看板
連投します。
水谷が受話器を置いてから、事務所の空気は目に見えて変わった。
「昨日の奴らや。向こうから話したい言うてきた」
その言葉を聞いた龍司は、反射的に柴崎へ目を向けた。昨日あれだけ揉めた相手から自分たちで電話を寄越してきたのだから、龍司には話が早くていいように思えたが、柴崎の表情はむしろ先ほどまでより険しくなっている。
「誰からです?」
「本人らちゃう。上の人間や」
「名前は?」
「名乗った。せやけど、俺の知らん名前や」
水谷は煙草を灰皿へ押しつけ、椅子の背にもたれた。
「昨日の件について話したい。そっちの責任ある人間と会わせてくれ、やと」
「場所は?」
「向こうから指定してきた。駅向こうの喫茶店、今日の五時」
壁の時計は四時を少し回ったところだった。
柴崎が腕時計へ目を落とす。
「俺行きますわ」
「俺も行く」
龍司がすぐに言った。
柴崎と水谷が同時に龍司を見る。
「なんすか」
「お前は黙っとけ」
「いや、俺が殴ったんやから行くでしょ」
「せやから黙っとけ言うてんねん」
柴崎が煙草を咥えたまま、呆れたように龍司を見る。
「向こうは責任ある人間出せ言うてんねんぞ」
「俺、当事者ですやん」
「責任ある人間と当事者は意味ちゃうねん」
「でも俺おらんかったら話分からんでしょ」
「俺がおったやろ」
「ああ」
「ああ、ちゃうわ」
龍司は不満そうに口を閉じた。
昨日の喧嘩なら、自分が一番よく分かっている。殴ったのも自分で、相手から何を言われたのかも覚えている。それなのに、自分を抜きにして話が進もうとしていることが龍司には妙に引っかかった。
水谷がそんな龍司を見て、小さく息を吐く。
「柴崎、龍司も連れてけ」
「兄貴?」
「ただし、喋らすな」
「なんでですか」
「お前はほんま一言多いな」
水谷は龍司を睨んだ。
「自分で始めた話や。どういうふうに話が動くんか、横で見とけ」
龍司はまだ納得しきれていなかったが、水谷の目を見て、それ以上言い返すのをやめた。
「分かりました」
「あと柴崎」
「はい」
「向こうが誰の名前出しても、その場で返事すんな。持って帰ってこい」
「分かってます」
柴崎は立ち上がり、脱いだばかりの上着をもう一度羽織った。
「行くぞ、龍司」
「はい」
「余計なこと言うなよ」
「分かってますって」
「それ昨日も聞いたぞ」
「今日はほんまに分かってます」
「信用できへんなあ」
二人が事務所を出ようとしたところで、奥の扉が開いた。
「どこ行くんや」
榊宗次郎だった。
柴崎が足を止める。
「昨日の奴らから連絡ありまして。今から話してきます」
「誰とや」
「向こうの上の人間らしいです。水谷の兄貴も名前知らんそうです」
榊は少しだけ眉を寄せた。
「場所は?」
「駅向こうの喫茶店です」
「龍司も行くんか」
「水谷の兄貴が、横で見せとけって」
榊の視線が龍司へ移った。
「親父、俺今日は何もせえへんで」
「まだ何も言うてへんやろ」
「顔がそう言うてますやん」
「自覚あるなら大人しゅうしとけ」
「はい」
榊は柴崎へ目を戻した。
「無理にまとめんでええ。相手分からんうちは話だけ聞いてこい」
「はい」
「何かあったら電話せえ」
「分かりました」
柴崎が頭を下げ、龍司もそれに続いた。
二人が事務所を出ると、午後の神楽町にはまだ商店街の賑わいが残っていた。買い物袋を提げた主婦が自転車を押し、店先では魚屋の主人が常連客と話している。昨日から自分たちの周りで起きていることなど知らない街は、いつもと変わらず動いていた。
龍司はその中を歩きながら、ふと自分の右手を見た。薄い包帯の下には、昨日殴った時についた傷が残っている。
「兄貴」
「なんや」
「話って何話すんすか」
「行ってみな分からん」
「向こう謝ってきたら?」
「それも行ってみな分からん」
「金とか言われたら?」
「知らん」
「何も分からんやないですか」
柴崎が横目で龍司を見る。
「せやから話聞きに行くんやろ」
龍司は黙った。
「お前、先に答え決めすぎやねん。喧嘩するか、謝るか、金払うか。話なんかそんな三つで終わらへんぞ」
「そんなもんすかね」
「そんなもんや」
柴崎はそれだけ言うと、煙草へ火をつけた。
指定された喫茶店は、神楽町から歩いて十五分ほど離れた駅前にあった。
古びた雑居ビルの一階に入り、曇ったガラス扉を開けると、珈琲と煙草の匂いが混じった空気が鼻につく。夕方前の店内は空いており、一番奥の席に男が二人座っていた。
