解かれぬ包
天文十八年(一五四九)六月半ば過ぎ。藤丸は数え十一、佐吉は十四、次兄・親直は二十一になります。
前回、藤丸は自分の帖の抜き書きを佐吉に渡し、四月のあいだ空けたままにしてあった一行を見抜かれました。今回は、その翌日の話です。
久武の屋敷に、もう一人、この者を見にきた目があります。
佐吉は、朝のうちに写しを一枚、取り終えていた。
昨日渡した抜き書きの、控えである。渡したほうは佐吉の手元に置き、同じものをもう一枚、藤丸の帖の脇に戻す。そうしてくれと頼んだ覚えはない。頼まぬうちに、そうなっていた。
藤丸は、戻された一枚を手に取った。
字は、似ていない。佐吉の字は角が立っていて、行の頭がきれいに揃う。五年、寺の帳を書いてきた手である。
似ていたのは、行の切り方だった。どこで行を変え、どこを一段下げるか。それが、こちらの帖と同じになっている。教えた覚えはない。
(渡したつもりのないものが、渡っている)
昨日も、そうだった。
――四つ目が、ございますのか。
訊かれて、答えなかった。答えないという形で、あると言ってしまった。名のないものは書けませぬ、と佐吉は言い、その先を訊かなかった。あの引き際は、崩れない。訊かぬ理由が、帳場の理屈でできているからだ。
こちらから出ていくものは、こちらで止められない。
では、向こうから入ってきたものは何か、と藤丸は思った。
(前の世でも、人が一人入ってくれば、その者の来し方も一緒に入ってきた。誰が入ってきたのかは、もう思い出せない。ただ、先に来し方のほうを読んだ覚えだけが、手に残っている)
自分は、この者の来し方を、ほとんど何も知らない。
安芸の寺に九年いたこと。帳場を五年預かってきたこと。父が一条家中の代替わりの折に座を失い、ほどなく亡くなったこと。母方の伝手で寺へ入ったこと。
父から聞いたのは、それだけである。一年半ばかり前に一度聞いて、それきり、中身は一つも増えていない。
父の名は知らない。どこの生まれかも、何をしていた人かも知らない。
訊いていないのだから、知らないのは当たり前である。
当たり前だ、と思ってから、藤丸は少しだけ落ち着かなくなった。
廊下に、足音がした。
早くもなく、遅くもない。屋敷の中を歩き慣れた足音だった。
* * *
親直は、敷居のところで足を止めた。
佐吉が板の間に手をつき、名を述べて頭を下げる。門前で泥に膝をついたときと、同じ深さだった。
親直は、中へは入ってこなかった。敷居を跨がず、柱に軽く肩を預けて、部屋の中を見ている。硯、筆、紙の束、隅に寄せた風呂敷。見終わるまでに、大した時間はかからない。
「藤丸。邪魔をするぞ」
「はい」
そう言ってから、親直は佐吉のほうへ顔を向けた。
「安芸の寺じゃそうな。何年おった」
「九年にございます」
「帳場は」
「五年、預かってまいりました」
「よう覚えておる」
「……数えられるものにございますゆえ」
親直が、わずかに笑った。笑って、次を訊いた。
「その前は、どこにおった」
佐吉の返事が、一拍だけ遅れた。
遅れたことが、藤丸には分かった。分かるほど短い、一拍である。
「西にございます」
「西の、どこじゃ」
「……中村にございます」
「ほう」
親直は、それきり黙った。黙って、佐吉を見ている。
佐吉も、頭を下げたまま動かない。
藤丸は、口を挟もうとして、挟めなかった。挟む理由が見つからない。兄は声を荒らげてもいないし、咎めてもいない。ただ、訊いている。
「父御は」
親直が言った。
「御用の紙を扱う役の、下におられたそうじゃな」
部屋の中の音が、消えた。
佐吉が、顔を上げた。上げてから、上げたことに気づいたように、また下げた。
「……はい」
藤丸は、三日前のことを思い出した。この者は、紙の束を一枚だけ指の腹でなでて、厚みと漉き目のことを言った。あのとき自分は、帳場を預かる者は紙にも目が利くものだと思った。
「よい」
親直は、それだけ言った。
それだけ言って、柱から肩を離す。
「訊いたことは、みな、こちらが先から知っておることじゃ」
佐吉が、動かなくなった。
「知らぬことは、訊かぬ。訊いたところで、まことかどうか量れぬでな」
藤丸は、その言い方を、どこかで聞いた気がした。すぐに思い当たった。自分の帖の作法である。出所の分からぬ話は、当て推量の欄へ落とす。兄は同じことを、人の口に対してやっている。
「藤丸」
親直は、廊下のほうへ顎を向けた。
「少し、顔を貸せ」
縁側の端まで来て、親直は足を止めた。
庭には日が回っていて、井戸のほうから水を汲む音がしている。梅雨の晴れ間が、三日続いていた。
「よう答える者じゃな」
親直は、庭を見たまま言った。
「訊いたことに、みな答えた。答えとうない顔をしながら、みな答えた。……なぜだと思う」
藤丸は、答えなかった。
答えが浮かばなかったのではない。浮かびかけたものが、口に出す前に嫌な形をしていた。
「四月に、中村の御所様が果てられた」
親直は、続けた。
「跡目は七つじゃ。当分、あの家は身内のことで手一杯よ。……昔、あの家の代替わりで座を失うた者の子が、いま、どこでどうしておるか。誰も思い出さぬ。思い出す者がおっても、思い出したところで、返してやる座がない」
