水谷恭平
京極組の名前が出てから三日が過ぎた。
榊組には、まだ向こうから目立った動きはなかった。天真会からも「待て」という話だけが降りてきており、境目の一件については誰も勝手に触らない。龍司にしてみれば、相手が分かったのだから直接話せば済むように思えるが、榊も水谷も急ぐ様子はなかった。
その日の朝、龍司が事務所へ顔を出すと、水谷はすでに電話を二本終え、机の上に帳面と封筒を並べていた。柴崎は外へ出ており、寺島はまだ来ていない。相沢は奥で湯を沸かしている。
「兄貴、早いっすね」
「お前が遅いねん」
「まだ九時前ですよ」
「八時半に来い言うたやろ」
龍司は壁の時計を見る。八時四十七分だった。
「十三分だけやん」
「遅刻は遅刻や」
「細かいなあ」
「ほな十三分ぶん給料返せ」
「給料制ちゃうやん」
水谷が顔を上げた。
「朝からよう口回るな」
「寝起きええんで」
「頭も起こしてこい」
奥から相沢の笑い声が聞こえた。龍司は舌打ちしながらソファへ向かったが、座る前に水谷から封筒を投げられた。
「何すか、これ」
「持ってけ」
「どこに?」
「梅田。住所書いてある」
「一人で?」
「嫌なんか」
「いや、別に」
封筒の表には会社名と住所だけが書かれていた。龍司が中を覗こうとすると、水谷の声が飛ぶ。
「見るな」
「見てへんやん」
「今見ようとしたやろ」
「気になっただけです」
「気になっても見るな。渡して帰ってこい。それだけや」
「はいはい」
「返事一回」
「はい」
龍司が封筒を上着の内側へ入れたところで、事務所の電話が鳴った。水谷がすぐに受話器を取る。
「はい、榊です」
さっきまで龍司と軽口を叩いていた声が変わった。低くなったわけでも、急に威圧的になったわけでもない。ただ余計なものが消えた。
「はい。……いや、それは聞いてません。誰からです? ……分かりました。こっちで確認しますんで、今は触らんといてください」
水谷は受話器を置くと、帳面を開いて何かを書き込んだ。
「なんかあったんすか?」
「お前は梅田行ってこい」
「教えてくれてもええやん」
「帰ってきたらな」
「また待てか」
「嫌やったら今から二時間説教したろか」
「行ってきます」
龍司は即座に事務所を出た。
昼前に戻ると、事務所の空気が少し変わっていた。
柴崎が帰ってきており、水谷の机の前に立っている。寺島もソファに座り、相沢は灰皿を片づけながら二人の話を聞いていた。
「ただいま」
「渡したか」
「渡しましたよ」
「誰に」
「受付の女の人」
「名前は」
龍司が止まった。
「……名前?」
「受け取った奴の名前や」
「聞いてへん」
「お前なあ」
「受付に渡せ言われたから渡したんやん」
「俺は『そこへ持ってけ』言うただけや。誰に渡してもええとは言うてへん」
「そんなん先言うてくださいよ」
「普通聞くやろ。金か書類かも分からん封筒、人に預けて終わりか」
龍司は言葉に詰まった。
「……戻った方がええ?」
「もう電話して確認した」
「ほなええやん」
「よくない」
「なんで?」
「次も同じことするからや」
水谷は怒鳴らなかった。机を叩きもしない。ただ龍司を見ながら、一つずつ確認するように話す。
「誰に渡すんか。ちゃんと相手に届いたんか。何か言付けはなかったか。そこまでやって初めて使いや。物運ぶだけやったらお前やなくてもできる」
「……はい」
「分かったか」
「分かりました」
「ほんまか?」
「次から名前聞く」
「それだけちゃうけど、まあええわ」
柴崎が横から笑った。
「兄貴、龍司に一遍で全部覚えさせよう思ったら老けますよ」
「もう老けとるわ。誰のせいや」
「龍司ちゃいます?」
「なんで俺だけやねん」
いつもの調子に戻りかけたところで、水谷が柴崎へ視線を戻した。
「で、さっきの続きや。向こうは?」
「今のところ手ぇ出してません。うちの若いのが一人、飲み屋で京極の名前聞いて腹立てたみたいですけど、止めました」
「誰や」
柴崎が名前を答えると、水谷は小さく息を吐いた。
「あとで俺から言うとく」
龍司はソファへ座りながら二人の会話を聞いていた。
「京極組となんかあったん?」
「何もない」
「今、京極言うてたやん」
「京極組の名前聞いた若い衆が勝手に熱なっただけや」
「何言われたん」
「『榊組が引いた』みたいな話が流れてるらしい」
龍司の眉が動いた。
「誰が引いたって?」
「座っとけ」
「座ってるやん」
「ほな黙っとけ」
「でもそれ――」
「龍司」
水谷が名前を呼んだ。
それだけで龍司は口を閉じた。
「噂や。誰が言い出したかも分からん。京極組の人間が言うたんか、それ以外の奴が勝手に面白がってるんかも分からん。そんなもんに一々反応してたらキリない」
「でも榊組が逃げたみたいに言われるん嫌やろ」
「嫌やで」
「ほな――」
「嫌やから殴るんか?」
龍司は黙った。
水谷は煙草へ火をつけ、ゆっくり煙を吐いた。
「腹立つことと、動いてええことは別や。そこ混ぜんな」
「……兄貴は腹立たへんの?」
「立つ言うてるやろ」
「見えへん」
「見せる必要ないからな」
その言葉に、龍司は少しだけ眉を寄せた。
柴崎なら分かりやすい。怒れば顔に出るし、相手によってはそのまま前へ出る。榊も普段は静かだが、本気で怒った時の空気は龍司にも分かる。
