十二
久世征一郎と会ってから数日が過ぎ、四月は最後の日を迎えていた。
神楽町では翌日から始まる連休を前に、商店街の人通りがいつもより多かった。酒屋にはビールの箱が積まれ、肉屋の前では主婦が列を作り、子供たちは学校から帰るなり自転車で走り回っている。榊組の事務所にも特別変わった様子はなく、京極組との一件も表向きには動きを止めたままだった。
龍司はソファに寝転がり、競馬新聞を広げていた。
「龍司。足下ろせ」
机に向かっていた水谷が、新聞から顔も上げずに言った。
「誰も座ってへんやん」
「そういう問題ちゃう」
「靴脱いでるで」
「ほな家帰って寝ろ」
龍司は渋々足を下ろした。
「兄貴、明日から休み?」
「誰が?」
「世間」
「世間はな」
「俺らは?」
「何を期待してんねん」
「連休やん」
「極道に祝日ある思ってんのか」
「ちょっとぐらいあってもええやろ」
水谷が呆れたように顔を上げる。向かいでは相沢が煙草を吸いながら笑っていた。
「龍司、どっか行きたいん?」
「別に。ただ休みって聞いたら休みたなるやん」
「普段から大して働いてへんやろ」
「働いてるわ」
「昨日何した?」
「……色々」
「言うてみ」
「覚えてへん」
「ほらな」
「お前もしばくぞ」
二人が言い合っていると、事務所の扉が開いた。入ってきた柴崎は珍しく真っすぐ水谷の机へ向かい、持っていた紙を一枚置く。
「兄貴。これ」
水谷が紙へ目を落とした。
「どこから?」
「天真会の若いのからです。さっき会うたんで」
「親父は?」
「まだ戻ってません」
龍司は競馬新聞越しに二人を見る。京極組の名前が出てから、柴崎と水谷がこういう顔で話している場面が増えた。以前なら気にも留めなかったが、久世と会ってからは何を話しているのか妙に気になる。
「何?」
「お前は競馬見とけ」
「見ながら聞けるで」
「便利な耳やな」
水谷は紙を畳み、机の引き出しへ入れた。
「京極?」
龍司が聞く。
「ちゃう」
「ほな何?」
「まだ分からん」
「紙に書いてたやん」
「書いてあったからって全部分かるわけちゃう」
「またそれや」
龍司が不満そうに新聞へ目を戻すと、柴崎が煙草へ火をつけた。
「龍司」
「何?」
「天龍会の直参、何組ぐらいあるか知ってるか?」
突然の質問に龍司は新聞を下ろした。
「直参?」
「京極組とか、天真会とかや」
「知らん」
「どれぐらいやと思う」
龍司は少し考える。
「十?」
柴崎が笑った。
「少なすぎるわ」
「二十?」
「もっとや」
「五十?」
「まだ上」
「百?」
「そこまではおらん」
「ほな知らん」
龍司は早々に考えるのをやめた。
「だいたい八十前後や」
「多っ」
「天龍会全体で一万人近い言われてんねんぞ」
「そんなおるん?」
「お前、久世の親分んとこ行って何聞いてきてん」
「煙草もろた」
「それしか覚えてへんのか」
柴崎が呆れ、水谷が笑う。
龍司は新聞を畳んで机へ置いた。
「八十も組あるんやったら、親分八十人おるってこと?」
「まあ、単純に言うたらな」
「全員同じぐらい偉いん?」
「んなわけあるか」
「直参なんやろ?」
「直参いうても色々や。古い組もあれば新しい組もある。人数持ってるとこもあれば、少ないとこもある。本家で役持ってる親分もおるし、そうやない親分もおる」
「久世の親分は?」
「天真会は別格や」
柴崎がそう言うと、水谷が視線を上げた。
「別格いう言い方も雑やけどな」
「龍司に細かく説明して分かります?」
「分からん」
「本人が言うな」
龍司は気にせず続けた。
「京極組は?」
「直参や。それ以上は今のお前が気にせんでええ」
「なんで?」
「すぐ誰が上とか強いとか聞くからや」
「気になるやん」
「組織は喧嘩の番付ちゃうぞ」
「でも立場はあるんやろ?」
柴崎が答えようとしたところで、電話が鳴った。水谷が受話器を取る。
「はい、榊です」
数秒後、水谷の表情が変わった。
「……はい。お疲れさまです。はい、戻ってません。分かりました。伝えます」
電話を切る。
「天真会?」
柴崎が聞いた。
「ああ」
「何て?」
「親父戻ったらすぐ連絡くれって」
「京極ですか」
「ちゃうみたいや」
龍司が二人を見る。
「ほな何?」
水谷は少し迷ってから答えた。
「本家の話や」
「天龍会?」
「ああ」
龍司は自然と姿勢を直した。
以前なら「本家」と聞いても、自分には関係のない場所だと思っていただろう。だが今は、久世の顔が浮かぶ。その久世も四代目天龍会へ繋がる直参の一人なのだと、ようやく実感し始めていた。
