親分の親分
四月も終わりに近づいた朝、龍司は榊から呼び出された。
「龍司。今日、俺と来い」
事務所へ入ってまだ十分も経っていない。龍司は水谷から渡された珈琲を一口飲んだところで、奥から出てきた榊にそう言われた。
「どこです?」
「天真会」
龍司の手が止まった。
「……俺も?」
「お前に言うてんねんから、お前やろ」
「なんで?」
「用があるからや」
「何の?」
「行ったら分かる」
榊はそれだけ言うと、自分の部屋へ戻っていった。
龍司はしばらく閉まった扉を見ていた。それから水谷へ顔を向ける。
「兄貴」
「なんや」
「俺、なんかした?」
「心当たり多すぎて分からんのか」
「最近なんもしてへんやん」
「ほな堂々と行ってこい」
「京極の件?」
「知らん」
「絶対知ってるやろ」
「親父が言わんことを俺が先に言うわけないやろ」
水谷は笑いながら煙草へ火をつけた。
龍司にとって二代目天真会は、当然ながら知らない名前ではない。榊組の上にある組織であり、榊自身が若頭補佐を務めている。榊組の事務所でも、その名は日常的に出てくる。
だが、龍司が天真会の本部へ足を運ぶ機会はほとんどなかった。
自分は榊組の若衆である。
普段の仕事も、人付き合いも、揉め事も、そのほとんどが神楽町と榊組の中で完結している。上に天真会があることは知っていても、それはどこか自分とは離れた場所にあるものだった。
「服、それでええんかな」
龍司が自分の白いシャツを見下ろす。
「今さら気にすんのか」
「天真会やろ?」
「せやな」
「偉い人いっぱいおるんちゃうん」
「おるやろな」
「着替えた方がええ?」
「親父に聞け」
「怒られへん?」
「俺に聞くな」
水谷は完全に面白がっていた。
「兄貴、楽しんでるやろ」
「ちょっとな」
「腹立つわ」
「殴るか?」
「それ言うたら俺が何も言えへんやん」
水谷が笑った。
一時間ほどして、龍司は榊の運転する車の助手席に座っていた。
神楽町を離れ、車は大阪の街を走っていく。
榊は普段と変わらなかった。片手でハンドルを握り、煙草を咥え、信号で止まれば窓の外を見る。龍司だけが妙に落ち着かなかった。
「親父」
「なんや」
「ほんまに何しに行くん?」
「顔出しや」
「俺も?」
「ああ」
「なんで?」
榊が横目で龍司を見る。
「さっきからそればっかりやな」
「気になるやん」
「京極の件もある。向こうから話上がってきとるからな」
「やっぱり京極やん」
「それだけちゃう」
「ほな何?」
「お前、一回ちゃんと上見とけ」
龍司は眉を寄せた。
「上?」
「お前の世界、榊組で止まっとるやろ」
「止まってへんで」
「ほな天真会の人間、何人知ってる」
龍司は黙った。
「……名前やったら」
「何人や」
「親父」
「俺は榊組や」
「でも天真会の若頭補佐やん」
「そういう話ちゃう」
龍司は窓の外へ顔を向けた。
「京極組の名前聞いて、初めて天龍会がどうの言い出した奴が何言うとんねん」
「直樹にも同じこと言われたわ」
「相沢の方がお前より分かっとる」
「俺の方が強いけどな」
「今その話してへん」
榊は呆れたように煙を吐いた。
「龍司。これから先も榊組で生きてくつもりやったら、榊組だけ見とったらあかん時が来る」
「なんで?」
「榊組だけで決められへんことがあるからや」
龍司は数日前のことを思い出した。
京極組。
四代目天龍会直参。
同じ代紋をつけながら、別の組として動いている人間たち。
「今日行ったら分かる?」
「全部は分からん」
「ほな何が分かるん」
「榊組が一番上ちゃういうことぐらいは分かるやろ」
「それは知ってるわ」
「頭で知っとるんと、見るんはちゃう」
榊はそれ以上説明しなかった。
二代目天真会の本部は、龍司が勝手に想像していたものとは少し違った。
もっと派手な建物を思い浮かべていた。門の前に黒塗りの車が何台も並び、見るからに堅気ではない男たちが立っている。そんな場所だと思っていた。
実際には、静かな通りに建つ大きな建物だった。
