誰のシマや
翌日の昼前、柳龍司は柴崎健吾と相沢直樹に連れられ、昨日白い軽トラックを見かけた神楽町の外れへ向かっていた。
空は朝から薄い雲に覆われ、昨日まで続いていた春の暖かさも少しだけ鳴りを潜めている。商店街を抜けるにつれて人通りは目に見えて減り、古い町工場や倉庫の並ぶ一角へ入る頃には、時折通り過ぎる車の音と三人の靴音ばかりが耳につくようになっていた。
「ほんまに今日もおるんか?」
先頭を歩く柴崎が、振り返りもせずに聞いた。
「分かりませんよ。昨日はこの時間ぐらいにおりましたけど」
相沢が答えると、その隣を歩いていた龍司が煙草を咥えたまま口を挟む。
「おらんかったらどうするんすか?」
「帰る」
「それだけ?」
「それだけや」
「なんか勿体ないっすね」
柴崎がそこで初めて振り返り、いかにも面倒そうな顔で龍司を見た。
「お前は何しに来たつもりや」
「確認でしょ」
「分かってるやんけ」
「分かってますよ」
「ほな嬉しそうに歩くな」
「普通に歩いてるだけですやん」
龍司は不満そうに煙草を吸い込み、柴崎から視線を外した。
昨日は相沢に止められ、結局あの男たちへ声を掛けることなく事務所へ戻った。それ自体に後悔はないものの、何者なのか分からないまま終わったことだけは、昨夜からどうにも引っかかっていた。
榊に言われたことも忘れてはいない。自分はもう一人で好き勝手に喧嘩をしていた頃の柳龍司ではなく、榊組の看板を背負っている。拳を出せば、自分一人の問題では済まない。
頭では、ちゃんと分かっているつもりだった。
だから今日も、話を聞くだけで終わるはずだった。
「おった」
相沢の声に龍司が顔を上げると、昨日と同じ場所に白い軽トラックが停まっていた。
荷台にはいくつもの段ボール箱が積まれ、その周囲には昨日見た三人の男がいる。腕時計や財布、煙草に酒まで路肩へ雑多に広げ、通りかかる人間を見つけては声を掛けている様子も昨日と変わらない。
柴崎はすぐには近づかず、少し離れたところから男たちと軽トラックを眺めた。
「昨日の奴らで間違いないか?」
「はい」
「間違いないです」
二人の返事を聞いた柴崎は煙草を一本取り出し、火をつけてひと吸いすると、ようやく男たちの方へ歩き始めた。
「行くぞ」
三人が近づくと、男の一人がすぐにこちらへ気づいた。
「兄さんら、時計どう? 安うしとくで」
柴崎は返事をせず、路上に並べられた商品へ軽く目をやってから、その男の前で足を止めた。
「商売中悪いな。ちょっと聞きたいんやけど、ここでやるん誰かに話通してんの?」
「なんの話?」
男の顔から、それまで浮かべていた商売用の笑みが消えた。さっきまで通行人へ声を掛けていた残りの二人も会話をやめ、何事かとこちらを見ている。
「そのまんまや。ここで商売する話、誰に通したんやって聞いてんねん」
柴崎の声は穏やかだったが、その場の空気はもう商売人同士の世間話ではなかった。
「別に誰にも」
「誰にも?」
「ここ道やろ。店出してるわけちゃうし」
柴崎は煙草の灰を足元へ落とし、男の顔を見たまま言った。
「兄ちゃんら、この辺の人間ちゃうやろ」
「それがなんやねん」
「知らんのやったら教えといたるわ。ここらは榊組が見てる場所や」
榊組。
その名前を出せば、少なくとも多少は態度が変わる。龍司は何の疑いもなくそう思っていたし、この辺りで榊組の名を知らない人間の方が珍しい。
ところが男は怯むどころか、鼻で笑った。
「榊組?」
「ああ」
「ここが?」
男はわざとらしく周囲を見回してから、柴崎へ視線を戻した。
「ここ、榊組のシマちゃうやろ」
その言葉を聞いた瞬間、龍司の眉がぴくりと動いた。
柴崎は表情を変えなかった。
「誰に聞いた?」
「誰でもええやろ」
「ええことないから聞いてんねん」
「こっちも話は通してる。あんたらに言われる筋合いないわ」
それまで淡々と話していた柴崎の目が、わずかに細くなった。
「どこに通した」
「それ言う必要ある?」
「あるから聞いてんねん」
男は答えず、代わりに後ろにいた別の男が一歩前へ出てきた。
「しつこいな。こっちはちゃんと話つけてやってんねん。あんたらこそ、誰のシマや思って来てんねん」
龍司が口にしていた煙草をゆっくりと指で挟んだ。
柴崎も一歩前へ出る。
「それ、こっちの台詞や」
声を荒らげたわけではない。それでも、先ほどまで残っていた柔らかさは完全に消えていた。
「誰のシマや思って商売してんねん」
「少なくとも榊組ちゃうわ」
その一言で、場の空気がはっきりと変わった。
昨日までなら、ただ神楽町の端で怪しげな品物を売っているだけの男たちだった。知らずに入り込んできた人間なら、榊組の名を聞いた時点で引けばそれで済む。
だが、目の前の男たちは違った。
榊組という名前を知っている。そのうえで、この場所は榊組のシマではないと言い切り、自分たちも別のどこかへ話を通していると言っている。
龍司にも、それが昨日とはまるで違う話になっていることくらいは分かった。
「兄貴」
龍司が低い声で呼ぶ。
「黙っとけ」
柴崎は男から目を離さないまま答えた。
