役には立たぬから訊かない、と言ったのだ。理由が、帳場の理屈でできている。
(だから、この先も崩れない)
崩れないものを、いま一つ渡してしまった。
* * *
「その行は、空けたままがようございます」
佐吉は、続けてそう言った。
「埋めれば、出所のあるものと同じ顔になりまする。あとで読む者は、頭に何か書いてあれば、それを出所として読みまする。読んで、その先を組み立てまする」
「……空いておれば」
「読む者は、そこで止まりまする。止まるように書いておくのが、いちばん正直にございます」
佐吉は、少し目を伏せた。
「住職様の帳にも、書かぬことがいくつもございました。それがしは長いこと、書き忘れだと思うておりました。二年ばかり前から、空けたところをそのままにするようになりましてございます。なぜかは、うまく申せませぬ」
うまく申せませぬ、と、この者は今日二度言った。
自分も、今日一度言った。
* * *
佐吉が下がったあと、藤丸は帖を開いたままにしておいた。
夏の頁には、今朝書いた四つ目の筋がある。安芸の紙が高いのは道の待ちのせいだ、番の者が一人戻れば紙はまた上がる、と。出所も、当て推量である断りも、きちんと書いてある。誰が読んでも、どこから来た話かが分かる。
春の頁には、白い行頭が一つある。
四月のあいだ、そこには何も書かれていない。これから先も、たぶん書かれない。
嘘は、つかずに済んだ。父の名も、家の名も、一つも使わずに済んだ。
そのかわり、この帖には出所が四つあると、もう一人が知った。
四つ目の名は、まだない。名のないうちは、誰にも書けない。書けないものは、消えもしない。
藤丸は、白い行頭をもう一度見た。
空けておけば、読む者はそこで止まる、とこの者は言った。
止まった者が、いつまで止まっていてくれるかは、言っていなかった。
今回は、書かれていない一行の話でした。
戦国期の紙は高価で、書き損じや不要になった文書をそのまま捨てることはあまりありませんでした。使い終えた紙を漉き返して作り直した再生紙も広く使われており、墨が残るために薄い鼠色になることから、宿紙、薄墨紙などと呼ばれています。
一度紙に染みた墨は、水で洗ったり表面を削ったりしなければ消えません。どちらにしても紙は傷みますから、消した跡は残ります。佐吉が紙を光に透かして毛羽立ちを見た所作は、そうした紙の性質から組み立てた場面です。もっとも、当時の帳場でこれが見抜きの技として語られていたという記録があるわけではありませんので、そこは物語としてお読みください。
なお、分からないことを埋めずに空けておく、という書き方は、後の時代の公文書にも見られます。あとから読む人を迷わせないために、書けないところは書けないままにしておく。地味な作法ですが、記録を長く使うためには、書くことと同じくらい大事な判断だったのだろうと思います。




