柴崎健吾
翌朝、榊組の事務所には普段より少し重い空気が流れていた。窓から差し込む春の日差しとは裏腹に、応接用のソファに座る柳龍司の顔は冴えない。昨日の喧嘩で腫れた右手には薄く包帯が巻かれ、その向かいでは相沢直樹が煙草を吸いながら、面倒事に巻き込まれたと言わんばかりの顔をしていた。
机の向こうに座る水谷恭平は、柴崎から昨日の報告をすでに聞いている。
「龍司」
「はい」
「昨日、最初の一発。止めよう思ったら止めれたか?」
静かな問いに、龍司は包帯の巻かれた右手へ目を落とした。
「……たぶん」
「たぶんちゃう」
「止めれたと思います」
「ほな、なんで殴った」
昨日、柴崎にもまったく同じことを聞かれた。押されたから。榊組を馬鹿にされたから。腹が立ったから。どれも理由にはなるが、水谷が聞きたい答えではないことも分かっていた。
「頭きました」
「せやろな」
水谷はそれ以上責めるでもなく、机の上に置いていた煙草へ手を伸ばした。
「お前が頭きたんは分かる。向こうもわざとやっとるしな。せやけど、相手がどこの誰かも分からんうちに手ぇ出したら、後から面倒なんはこっちや」
「……はい」
「親父にも言われたやろ」
「はい」
「覚えてるだけやったら意味ないぞ」
龍司が小さく頭を下げると、水谷は火をつけた煙草をひと吸いし、今度は柴崎へ目を向けた。
「で、向こうは?」
「昨日の時点じゃ何も分かってません。榊組の名前は知ってました。自分らもどっかに話通してる言うてます」
「組の名前は出さんかったんやな」
「はい」
「車は?」
「白の軽トラ。相沢がナンバー覚えてました」
龍司が隣を見ると、相沢は何でもないことのように煙草を灰皿へ押しつけていた。
「お前、見てたん?」
「一応な」
「言えや」
「聞かれてへん」
「そういう問題ちゃうやろ」
「お前は殴るんで忙しかったやんけ」
「……それ言われたらなんも言えんわ」
柴崎が鼻で笑う。
「お前は拳以外も使え」
「使ってますよ」
「どこをや」
「頭とか」
「昨日使ってへんやろ」
「昨日はちょっと……」
「ほら見ろ」
いつもの調子で言い合う二人を眺めながら、水谷は呆れたように煙を吐いた。
「柴崎」
「はい」
「今日、少し見てきてくれ」
「分かりました」
「ただし、もう揉めんなよ」
そう言いながら水谷の目が龍司へ向いた。
「なんで俺見るんすか」
「分かるやろ」
「俺まだ何も言うてないですよ」
「言う前から分かる」
「信用ないなあ」
「自分でなくしたんや」
龍司が何も返せず背もたれへ身体を預けると、柴崎は上着を手に取って立ち上がった。
「龍司、行くぞ」
「え?」
「お前も来い」
「俺も?」
「嫌なんか?」
「行きます」
龍司はすぐに立ち上がった。
「やっぱ嬉しそうやないか」
「普通ですって」
「相沢は残っとけ。何かあったら水谷の兄貴に昨日の場所もう一回説明したって」
「分かりました」
柴崎は上着へ袖を通し、龍司を連れて事務所を出た。
ところが柴崎は、昨日揉めた場所へ向かわなかった。龍司は当然そちらへ行くものだと思っていたが、柴崎が歩いていくのは神楽町の中だった。商店街を抜けて細い路地へ入り、古びた自動車修理工場の前まで来ると、開け放たれたシャッターの奥へ向かって声を掛ける。
「おっちゃん、おる?」
車の下から、油に汚れた顔が覗いた。
「誰や思たら健吾か」
「久しぶり」
「久しぶりちゃうわ。先週来たやろ」
「そうやった?」
「ボケるには早いぞ」
作業着姿の男は笑いながら車の下から這い出し、汚れた手を布で拭いた。少し離れて見ていた龍司には、柴崎が組の人間としてではなく、昔からの知り合いに会ったような調子で話しているのが妙に映った。
「なんや。今日は車ちゃうんか」
「ちょっと聞きたいことあってな」
「金貸しては無しやぞ」
「借りるかアホ」
柴崎は笑いながら煙草を一本差し出した。男も当たり前のように受け取り、二人並んで火をつける。
「昨日、この辺で白い軽トラ見てへん?」
「白い軽トラなんか一日何台通る思てんねん」
「荷台で時計とか売ってる奴」
「ああ」
男の反応が変わったのを見て、柴崎は煙草を咥えたまま話を続けた。
「見た?」
「何日か前からな。ここら辺ウロウロしとるわ」