もちろん普通の会社には見えない。玄関周りは綺麗に整えられ、停まっている車も上等なものばかりだったが、龍司が想像していたような物々しさはない。
それでも中へ入った瞬間、空気が変わった。
「お疲れさまです」
玄関にいた男が深く頭を下げる。
「おう」
榊は軽く返した。
龍司も慌てて頭を下げる。
「お、お疲れさまです」
廊下を歩けば、すれ違う男たちが榊へ頭を下げた。
「榊の親分、お疲れさまです」
「おう」
「お疲れさまです」
「ああ」
龍司はその後ろをついて歩きながら、少しずつ口数が減っていった。
神楽町では、榊にここまで次々と頭を下げる人間を見ることはない。もちろん榊組の人間は榊を立てるが、それとは空気が違った。
ここでは榊宗次郎が、二代目天真会若頭補佐として見られている。
龍司が知っている「親父」とは別の顔が、そこにはあった。
「親父」
「なんや」
「結構偉いんやな」
榊が足を止めた。
「お前、今まで俺を何や思ってたんや」
「親父」
「もうええわ」
前を歩いていた天真会の若い衆が、笑いを堪えているのが見えた。
通された部屋で待っていると、龍司は急に落ち着かなくなった。
座敷ではない。応接用のソファと机が置かれた、ごく普通の部屋だった。
「親父」
「なんや」
「誰来るん?」
「会長」
龍司の背筋が伸びた。
「天真会の?」
「ほかに誰がおんねん」
「会長って……」
龍司は声を落とす。
「親父の親分?」
「せや」
「先言えや!」
「うるさい」
「俺こんな格好やで!」
「さっき聞いてきたやろ。俺が何も言わんかったいうことは、それでええいうことや」
「いや、でも――」
龍司がシャツの襟を触っていると、榊が笑った。
「お前でも緊張すんねんな」
「するわ!」
「声落とせ」
「親父が急に言うからやん」
その時、扉の向こうから足音が聞こえた。
龍司は一瞬で黙った。
扉が開く。
入ってきた男を見て、龍司は少し戸惑った。
もっと怖い男を想像していた。
榊よりさらに上に立つ人間。二代目天真会の会長。榊が親父と呼ぶ人物。
龍司の頭の中では、自然と大柄で、近づくだけで周囲が黙るような男が出来上がっていた。
だが、入ってきた男は違った。
四十八歳。
二代目天真会会長、久世征一郎。
仕立てのいい服を着ているが、肩肘を張った様子はない。顔つきも柔らかく、龍司が想像していた「大物の親分」らしい威圧感をわざわざ見せようともしていなかった。
「おう、宗次郎」
「親父。お疲れさまです」
榊が立ち上がり、頭を下げた。
龍司は一瞬遅れて立ち上がる。
「お、お疲れさまです!」
声が思ったより大きくなった。
久世が龍司を見る。
「元気ええな」
「すんません」
「なんで謝んねん」
久世は笑いながらソファへ座った。
「座れや」
「はい!」
「宗次郎。こいつか?」
「はい」
「例の殴った奴」
龍司の顔が固まった。
榊が横で煙草を取り出す。
「そうです」
「お前、龍司いうんか」
「はい。柳龍司です」
「歳は?」
「二十一です」
「若いなあ」
久世は机の上に置かれた煙草を手に取った。
「吸うか?」
「え?」
「煙草や」
「あ、はい」
龍司が反射的に受け取る。
久世は自分の煙草にも火をつけた。
龍司は手元の一本を見た。
天真会の会長から煙草をもらった。
どうすればいいのか分からない。
「吸えや」
「ここで?」
「煙草渡して眺めとけ言う奴おらんやろ」
「あ、はい」
龍司が火をつけると、久世は面白そうに笑った。
「宗次郎。お前んとこの若いの、変なん多いな」
「こいつだけです」
「親父、それ酷ない?」
「お前は黙っとけ」
久世が声を上げて笑った。
龍司はますます分からなくなった。
この男が榊の親分なのか。
榊組より遥かに大きな二代目天真会を束ねる男なのか。
「京極のとこの若いの殴ったらしいな」
不意に久世が言った。
龍司の背筋が再び伸びる。
「……はい」
「強かったか?」
「え?」
「相手や」
「いや……普通でした」
「お前な」
榊が低い声を出したが、久世はまた笑った。
「ええやん。聞いた俺が悪い」
「すんません」
「せやから何で謝んねん」