水を汲む音が止まり、また始まった。
「戻る先が無うなった者はな、藤丸。いま立っておる場所を無くすのが、何より怖い」
親直は、そこで初めて藤丸のほうを見た。
「怖い者は、断らぬ」
藤丸は、庭の一点を見ていた。
「お前、あの者に何をさせておる」
「……まだ、何も」
「何もさせておらぬのに、毎朝、廊下が拭かれておるな。薪も積み直してある。誰も命じておらぬのに、じゃ」
親直の声には、責める色がなかった。それが、かえって逃げ場を塞いだ。
「藤丸。忠義というのはな、断れる者がするものよ」
藤丸は、まだ何も言わなかった。
(断れぬ者が言うことを聞くのを、こちらは有難がっていた)
着いた日から、毎朝、廊下が拭かれている。止めたのは一度きりで、代わりを渡せなかった。あのとき自分は、渡すものが見つからないと思っていた。渡すものがないのではない。あの者は、渡されなくても止まれないのだ。
「あれを忠義と読むな」
親直は、庭へ目を戻した。
「読めば、いつか読み違える。読み違えたほうが困る日が、必ず来る」
それきり、しばらく黙っていた。
藤丸は、何か言うべきだと思った。思ったが、言えることが一つも無かった。兄の言ったことに、間違いが見つからない。数が合わぬところが、どこにもない。
「咎めてはおらぬ」
親直は、縁側を離れながら言った。
「ようできた者じゃ。……ようできた者が、断れぬというだけの話よ」
二、三歩行って、足が止まった。
「わしは、あの者を使えると見た」
振り返らずに、そう言った。
「使えると見たのが、わし一人とは限らぬ」
それだけ言って、親直は廊下の角を曲がっていった。
* * *
部屋へ戻ると、佐吉は写しの続きにかかっていた。
筆の運びは、朝と変わらない。乱れていない。乱れていないことのほうが、藤丸には気にかかった。
藤丸が座っても、佐吉は顔を上げなかった。一行を書き終えてから、筆を置いた。
「藤丸様」
「はい」
「あの御方は、それがしの算用のことを、一度もお訊きになりませんでした」
藤丸は、佐吉を見た。
「寺で何年帳場を預かったかは、お訊きになりました。何を書いてきたかは、お訊きになりませぬ。……九年と五年は、数にございます。数だけをお訊きになって、中身をお訊きにならなかった」
佐吉は、そこで少しだけ間を置いた。
「訊かずとも足りると思うておられるのか、訊いても仕方がないと思うておられるのか。それがしには、どちらとも量れませぬ」
藤丸は、返す言葉を探した。
探しているうちに、佐吉が先に続けた。
「どちらでありましても、それがしのいたすことは、変わりませぬ」
言い終えて、佐吉は筆を取り直した。
それきり、写しの音だけになった。
(この人は、量られたことを、分かっている)
分かっていて、なお変わらぬと言った。それは、兄の言ったことの証しでもあり、兄の言ったことに入らぬものでもあった。断れぬから変わらぬのか、断る要がないから変わらぬのか。ここでも、二つの読み方があって、選り分けられない。
いつもなら、当て推量の欄に書く。合わぬまま置く、と書けばよい。
書けなかった。合わぬまま置いてよいのは、数の話である。
* * *
部屋の隅に、風呂敷が畳んで置いてある。
着いた日に解いたきりで、中身は着替えが一組と、油紙の包みが一つ。包みは、そのまま隅に寄せてある。
何が入っているのかを、藤丸は知らない。
訊けば、答えるだろう。この者は、訊かれたことには答える。今日、兄にそうしたように。
――こちらから、先に訊かぬこと。
今年の帖の巻頭に、自分でそう挟んだ。挟んだときは、こちらの都合で相手を掘らぬための一行のつもりだった。
兄は、訊かずに知っていた。
藤丸は、その包みを、しばらく見ていた。
着いた日から、一度も解かれていない。
作中に「座を失う」という言い方が出てきます。
主家の代替わりや家中の争いで、所領や役目を失った武士のことを、中世には「牢人」と書き表した例が見られます。もとは律令の頃の「浪人」――本貫の地を離れた者――を指す語であったものが、中世には所領・所職を失った者の意で用いられるようになった、と言われています。主君を失った武士という、後の世でおなじみの意味合いが広く定着するのは、江戸に入ってからのことのようです。
家が一つ傾いたときに、そこにぶら下がっていた小さな役目までが一緒に消えてしまう。佐吉の父が失ったのも、そういう種類のものでした。
もう一つ、中村について。
一条家が土佐に根を下ろしたのは、応仁の乱の頃、前関白・一条教房が所領であった幡多荘へ下向したことに始まると伝えられます。以後、中村は土佐の西の中心として栄えました。作中で触れられた房基の死は天文十八年四月のことですが、その最期の様子については後の世に編まれた書物によるところが大きく、確かなことは分かっておりません。
なお、当時の武家が子を寺へ預けることは珍しくありませんでした。読み書きや算用を学ぶ場が、寺のほかにあまり無かったためです。ただし、佐吉のように帳場そのものを任される例がどれほどあったかまでは、記録に乏しく、はっきりしたことは言えません。