「昨日だけちゃうんや」
「ちゃうちゃう。場所変えながらやっとるみたいやぞ。うちの前にも一回来たわ」
「なんか買うた?」
「買うかいな。見るからに怪しいやろ」
柴崎は笑った。
「どっから来てるとか聞いてへん?」
「そこまでは知らん。ただ、あの車なら向こうの倉庫街の方から来とるん見たことあるで」
「向こう?」
男が指差したのは、昨日揉めた場所よりさらに外側だった。
「朝早い時にな。俺ここ開けるん早いやろ。二、三回見たわ」
「なるほどな。ありがと。また来るわ」
「今度は金落としてけよ」
「車壊れたらな」
「壊して持ってこい」
「無茶言うな」
二人は笑って別れた。工場から離れてしばらく歩いたところで、龍司が柴崎の横へ並ぶ。
「兄貴、あのおっちゃん誰なんすか?」
「昔からここで工場やってる人や」
「知り合いなん?」
「見たら分かるやろ」
「いや、めっちゃ普通に喋るな思って」
「普通に喋ったらあかんのか」
「そういう意味ちゃいますけど」
柴崎はそれ以上答えず、次に小さな喫茶店へ入った。昼前の店内では数人の客が新聞を広げており、扉を開けた柴崎を見るなり、カウンターの中にいた女主人が笑顔を見せる。
「あら、健ちゃん」
「おばちゃん、珈琲二つ」
「珍しいな。こんな時間に」
「仕事中や」
「仕事中に珈琲飲むん?」
「これも仕事や」
「便利な仕事やなあ」
女主人は笑いながらカップを二つ用意した。龍司が柴崎の隣へ腰を下ろし、出された珈琲へ砂糖を入れていると、女主人が今度は龍司を見た。
「龍ちゃんも久しぶりやな」
「俺のこと知ってるん?」
「そら知ってるわ。あんた昔からこの辺走り回ってたやん」
「覚えられてるもんやなあ」
「悪ガキほど覚えてるもんや」
龍司が苦笑すると、柴崎が横で笑った。
「その通りや」
「兄貴も人のこと言えんでしょ」
「俺は真面目やった」
「絶対嘘や」
柴崎はそのまましばらく世間話を続け、昨日の軽トラックについて聞いたのは、珈琲を半分ほど飲んでからだった。
「おばちゃん、この辺で最近、物売りに来る奴おらん?」
「ああ、時計の?」
その返事に龍司が思わず柴崎を見る。
「ここにも来たん?」
「店には来てへんけど、向こうの酒屋の前で見たわ。外国の煙草とか売ってたんちゃうかな」
「いつぐらい?」
「先週くらいからやったかなあ」
「毎日?」
「毎日ちゃうと思う。場所変えとるんちゃう?」
修理工場の男と同じ話だった。柴崎は頷いただけで深追いせず、すぐに別の世間話へ戻った。
店を出る頃には、龍司にも柴崎が何をしているのか分かり始めていた。
「兄貴」
「なんや」
「昨日の奴ら探してるんやろ?」
「今さら分かったんか」
「いや、それは最初から分かってましたけど。もっとこう……直接探しに行くんか思ってました」
柴崎が煙草を咥えながら龍司を見る。
「どこに?」
「昨日の場所とか」
「おらんかったら?」
「探す」
「どこを?」
「……その辺?」
「アホ」
柴崎は呆れた顔でライターを鳴らした。
「大阪に道何本ある思てんねん。闇雲に歩いて見つかるんやったら苦労せんわ。街で何かあったら、街の人間に聞くんが一番早い。毎朝同じ時間に店開ける奴、ずっと窓から外見てる奴、配達で道走り回ってる奴。俺らより街見てる人間なんかいくらでもおる」
煙を吐きながら、柴崎は商店街を行き交う人々へ目を向けた。
「せやから普段から顔出しとくんや。揉め事起きた時だけ『なんか知らんか』言うても、誰も口開いてくれへん」
龍司は黙ってその横顔を見た。
柴崎健吾という男を、龍司は昔から知っている。喧嘩が強く、気も短い。榊への忠誠心が強く、組のことになれば誰より先に身体を張る。龍司にとって柴崎とは、長い間そういう兄貴分だった。
だが、修理工場の親父と煙草を吸い、喫茶店の女主人とくだらない話をしながら、その中から必要な情報だけを拾っていく柴崎の姿は、龍司が普段見ているものとは少し違っていた。
「なんやその顔」
「いや」
「言いたいことあるなら言え」
「兄貴、ちゃんと仕事してるんやな思って」
柴崎の手が飛び、龍司の後頭部を叩いた。
「痛っ!」
「舐めとんのか」
「褒めたんですって!」
「どこが褒め言葉やねん」
「いや、もっと殴るだけの人やと思ってたんで」