水谷は違った。
榊組若頭、水谷恭平。三十九歳。
龍司が榊組へ入った頃から、水谷は今とほとんど変わらない位置にいた。事務所にいれば電話を取り、金の出入りを見て、若い衆の失敗を片づけ、榊が外へ出る時には必要な人間を揃える。揉め事が起きれば最初に話を聞き、誰かが熱くなれば止める。
龍司から見れば、昔から何でも知っている兄貴だった。
ただ、何を考えているのか分からない時も多かった。
「兄貴」
「なんや」
「喧嘩したことある?」
事務所が静かになった。
柴崎が龍司を見る。
「お前、水谷の兄貴を何や思ってんねん」
「いや、見たことないから」
「あるに決まってるやろ」
水谷本人が答えた。
「強かった?」
「知らん」
「自分のことやん」
「昔の話や」
「柴崎の兄貴とどっちが強い?」
「なんで俺出てくんねん」
柴崎が顔をしかめる。
「気になるやん」
「お前ほんまそればっかりやな」
水谷は呆れたように煙草を灰皿へ置いた。
「龍司。強い弱いいうんはな、殴り合いだけちゃうぞ」
「また難しい話?」
「難しない。お前が勝手に難しくしてんねん」
水谷は机の上の帳面を閉じた。
「殴ったら終わる喧嘩もある。殴ったら始まる喧嘩もある。殴らんことで終わる喧嘩もある。そこ見分けられへん奴は、どんだけ腕っ節強くても上には立てん」
龍司は返事をしなかった。
数日前、榊から看板の重さを教えられたばかりだった。自分の拳が自分一人のものではない。それくらいは、ようやく分かり始めている。
だが水谷が言っているのは、その先の話だった。
「兄貴は分かるん?」
「何が」
「どの喧嘩が、どれか」
「全部分かったら苦労せん」
「分からんの?」
「分からんから調べる。人の話聞く。親父に聞く。それでも分からんかったら、勝手に決めん」
龍司はしばらく水谷を見ていた。
「俺と真逆やな」
「今気づいたんか」
柴崎が笑った。
「せやからお前には水谷の兄貴がおるんやろ」
龍司は柴崎を見る。
「どういう意味?」
「お前みたいなんばっかり十人おったら、榊組一週間で戦争や」
「失礼やな」
「褒めてへん」
寺島が新聞を畳みながら口を挟んだ。
「逆に水谷みたいなんばっかりでも、話進まん時あるけどな」
「寺島さん、それ俺に言うてます?」
「知らん」
「絶対言うてるやん」
水谷が笑い、事務所の空気が緩んだ。
龍司も笑った。
けれど、さっきの言葉だけは頭に残った。
夕方、水谷は一人で事務所を出た。
「兄貴、どこ行くん?」
「飲みに行く」
「俺も行く」
「仕事や」
「飲むんやろ?」
「仕事で飲むねん」
「そんなんある?」
「あるから留守番しとけ」
龍司が不満そうな顔をすると、水谷は上着を羽織りながら笑った。
「京極の件ちゃうから安心せえ」
「聞いてへんやん」
「顔に書いてある」
「俺そんな分かりやすい?」
「めちゃくちゃな」
水谷はそう言って事務所を出ていった。
行き先は、神楽町から少し離れた小さな割烹だった。
待っていたのは榊組の人間ではない。昔から付き合いのある別の組の男だった。水谷は酒を飲みながら世間話をし、最近どこの組が何をしているのか、誰と誰の仲が悪いのか、天龍会の中で何か変わった話はないかを少しずつ聞いていく。
京極組の名前は、自分からは出さなかった。
相手が先に口にするまで待った。
「そういや最近、京極んとこの若いのが動いとるらしいな」
水谷は猪口を置いた。
「へえ。何しとるんです?」
「細かいとこまでは知らん。ただ、シマ広げたいんちゃうかいう話は聞いた」
「誰が言うてました?」
「噂や、噂。真に受けんなよ」
「もちろん」
水谷は笑って酒を注いだ。
それ以上は聞かなかった。
聞きすぎれば、こちらが京極組を探っていると伝わる。
欲しい話を全部その場で取ろうとする必要はない。どこまで聞き、どこでやめるか。それもまた、水谷が長くこの世界で覚えてきたことだった。
夜遅く、水谷が事務所へ戻ると、龍司はまだソファにいた。
「お前まだおったんか」
「留守番しろ言うたやん」
「もう帰ってええ時間や」
「兄貴帰ってきてへんし」
水谷は少しだけ意外そうな顔をした。
「何か分かった?」
「何が」
「仕事で飲んできたんやろ」
「ちょっとな」
「京極?」
水谷は答えず、机へ向かった。
「兄貴」
「なんや」
「俺にも教えてや」
「まだ教えるほどの話ちゃう」
「またそれや」
「確かな話になったら教えたる」
龍司は不満そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。
水谷はそんな龍司を横目で見て、ほんの少し笑った。
「ちょっとは待てるようになったやん」
「十日で人間変わることもあるんちゃう?」
「親父の話聞いとったんか」
「聞こえてへんわ」
「ほな帰れ」
「飯奢って」
「なんでや」
「待ってたから」
「勝手に待ってただけやろ」
二人の声が、夜の事務所に残った。
殴らずに話を収める男。
怒っていても、それを表へ出さない男。
分からないことを、分からないまま勝手に決めない男。
龍司はまだ知らなかった。
それが榊組若頭・水谷恭平の強さだった。




