同じ代紋
街の境目で龍司が拳を振るってから、十日ほどが過ぎた。4月も下旬に入り、神楽町では昼間なら上着を脱いで歩く人間も増えている。商店街の店先には春物の服が並び、八百屋には筍が積まれ、夕方になっても冬のような冷え込みは残らない。季節が少しずつ先へ進む一方で、あの日から続いていた揉め事だけは、止まったように見えていた。
白い軽トラックは姿を消し、柴崎と龍司が突き止めた倉庫にも近づいていない。榊が「あの辺は触るな」と決めた以上、榊組の人間は誰も勝手に動かなかったし、向こうから新たに連絡が入ることもなかった。
何も起きない日が続けば、龍司にとってはそれが一番退屈だった。
「兄貴。もう終わったんちゃいます?」
昼過ぎの事務所で、龍司はソファに深く腰を沈めながら水谷へ声を掛けた。水谷は机に広げた書類へ目を落としたまま、「何がや」とだけ返す。
「あいつらですよ。もう十日ぐらい何もないでしょ」
「せやな」
「向こうも消えたし」
「せやな」
「ほな終わりやん」
「お前の中ではな」
「ちゃうんすか?」
龍司が身体を起こすと、水谷はようやく書類から顔を上げた。
「向こうが商売止めただけや。シマの話は何も決まってへん」
「でも誰も来てないですやん」
「来てへんから何や」
「いや……終わったんかなって」
「龍司。揉め事いうんは、毎日殴り合いしてる時だけ揉めてるわけちゃうぞ」
「分かってますけど」
「分かってへん顔しとる」
「どんな顔ですか」
「暇そうな顔や」
龍司が言い返そうとしたところで、机の電話が鳴った。水谷が受話器を取り、いつもの調子で「はい、榊です」と応じる。龍司は煙草を咥えて背もたれへ身体を預けた。ここ数日、電話が鳴るたびに例の話かと思っていたが、そのほとんどは普段の用件だった。
だが今回は違った。
「……はい。分かりました。親父にも伝えます」
水谷の声が僅かに低くなった。受話器を置くと、そのまま奥へ声を掛ける。
「親父」
ほどなくして榊が出てきた。
「なんや」
「天真会からです。例の件、向こうの筋が分かったそうです」
榊の足が止まる。
「どこや」
「京極組です。二代目京極組」
事務所にいた柴崎の表情が変わった。寺島も読んでいた新聞から静かに目を上げる。
龍司だけが首を傾げた。
「京極組?」
榊は煙草を一本取り出し、火をつけた。
「四代目天龍会の直参や」
「……天龍会?」
「ああ」
龍司が眉を寄せると、水谷が説明する。
「直参いうんは、本家から直接盃もろてる組や。天真会と同じや」
「ほな……」
龍司は榊を見る。
「俺らと同じやん」
「何がや」
「榊組は天真会の下で、その天真会が天龍会なんやろ?」
「せや」
「京極組も天龍会なんやろ?」
「せや」
「ほな同じやん」
龍司には、それ以上どう説明すればいいのか分からなかった。相手がまったく別の組なら話は単純だ。自分たちのシマへ勝手に入ってきた外の人間。それなら榊組としてどう対応するかを考えればいい。
だが京極組は違う。
組織の線を上へ辿れば、最後は自分たちと同じ四代目天龍会へ行き着く。
「同じ代紋つけてんのに、なんで揉めんねん」
「同じ代紋いうても、同じ組ちゃうからや」
水谷が答えると、龍司はますます分からないという顔をした。
「でも仲間やろ?」
「仲間いう言葉だけで全部片づくほど簡単ちゃう」
「なんで?」
「お前ほんま一から説明せなあかんな」
柴崎が呆れたように煙草を咥える。
「天龍会いうても、一個の組に一万人そのまま詰まってるわけちゃう。直参の親分が何人もおって、それぞれが自分の組持って、その下にもまた組がある。シマも商売も付き合いも全部同じちゃうねん」
「それは分かるけど」
「ほな分かるやろ」
「分からん」
「なんでやねん」
柴崎が顔をしかめるが、龍司は本気だった。
「同じ天龍会やったら、先に話したらええやん。境目で商売したいんやったら、榊組に一言言うたら済む話やろ。なんで自分らがどこかも言わんと商売してんねん」
柴崎は何か言おうとして、やめた。
「そこはお前の言う通りや」
榊が煙を吐きながら言った。
「え?」
「同じ代紋やからこそ、普通は先に話通す。境目が曖昧ならなおさらや」
「ほな向こうが悪いやん」
「まだ決めんな」
「なんで?」
「向こうには向こうの言い分があるかもしれん。お前が知ってる話は、自分が見た分だけや。向こうが誰から何聞かされて、どういう話であそこで商売させてたんか、まだ分からん」
「でも――」
「京極組の名前が出たからいうて、向こう全部が悪いと決まったわけちゃう」
榊の声は強くなかったが、龍司は口を閉じた。
水谷が続ける。
「それに相手が同じ天龍会やったら、余計に勝手なことできん。外の組と揉めるんと、同じ代紋同士で揉めるんは意味が違う。下の人間が勝手に話広げたら、上まで巻き込むことになる」
「同じやったら話早いんちゃうん?」
「お前ほんまそこ好きやな」
「だってそうやろ」
「その辺はそのうち分かる」
「説明諦めたやん」
柴崎が鼻で笑った。
「水谷の兄貴でも無理なんや。俺が説明せんでよかったわ」
「兄貴も分かってへんだけちゃうん」
「殴るぞ」
「すぐそれや」
「お前にだけは言われたないわ」