久世は煙を吐き、少しだけ表情を変えた。
「ただな、龍司」
「はい」
「次から殴る前に一回だけ考えろ」
龍司は黙って久世を見る。
「一回でええ。こいつ殴ったら誰が出てくるんやろ、ってな」
龍司の頭に、京極組の名前が浮かんだ。
「今回みたいに?」
「そういうことや」
「でも向こうが先に押してきたんです」
「知っとる」
「二回も」
「それも聞いた」
「ほな――」
「せやから殴るなとは言うてへん」
龍司が口を閉じる。
久世は笑っていた。
「殴らなあかん時もある。極道やっとったらな。せやけど、自分が誰殴ってんのか分からんまま殴るんと、分かった上で殴るんは全然ちゃう」
榊が横で黙って煙草を吸っている。
「宗次郎から色々言われとるやろ」
「はい」
「聞いとんのか?」
「聞いてます」
「ほんまか?」
「最近は」
「最近は、て」
久世がまた笑う。
「まあええ。二十一やったら失敗ぐらいするわ」
龍司は煙草を持ったまま、久世を見ていた。
怖くない。
少なくとも、龍司が想像していた怖さとは違った。
怒鳴りもしない。睨みつけもしない。自分が偉い人間だと見せつけるような話し方もしない。
それなのに榊は、この男を親父と呼んでいる。
「なんや」
久世が龍司の視線に気づいた。
「いや」
「言えや」
「親父の親分っぽくないな思って」
部屋が静かになった。
榊がゆっくり龍司を見る。
「龍司」
「はい」
「お前、ほんまに一回黙れ」
久世が腹を抱えて笑い始めた。
「ええわ。おもろいやんけ」
「親父、甘やかさんといてください」
「二十一のガキ相手に怒ってどうすんねん」
「こいつ調子乗るんです」
「もう乗っとるやろ」
龍司は二人を交互に見た。
その瞬間、初めて少しだけ分かった。
榊がこの男を「親父」と呼ぶ理由を、言葉ではなく空気で感じた。
組織図の上にいるからではない。
肩書が上だからでもない。
榊宗次郎という男が、久世征一郎を自分の親分として見ている。
それだけは、龍司にも伝わった。
しばらくして榊と久世は、京極組の件について話し始めた。
龍司は横で黙って聞いていた。
京極組側も、今回の商売について組長の片岡忠志まで細かく把握していたわけではないらしい。下の人間が境目の曖昧さを利用し、別の人間を使って商売を始めた可能性が高いという。
ただし、まだ向こうの話を全部聞いたわけではない。
「片岡にもこっちから話する」
久世が言った。
「宗次郎、お前んとこはもう動くな」
「分かってます」
「向こうにも止めさせる。シマの線はそのあとや」
「はい」
龍司は口を挟まなかった。
久世がそれに気づいたのか、龍司を見る。
「なんや。急に静かになったな」
「黙れ言われたんで」
「誰に」
「親父に」
「どっちの親父や」
龍司は榊を見る。
「俺の親父」
「ややこしいな、お前ら」
久世が笑った。
天真会を出たあと、龍司はしばらく何も言わなかった。
車へ乗り、榊がエンジンをかける。
神楽町へ向かって走り出してから、ようやく龍司が口を開いた。
「親父」
「なんや」
「久世の親分って、変わってんな」
「お前に言われたないと思うぞ」
「もっと怖い人やと思ってた」
「怖いで」
「全然怖なかったやん」
「お前が知らんだけや」
「親父は怖い?」
榊は少し考えてから煙草を咥えた。
「怖いいうより、頭上がらんな」
「なんで?」
「色々ある」
「教えてや」
「長なる」
「神楽町まで時間あるやん」
「また今度や」
「みんなそれ言うやん」
龍司は窓の外を見る。
京極組。
天真会。
久世征一郎。
この数日で、自分の知らなかった名前や顔が次々と増えていく。
神楽町と榊組だけだった龍司の世界は、確実に広がり始めていた。
「なあ、親父」
「今度はなんや」
「俺もいつか、親分の親分になるんかな」
榊が横目で龍司を見る。
「まず遅刻直せ」
「そこ関係ある?」
「大ありや」
「十三分やで」
「まだ言うとんのか」
龍司は笑った。
榊も呆れたように煙を吐いた。
車はそのまま、龍司のよく知る神楽町へ向かって走っていった。




