四つめの筋
前回、同じ二日の道について、二つの食い違う話が帖に並びました。
今回は、藤丸が三年ぶんの帖を机の上に全部広げます。
一つずつ見ていたときには何でもなかった行が、日の順に並べ直すと、別のものに見えることがあります。
そして、並べられる者は、たいてい一人しかいません。
五日目の朝は、よく晴れた。
藤丸は文机の上に、帖を四冊とも並べた。
天文十五年、十六年、十七年、そして書きかけの今年。四冊がこうして一度に机に載ったのは、久しぶりのことだった。ふだんは今年の一冊を開いておけば足りる。遡るのは、何かを確かめたいときだけである。
昨日、並べる日ではないと決めた。今日が、その日だった。
山田のことを書いた行を、一冊ずつ拾っていく。
一つ。山田の御領分の道に、改め場ができた。荷を一つずつ検めるようになった。
一つ。山田が警戒しているのは、東の安芸ではなく、西の岡豊である。
一つ。東回りの便が、七日から八日、九日、十日へと、段々に延びた。
この三つは、去年のうちに、別々の日に書いた行である。
その下に、今年の春の行がある。
一つ。改め場に、人がおらぬ。小屋はそのまま。荷は止められもせず通った。便は十日から九日に縮んだ。
一つ。主だった衆が二人、館に上がらぬ。館では冬じゅう猿楽が続いていた。
この春、上の三つと下の二つが一本に繋がった。締めていたのだ、と読んだ。締めていた手が、いま足りなくなっているのだ、と。
そして昨日、書いたばかりの行。
一つ。改め場に、番の者が一人おる。荷駄が二十いくつ詰まり、二刻待たされた。帰りは、行きより長かった。
藤丸は、筆を置いた。
波が、三つある。
締める。手が離れる。また、締め直す。
* * *
読み方は、二つあった。
一つ目。割れていた家中が、片がついた。どちらかが勝ち、館の内が一つに戻った。戻ったから、放り出されていた道にもう一度人を置ける。
二つ目。割れたままである。ただ、締める側の誰かが、道だけは押さえておかねばと考えた。誰が置いた一人なのかは分からない。
(どちらでも、番の者は一人だ)
紙の上に出てくるものは、同じだった。同じものが出てくる以上、この二つは、この行だけでは選り分けられない。
藤丸は、当て推量の欄に小さく書いた。
――締め直しか、締め残しか。分からず。分からぬまま置く。
昨日と、同じ書き方になった。
二日続けて、決められぬと書いている。前は、決められぬと書くのが怖かった。書いたら、何も分かっていないことが紙の上にそのまま残ってしまう。
いまは、少し違う。決められぬと書いておけば、決められるようになった日に、どこが変わったのかが分かる。
書かなければ、変わったことにも気づかない。
* * *
昼前に、お咲が書付を持ってきた。
東回りの便の日数を書き入れる列は、去年の梅雨明けから途切れていない。去年、道筋の列を一つ増やしてもらってからは、どの村を通り、どこで泊まったかも短く書いてある。
「甚兵衛殿の分は、まだ書けませぬ。今度は商いの旅ではございませんゆえ」
「それでも、日は入れておいてください。安芸まで二日、戻りに二日」
「戻りは、暮れ方でございましたとか」
「はい。二日と書いて、脇に暮れ方着と入れておいてください」
お咲は頷いて、筆を走らせた。
藤丸は、その手元を見ながら、ふと思い出した。
「お咲殿。紙は、いつも文吉の店から買っておりますね」
「はい。ほかに求めるところがございませぬ」
「値は、この頃どうです」
「先だっては、少し上がっておりました。雨が続きましたゆえと、手代殿が」
藤丸は、礼を言って書付を受け取った。
そのあと、しばらく動かなかった。
* * *
二日前、佐吉に紙のことを訊いた。
安芸の寺でも紙は買っていた。値を覚えているかと訊いたら、覚えておりますと言って、束いくらの数を答えた。その数は、岡豊の値より高かった。
あのとき藤丸は、三つ考えた。道が遠いからか、船に乗るからか、買う量が違うからか。どれも当てはまりそうで、どれに決める理由もなかった。理由は分からぬまま残す、と帖に書いた。
運んだ分が値に乗ることは、考えるまでもない。
――前の世でも、遠いところの物は高かった。それはわざわざ口に出すことではなく、誰も数えなかった。数えていたのは、いくら高いかではない。去年より、いくら高いかのほうだった。高いという数からは何も出てこない。変わったという数からしか、出てこない。
道の遠さは、去年も一昨年も同じである。同じものからは、違いが出ない。
藤丸は、そこで初めて、道のどこを通るかを考えた。
紙は、西の川筋の村々で漉く。文吉が、そう言っていた。この辺りでは、昔から買うものである。
西で漉いた紙が、岡豊を通り、東へ運ばれる。