「お前と一緒にすんな」
「俺も殴るだけちゃいますよ」
「ほな何ができんねん」
龍司は少し考えた。
「……走るん速いです」
「ガキかお前は」
柴崎は呆れたように首を振った。
二人はその後も何軒かを回った。酒屋では軽トラックが数日前から夕方になると姿を見せていると聞き、小さな運送会社では、同じ車が神楽町の外れにある古い倉庫の近くへ何度か入っていくのを見たという話が出た。
最初はばらばらだった情報が、街を歩くたびに少しずつ一本へ繋がっていく。昼を過ぎる頃には、昨日の男たちが突然あの場所へ現れたわけではなく、少なくとも一週間ほど前から周辺を転々としながら商売していたことが分かり、白い軽トラックが出入りしているらしい倉庫も一つ浮かび上がっていた。
「行くんすか?」
「どこに」
「倉庫」
「今日は行かん」
「なんで?」
「場所分かっただけや。誰がおるかも分からんのに、二人で乗り込んでどうすんねん」
「見るだけでも」
「お前の『見るだけ』も信用ない」
「昨日からそればっかりやん」
「昨日殴ったからやろ」
返す言葉を失った龍司を横目に、柴崎は煙草の箱を軽く振った。
「龍司。喧嘩強いだけやったら、使える場所なんか知れてんねん」
龍司が柴崎を見る。
「極道なんか特にな。殴るんは最後でええ。誰と誰が繋がってるか、どこまで話通ってるか、誰が何考えてるか。知らんまま拳振ったら、勝っても負ける時あるぞ」
昨日のことを言われているのだと、龍司にも分かった。
「兄貴、昨日腹立たんかったんすか?」
「何が」
「あいつら。榊組ちゃうとか言うてたやん」
「立ったに決まってるやろ」
柴崎が即答したので、龍司は少し意外そうに顔を上げた。
「ほな、なんであんな普通やったんすか」
「俺までお前と一緒に殴ったら、誰が止めんねん」
「昨日、兄貴も一人荷台に叩きつけてましたやん」
「向こうから来たからや」
「俺と一緒やないすか」
「一緒にすんな」
「何が違うんすか」
「俺は止め時知っとる」
龍司は黙った。
確かに昨日、柴崎は龍司より先に手を止めていた。相手を徹底的に叩きのめすためではなく、その場を終わらせるために拳を使っていた。
同じ喧嘩でも、自分とは違う。
その違いを龍司はまだ上手く言葉にはできなかったが、少なくとも昨日まで思っていたほど、柴崎という男も極道という仕事も単純ではないことだけは分かり始めていた。
夕方前、二人が榊組の事務所へ戻ると、水谷は机で書類を読んでいた。
「戻りました」
「おう。どうやった」
柴崎は上着を脱ぎながら、今日分かったことを順番に話した。軽トラックは一週間ほど前から周辺を転々としていること。神楽町の外側にある古い倉庫付近へ出入りしている可能性が高いこと。そして、まだどこの組が絡んでいるのかまでは分からない。
水谷は途中で口を挟まず、最後まで聞いてから煙草へ火をつけた。
「倉庫は?」
「場所だけ見当ついてます。今日は行ってません」
「それでええ。親父にも上げとくわ。向こうの正体分かるまで、勝手に動かんようにしよ」
「はい」
龍司も黙ってそのやり取りを聞いていた。昨日なら、場所が分かった時点で見に行けばいいと思っていただろう。
知らないから調べる。調べても、すぐには動かない。自分たちだけで決めていい話なのかを考え、その上にいる人間へ報告する。
龍司にはまだ回りくどく感じるところもあったが、拳を振るうことだけが極道の仕事ではないという榊の言葉が、昨日よりほんの少しだけ現実味を持ち始めていた。
その時、机の電話が鳴った。
水谷が受話器を取る。
「はい、榊です」
いつもの調子で応じた水谷だったが、しばらく相手の話を聞いているうちに、その表情からわずかに力が抜けていった。
「……分かりました。はい。親父にも伝えます」
短いやり取りを終えて静かに受話器を置くと、柴崎がすぐに口を開いた。
「兄貴、なんです?」
水谷は煙草を灰皿へ置き、柴崎と龍司を順に見た。
「昨日の奴らや。向こうから話したい言うてきた」
その一言で、事務所からさっきまで残っていた軽い空気が消えた。
昨日、龍司が振るった一発。
あの拳で終わったと思っていた喧嘩は、終わるどころか、ようやく相手側へ届いたところだった。