寺島が新聞の向こうで小さく笑った。いつもの榊組なら、それで話は終わるところだったが、榊だけは煙草を吸いながら何かを考えていた。
「水谷」
「はい」
「京極のどの辺まで出てきてる」
「向こうの若い衆が使ってた連中らしいです。京極の親分が直接出てきてる話ではないと聞いてます」
「上は?」
「そこまではまだ。ただ、天真会には話上がってます」
榊は小さく頷いた。
「分かった。こっちは今まで通り動かすな」
「はい」
「柴崎。倉庫も見に行くなよ」
「分かってます」
榊の視線が最後に龍司へ向いた。
「お前もやぞ」
「俺、最近なんもしてへんやん」
「そのまま何もすんな」
「信用なさすぎません?」
「あると思うか?」
龍司は少し考えた。
「……ちょっとぐらいは」
「ない」
「即答やん」
柴崎が吹き出し、水谷も僅かに口元を緩めた。張っていた空気が少しだけ和らいだが、龍司の頭には、さっき聞いた名前が残っていた。
二代目京極組。
四代目天龍会直参。
同じ代紋。
それまで龍司の中では、榊組の外側にいる人間はもっと単純だった。榊組と同じ側にいるのなら味方で、違うのなら必要に応じて拳を構えればいい。だが京極組は、そのどちらにも綺麗に収まらない。同じ天龍会に属しながら、守る場所も抱える人間も違う。
龍司は右手を開き、拳を作った。
あの日は、目の前の男が腹立たしかった。ただそれだけで振った拳だった。
その一発が榊組の話になり、天真会まで上がり、今度は四代目天龍会直参という、自分がまともに意識したこともなかった組の名前まで出てきた。
拳が届いたのは目の前の男一人だったのに、話だけは龍司の知らない場所まで進んでいた。
夕方になり、柴崎と寺島が出ていったあと、水谷は榊の部屋に呼ばれた。窓の外では日が傾き、神楽町の商店街から店じまいを始める音が聞こえてくる。
「親父。気になることあります?」
榊は灰皿へ煙草の灰を落とした。
「京極がどうこうやない。なんで今まで名前伏せてたんやろな思ってな」
水谷も同じことを考えていた。
最初に境目へ出てきた男たちは、榊組の名前を知っていた。それでも自分たちが誰の筋なのかは明かさなかった。次に出てきた男も、上には話を通していると言いながら名前を出さず、十日近く経ってからようやく天真会を通して京極組という名前が降りてきた。
「最初から京極組の名前出してたら、龍司も殴らんかったかもしれませんね」
「いや。あいつは殴る」
榊が即答し、水谷が思わず笑った。
「確かに」
「そこは期待したらあかん。せやけど、京極の名前が最初から出てたら、こっちの動きは違った。向こうもそれぐらい分かってるはずや」
「下の連中が勝手に伏せてただけかもしれません」
「せやな」
「京極組そのものがどこまで知ってたんかも、まだ分かりません」
「ああ。せやから決めつけん。まず向こうが何言うてくるか待つ」
「分かりました」
「龍司も見といたってくれ。あいつ、待つん一番苦手やからな」
「最近は前よりマシですよ」
「十日で人間変わったら苦労せんわ」
水谷が笑い、榊も小さく鼻を鳴らした。
翌日の昼過ぎ、龍司は相沢と二人で商店街を歩いていた。水谷から頼まれた用事を済ませた帰りで、相沢は煙草を咥え、龍司は買ったばかりの缶珈琲を片手にしている。
「なあ。京極組って知ってた?」
「名前ぐらいは」
相沢が何でもないことのように答えたので、龍司は足を止めた。
「お前知ってたん?」
「なんでそんな驚くねん」
「俺知らんかったぞ」
「お前が知らんだけやろ」
「先言えや」
「いつ言うねん。昨日まで京極組の話なんか一回も出てへんやろ」
相沢は呆れながら歩き続け、龍司もその横へ追いついた。
「有名なん?」
「そら直参やから、名前知ってる奴は知ってるやろ」
「強い?」
「何が?」
「組が」
「知らんがな」
「直参やったら強いんちゃうん」
「お前、全部喧嘩で考えるんやめた方がええぞ。人数もあるし、金もあるし、人付き合いもある。本家でどういう立場なんかもあるやろし、喧嘩強い奴が何人おるかだけで決まるもんちゃうやろ」
龍司は缶珈琲を飲みながら顔をしかめた。
「またややこしい話やな」
「極道なったん誰やねん」
「俺」
「ほな覚えろ」
「お前、最近兄貴らみたいになってきたな」
「お前とおるからや」
二人はくだらない言い合いを続けながら、いつもの商店街を歩いた。店主が客を呼び込み、子供が自転車で走り抜け、路地では近所の老人が立ち話をしている。龍司が昔から知っている神楽町の景色は、京極組という名前を知ったからといって何一つ変わらない。
それでも龍司の中では、街の外側が少しだけ広がっていた。
榊組があり、その上に二代目天真会がある。さらにその上に四代目天龍会があり、同じ天龍会には二代目京極組のような別の組もある。
全部知っているつもりだったわけではない。ただ、今までは知る必要がなかった。
「なあ、直樹」
「今度はなんや」
「天龍会って、どんぐらいデカいんやろな」
相沢が龍司を見る。
「今さらそこ気になるん?」
「名前はずっと知ってたけどな」
龍司は歩きながら、商店街の先へ目を向けた。
「なんか初めて、自分もそこにおるんやな思って」
「遅いわ」
「うるさい」
相沢が笑い、龍司も缶珈琲を飲みながら笑った。
二人はそのまま、いつもの神楽町の人混みへ紛れていった。