「なんかあったん?」
「まだ分からん言うてるやろ」
水谷はそう言ったが、柴崎と目を合わせた。
その顔を見て、龍司はそれ以上聞かなかった。
夕方になって榊が戻ってきた。
「親父。天真会から連絡ありました」
水谷がすぐに声を掛ける。
「なんや」
「戻ったら連絡欲しいそうです。本家絡みやと」
榊は上着を脱ぐ手を止めた。
「誰からや」
水谷が名前を告げる。
「分かった」
榊はそのまま自分の部屋へ入り、電話を掛けた。
龍司はソファに座ったまま、閉じた扉を見ていた。相沢はもう帰っており、寺島も外へ出ている。事務所には龍司、水谷、柴崎の三人だけが残っていた。
「兄貴」
「なんや」
「本家って、そんな電話一本で空気変わるん?」
「変わる時はな」
「何の話やと思う?」
「知らん」
「柴崎の兄貴は?」
「俺に振るな」
二人とも答えない。
十五分ほどして、榊が部屋から出てきた。煙草を咥えているが、火はついていない。
「水谷」
「はい」
「明日の予定、空けとけ」
「分かりました」
「柴崎もや」
「はい」
龍司は自分を指さした。
「俺は?」
「留守番」
「なんでやねん」
「なんでお前連れてかなあかんねん」
「どこ行くん?」
「天真会」
「また?」
「俺らは元々天真会や」
「俺も行く」
「行かんでええ」
「前は連れてったやん」
「前は連れてく用があったからや」
龍司が不満そうな顔をしても、榊は相手にしなかった。水谷が確認する。
「親父。本家で何か?」
「いや。本家から正式に話が来たわけやない」
「ほな?」
榊はようやく煙草へ火をつけた。
「直参の親分が何人か集まっとるらしい」
柴崎が眉を寄せる。
「何人か?」
「ああ」
「何の集まりです?」
「分からん」
「天龍会の会合やなくて?」
「ちゃう。本家通してへん」
事務所の空気が静かになった。
龍司だけが話の重さを掴めていない。
「親分同士で飯食ってるだけちゃうん?」
三人が龍司を見る。
「……何?」
榊が煙を吐いた。
「それやったらええけどな」
「ちゃうの?」
「分からんから明日聞きに行くんや」
龍司は首を傾げた。
「何人ぐらい集まってんの?」
「聞いた話やと――」
榊が少し間を置く。
「十二人ほどや」
「十二?」
「ああ」
「八十人ぐらい親分おるんやろ? 十二人ぐらい集まることあるんちゃうん」
龍司の言葉に、榊はすぐには答えなかった。
代わりに水谷が煙草を灰皿へ押しつける。
「誰が集まってるかによる」
「誰なん?」
「まだ全部は分からん」
「京極も?」
水谷が龍司を見る。
「なんでそう思った」
「なんとなく」
榊が僅かに笑った。
「ちょっとは頭使うようなったな」
「おるん?」
榊は答えず、煙草を吸った。
その沈黙で、龍司にも分かった。
「おるんや」
「らしいな」
京極組。
境目の小さな揉め事から初めて知った、同じ四代目天龍会の直参。その京極組の親分が、本家を通さず別の直参たちと集まっている。
龍司には、それが何を意味するのかまでは分からなかった。
「久世の親分は?」
榊の目が龍司へ向いた。
「入ってへん」
「ほな天真会は関係ないん?」
「今のところはな」
「十二人で何してんねやろ」
「それを調べる」
榊は短く答えた。
龍司は腕を組み、しばらく考えていた。
「俺も明日行ったらあかん?」
「あかん」
「なんで?」
「お前連れてったら、話聞く前に余計なこと聞くやろ」
「聞かへんわ」
「今日だけで何回『なんで』言うた」
「知らん」
「それや」
柴崎が吹き出した。
「留守番しとけ、龍司。何か分かったら教えたる」
「ほんま?」
「言える話やったらな」
「またそれやん」
龍司が顔をしかめると、水谷が笑った。
事務所はいつもの空気へ戻ったように見えた。
だが榊は、それ以上笑わなかった。
その夜。
大阪市内のある料亭に、黒塗りの車が一台ずつ入っていった。
車から降りる男たちは、誰も大声を出さない。玄関では店の者が頭を下げ、案内された男たちは奥の座敷へ消えていく。
四代目天龍会の正式な会合ではなかった。
本家の幹部が招集したわけでもない。
それでも、集まった男たちの胸には同じ代紋があった。
座敷に用意された席は、十二。
その一つに、二代目京極組組長・片岡忠志が座っていた。
上座には、二代目辰巳組組長・城戸源蔵。
まだ乾杯すら始まっていない。
城戸は集まった男たちの顔を静かに見渡した。
「ほな――」
低い声が、座敷に落ちる。
「始めよか」
四月三十日。
龍司の知らない場所で、十二人の直参が初めて同じ席についた。