東へ運ぶには、山田の御領分を通る。
(通り道に、荷を止める場所が一つある)
藤丸は、帖を開いた。
小屋には、去年は人がいた。春には、いなかった。昨日書いたばかりの行では、また一人、座っている。
人が座れば、荷は止まる。止まれば、待つ。待った分は飯になり、宿賃になり、荷に乗る。そこまでは、勘定するまでもない。
勘定しなければ出てこないものは、その先にあった。
紙の値の動き方が、あの小屋の人の出入りと、同じ形をしている。
安芸の紙が高いのは、寺のせいでも、海のせいでもない。遠いせいですら、半分でしかなかった。遠さは動かない。動いていたのは、小屋に人が座っているかどうかのほうだ。
藤丸は、筆を持つ手が少し速くなるのを感じた。
――夏。見(当て推量)。一筋。安芸の紙、岡豊より高し。因、遠きに半ば、道の待ちに半ばか。
書いてから一度読み返し、当て推量の欄にもう一行足した。
――番の者が一人戻れば、安芸の紙は、また上がる。
その一行を、しばらく見ていた。
山田の館の中で誰が何を決めたかは、こちらからは見えない。見えないものを、紙の値のほうが、代わりに数えている。
値を覚えている者は、いる。文吉も、お咲も、佐吉も、上がった下がったは知っている。だが、その値を、改め場の小屋に座っている者の数と並べて置いている者は、どこにもいない。
(並べさえすれば、見える)
先ごろ、文吉の店で紙を買い足したとき、値は自分の都合とは何の関わりもないところで動く、と書いた。あれは正しかった。ただ、関わりがないのではなかった。
(関わりが、遠かっただけだ)
山田の館で、誰かが人を一人、小屋に戻す。それだけのことが、二日の道を隔てた寺の、紙一枚の値を動かす。動かされた側は、なぜ上がったのかを知らない。知らないまま、少し多く払う。
藤丸は、しばらく考えてから、廊下へ出た。
お咲は、まだ奥の板の間にいた。書付を綴じ直しているところだった。
「お咲殿。書付に、列をもう一つ増やしていただけますか」
「日数と、道筋と、あと一つ、でございますか」
「紙の値です。文吉の店から買うたびに、束いくらであったかを、日と一緒に書いておいてください」
お咲は、筆を止めた。
「値は、そのつど手代殿が申されますが……書き留めるほどのものでございましょうか」
「いまは、まだ分かりません」
藤丸は、正直にそう答えた。
「ただ、上がった下がったを覚えているだけでは、いつ上がったのかが分からなくなります。上がったときに何があったのかを、あとで並べられません」
お咲は、少しのあいだ考えて、頷いた。
「日数のときと、同じでございますね」
「同じです」
去年、便の日数を書き始めたときも、同じことを言われた。何のためかと訊かれて、うまく答えられなかった。一年経って、その列は山田の筋の一本になった。
あのときは、たまたま繋がった。今度は、繋がる先に見当がついている。
(見当のついているものを数えるのは、初めてだ)
お咲は、新しい列の頭に「紙」と書いた。二字目の墨が、少しかすれた。硯に筆を戻し、もう一度なぞり直してから、一つ訊いた。
「値が上がりましたら、お知らせしたほうがよろしゅうございますか」
「いえ。書いておいていただくだけで」
知らせてもらうと、上がった日のことばかり考える。下がった日も、動かなかった日も、同じ重さで並んでいなければ、あとで読めない。
お咲は、それ以上訊かなかった。
藤丸は、帖を閉じかけて、やめた。
閉じる前に、もう一度、山田の行を上から下まで読み直した。
四つ目の筋が、いま一本増えたことになる。改め場、警戒の向き、便の日数、そして紙の値。四つとも、山田の館の中では、たぶん誰も並べていない。
並べているのは、この部屋にいる者だけだ。
そして明日から、その一つは、お咲の紙の上でも数えられていく。
いつもお読みくださり、ありがとうございます。
今回、土佐の紙が西の川筋の村々で漉かれるという話が出てきます。土佐の製紙は古くから知られますが、この時期に村ごとにどれほどの量が漉かれ、どういう値で取り引きされていたかを直接示す史料は乏しく、作中の値の動きはあくまで物語の中のものとお考えください。
関所や改め場を通るのに掛かった手間や費用が、そのまま荷の値に乗せられていく――という筋道自体は、後の時代の記録にはしばしば見えるところです。ただし、それを誰かが年ごとに書き留めて並べていた、という例はほとんど残っていません。残らなかったのか、初めから誰も並べなかったのか。そこは分かりません。
藤丸がやっているのは、特別なことではありません。ただ、捨てずに取っておいて、順に並べただけです。
次回もお付き合いいただけましたら幸いです。