龍司には、昨日の三人とは明らかに雰囲気が違うことがすぐに分かった。
一人は四十前後。黒いスーツに白いシャツを合わせ、短く刈った髪をきっちりと撫でつけている。もう一人は三十代半ばほどで、身体が大きく、座っているだけでも肩幅の広さが目立った。
柴崎が足を止める。
「榊組の柴崎です」
四十前後の男が立ち上がった。
「どうも。昨日はうちの若いのが世話になったみたいやな」
言葉は柔らかいが、笑ってはいなかった。
「そっちから話したい言うてる聞きましたけど」
「まあ座ってや」
柴崎は男の向かいへ座った。龍司もその隣へ腰を下ろす。
大柄な男が龍司の包帯へ目をやる。
「兄ちゃんが殴った子か?」
龍司が口を開こうとすると、柴崎の足がテーブルの下で龍司の靴を踏んだ。
龍司は黙った。
「そうです」
柴崎が代わりに答える。
「若いな」
「まだ若衆なんで」
「元気あってええなあ」
男はそこで初めて薄く笑った。
「うちのも若いからな。お互い血の気多いんはしゃあない」
「それで済ますんやったら、こっちも助かりますけど」
「そうしたいんやけどな」
男の笑みが消えた。
「昨日、そっちが榊組のシマや言うたらしいな」
「言いました」
「あそこ、ちゃうで」
柴崎は表情を変えなかった。
「何がです?」
「榊組のシマちゃう」
「ほな、どこのシマなんです?」
「そこを話しに来た」
男はテーブルの上に置かれた灰皿へ煙草を押しつけ、新しい一本を取り出した。
「昔からあの辺、境目曖昧やろ。榊組さんが神楽町側見てるんは知ってる。せやけど、倉庫街の方までそっちや言われたら話変わってくる」
「昨日おったんは神楽町側ですよ」
「そっちはそういう認識なんやろ」
「そっちは違うと?」
「違う」
短い言葉だった。
龍司は黙って男を見ていた。
昨日なら、その言い方だけで腹が立っていたかもしれない。だが今日は柴崎から余計なことを言うなと釘を刺されている。何より、横にいる柴崎が何も言わない以上、自分が口を挟む場面ではないことくらいは分かっていた。
「で」
柴崎が煙草を指で挟んだ。
「誰の話であそこで商売させてるんです?」
「そこなんやけどな」
男は一度言葉を切った。
「うちらも勝手にやらせてるわけちゃう。上には話通してる」
「どこの?」
「今ここで名前出すんはやめとくわ」
柴崎の眉がわずかに動いた。
「なんでです?」
「こっちもまだ話大きくしたないからや」
「もう十分大きなりかけてると思いますけど」
「せやから、こうして会うてる」
男は身体を背もたれへ預けた。
「昨日の件、こっちとしては若いの同士の喧嘩で終わらせてもええと思ってる。ただ、そっちがあそこを榊組のシマや言うて商売止めるんやったら、それは別の話や」
柴崎はしばらく男を見たあと、静かに聞いた。
「それ、あんた個人の話ですか?」
「ちゃう」
「ほな、誰の話です?」
「それを今日は言えん」
「名前も出せん相手の話で、こっちに引け言うてるんですか」
初めて柴崎の声に硬さが混じった。
大柄な男が僅かに身体を起こしたが、向かいの男が手だけで制した。
「引けとは言うてへん。いったん止めよう言うてんねん」
「何を?」
「お互い動くんをや」
柴崎は答えなかった。
「こっちも昨日の連中は下げる。榊組さんも、あの倉庫やら何やら嗅ぎ回るんは止めてくれ。上同士で話つくまでな」
龍司の目が僅かに動いた。
倉庫。
今日、柴崎と二人で歩いてようやく辿り着いた情報を、向こうはすでに知っている。
柴崎も同じことに気づいたはずだったが、顔には出さなかった。
「分かりました」
「話早いやん」
「いや」
柴崎は煙草を灰皿へ置いた。
「聞いたいう意味です。返事は持って帰ります」
男の目が細くなる。
「自分で決められへん?」
「決めません」
柴崎は即答した。
「俺は榊組の若頭補佐です。榊組のシマの話を俺一人で決める立場ちゃいます」
その言葉を聞いて、龍司は横に座る柴崎を見た。
昨日なら、若頭補佐という肩書は単に自分より偉い兄貴分という程度にしか考えていなかった。だが今の柴崎は、自分に決められることと決められないことをはっきり分け、その線を越えようとはしない。
「なるほどな」
男は小さく頷いた。
「ほな親分に伝えてくれ。こっちも話まとめて、また連絡する」
「分かりました」
柴崎が立ち上がる。
龍司も続いた。
その時、男が龍司を呼び止めた。
「兄ちゃん」
龍司が振り返る。
「はい」
「昨日殴ったうちの若いのな、鼻折れてたわ」
「……そうですか」
「強いな」
男は笑った。
「せやけど、強い拳持ってるんやったら、振る場所は選んだ方がええで」
龍司は何も返さなかった。
柴崎が龍司の肩を軽く叩く。
「行くぞ」
二人は店を出た。
外へ出ると、日が傾き始めていた。駅前には仕事帰りの人間が増え、信号が変わるたびに人の波が道路を渡っていく。
しばらく無言で歩いたあと、龍司が口を開いた。
「兄貴」
「なんや」
「あいつら、何者なんすか」
「分からん」
「でも倉庫のこと知ってましたよね」
「せやな」
「俺らが今日調べてたんも知ってたんかな」
「それは分からん。ただ、あの倉庫が自分らに関係あるんは間違いなさそうやな」
柴崎は歩きながら煙草へ火をつけた。
「ほんで、後ろに誰かおる」
「組?」
「たぶんな」
「どこです?」
「知らん」
「兄貴でも分からんの?」
「大阪に組いくつある思てんねん」
龍司は少し黙った。
「俺、昨日あいつ殴らんかったら、こんな話なってなかったんかな」
柴崎が横目で龍司を見る。
「それは分からん。向こうがあそこで商売続けてたら、遅かれ早かれ話にはなってたやろ」
「でも早めたんは俺ですよね」
「まあな」
「……すんません」
「せやから俺に謝んな言うてるやろ」
柴崎は煙を吐いた。
「ただ覚えとけ。お前が誰か殴った時、相手から見えるんは柳龍司いう一人の男だけちゃう」
龍司は黙って聞いていた。
「お前の後ろには親父がおる。水谷の兄貴がおる。俺も相沢も寺島の兄貴もおる。向こうからしたら、お前の拳は榊組の拳や」
龍司は自分の右手へ目を落とした。
包帯の下にあるのは、昔から何度も人を殴ってきた拳だった。
喧嘩を売られれば殴る。仲間を馬鹿にされれば殴る。気に入らない相手なら、力で黙らせればいい。龍司にとって拳とは、長い間それだけのものだった。
だが榊組へ入り、その拳には自分以外の名前までついて回るようになっていた。
「看板背負ういうんは、そういうことや」
柴崎はそれだけ言って歩き続けた。
二人が事務所へ戻る頃には、外はすっかり夕方になっていた。
水谷だけでなく、榊も事務所に残っていた。柴崎は向かいのソファへ座り、喫茶店で交わした話を最初から最後まで報告する。
榊は腕を組んだまま黙って聞いていたが、相手が倉庫について触れたところで一度だけ眉を動かした。
「向こう、倉庫のこと知ってたんか」
「はい。こっちが今日調べてたことまで知ってるかは分かりません」
「後ろの名前は?」
「出しませんでした」
「自分らも下げる。その代わり、こっちも動くな、か」
「はい」
榊は煙草を一本取り出し、火をつけた。水谷も何も言わず、その返事を待っている。
しばらくして、榊が口を開いた。
「明日から、あの辺は触んな」
龍司が顔を上げた。
「親父」
「なんや」
「引くんですか」
水谷が龍司を見る。
「龍司」
「いや、向こう誰かも分からんのに――」
「引く言うてへん」
榊の低い声が龍司の言葉を止めた。
「触るな言うただけや」
龍司は黙った。
「向こうが名前出さんのやったら、こっちも急いで動く必要ない。何も知らんまま突っ込んで、後から話ひっくり返る方が面倒や」
「でも、あそこ榊組のシマなんでしょ」
「せや」
榊は迷わず答えた。
「せやから俺が決める」
龍司の目が榊へ向く。
「お前が守ろうとしたんが榊組の看板や言うなら、その看板をどうするか決めるんは俺や」
事務所が静かになった。
榊は煙草を灰皿へ置き、龍司を真っ直ぐに見た。
「龍司。看板背負ういうんは、好きな時だけ榊組名乗ることちゃうぞ」
「……はい」
「殴る時も、頭下げる時も、待つ時もや。全部ひっくるめて榊組や」
龍司は返事をせず、膝の上に置いた右手を見た。
昨日までなら、榊組の看板を背負うというのは、榊組を馬鹿にされた時に黙っていないことだと思っていた。
だが、それだけではなかった。
自分が殴れば榊組が殴ったことになり、自分が勝手に動けば榊組が動いたことになる。そして自分が納得できなくても、榊が待てと言えば待たなければならない。
龍司にはまだ、それが窮屈だった。
それでも一つだけ、以前よりはっきり分かったことがある。
背中にある看板は、自分を強く見せるためのものではない。
自分の拳より、ずっと重いものだった。