龍司は口を閉じた。
昨日は相沢に止められた。数日前には榊から、拳を出す前に自分が誰の看板を背負っているのか考えろと叩き込まれたばかりだ。
何より今日は柴崎がいる。
榊組の若頭補佐である柴崎が話をしている以上、若衆の自分が勝手に前へ出る場面ではない。
それくらいは分かっていた。
柴崎は煙草を地面へ落として靴底で揉み消すと、男たちへ向き直った。
「ほな、どこの話でやってんのかだけ教えてくれ。こっちも確認するから」
「知らんがな。自分らで調べたらええやろ」
「こっちは穏便に聞いてんねんぞ」
「穏便?」
男が小さく笑い、柴崎の後ろに立つ龍司と相沢へ目をやった。
「三人で来といてよう言うわ。後ろの兄ちゃんなんか、さっきから喧嘩したそうな顔してるやんけ」
「してへんわ」
龍司がすぐに返すと、隣の相沢がその腕を軽く掴んだ。
「龍司」
「分かってる」
龍司は相沢の手を振り払わなかった。
それを見た男が、さらに馬鹿にするような笑みを浮かべる。
「何が分かってんねん、ガキ」
龍司の眉が動いた。
腹は立った。
だが、それでも前には出なかった。
柴崎が横目で龍司を見る。龍司が黙っているのを確認すると、何も言わずに男たちへ視線を戻した。
「もうええ。今日は帰るわ」
柴崎はそこで話を切った。
「ただ、明日からここでやるんは一回止めとけ。こっちも話確認する」
「なんで止めなあかんねん」
「揉めたないから言うてんねん」
「こっちも揉める気ないわ。あんたらが勝手に来ただけやろ」
男は吐き捨てるように言い、軽トラックへ戻ろうと柴崎の横を抜けた。
そのまま龍司の前を通り過ぎる。
肩と肩がぶつかった。
龍司が振り返った。
「おい」
「なんや」
「今ぶつかったやろ」
「狭いんやからしゃあないやろ」
相沢がすぐに龍司の腕を掴んだ。
「龍司、ええから」
龍司は返事をせず、男を睨んでいた。
一度。
これくらいなら我慢できる。
昔ならとっくに手が出ていたかもしれないが、榊に言われたことが頭に残っている。
男はそんな龍司を見て、口元を歪めた。
「なんや。やるんか?」
「やらん」
「ほな邪魔や」
今度はすれ違いざまではなく、男の手が龍司の肩を正面から押した。
身体が半歩だけ後ろへ下がる。
「龍司」
柴崎の声が飛んだ。
「分かってます」
龍司は拳を握ったまま、それでも動かなかった。
殴るな。
今は自分の喧嘩ではない。
榊組の話をしに来ている。
頭の中で何度もそう言い聞かせる。
男は龍司が手を出さないと分かると、さらに笑みを深くした。
「榊組いうても大したことないな」
そしてもう一度、今度はさっきより強く龍司の肩を押した。
次の瞬間には、龍司の拳が男の顔面へめり込んでいた。
鈍い音とともに男の身体が後ろへ弾かれ、そのまま白い軽トラックの側面へ激しくぶつかる。
「龍司!」
相沢の声が響いた。
「こいつ……!」
残った二人が一斉に動いた。
一人が龍司へ殴りかかってくる。龍司は飛んできた拳を頭を振ってかわすと、その勢いのまま懐へ踏み込み、がら空きになった腹へ短い拳を叩き込んだ。
男が息を詰まらせて前屈みになる。
その顎を、龍司の拳が下から突き上げた。
男の身体が後ろへ崩れる。
もう一人は柴崎へ向かったが、柴崎もただ見ていたわけではない。振り抜かれた拳を腕で受けると、相手の胸ぐらを掴み、そのまま軽トラックの荷台へ叩きつけた。
積まれていた段ボール箱が崩れ、腕時計や財布が路上へ散らばった。
「やめろ!」
相沢が声を張り上げ、龍司と男たちの間へ入ろうとする。
最初に殴られた男が軽トラックへ手をつきながら立ち上がり、そのまま龍司へ掴みかかった。
龍司は伸びてきた腕を振りほどき、反射的に拳を振り上げる。
「龍司!」
柴崎の声だった。
振り上げた拳が止まった。
「もうええ」
柴崎は自分が押さえていた男の胸ぐらから手を離し、龍司を真っ直ぐに見ていた。
龍司は荒く息を吐きながら、目の前の男を睨み続けている。右の拳はまだ固く握られ、腕にも力が残っていた。
「下ろせ」
「……はい」
龍司はようやく拳を下ろした。
柴崎は乱れたシャツの襟を整え、路上へ散らばった商品を一度だけ見てから、男たちへ視線を戻した。
「今日はこれで終わりや」
「ふざけんなや……」
口元を押さえた男が、血の滲んだ唇で柴崎を睨む。
柴崎は少しも動じなかった。
「次ここで商売する時は、誰の看板でやってんのか分かる奴連れてこい。こっちも次は、そのつもりで話する」
男たちは何も答えなかった。
柴崎はそれ以上相手にせず、龍司と相沢へ顎をしゃくった。
「帰るぞ」
三人はその場を離れた。
神楽町へ戻る道中、しばらく誰も口を開かなかった。
龍司は腫れ始めた右手の甲を何度か握っては開き、先ほどの感触を確かめるように歩いている。相沢はそんな龍司を横目で見ていたが、今は何を言っても無駄だと思ったのか、珍しく何も言わなかった。
前を歩いていた柴崎が、やがて足を止めた。
「龍司」
「はい」
振り返った柴崎の顔からは、いつもの軽さが消えていた。
「なんで殴った」
「……押されたからです」
「何回や」
「二回」
隣で相沢が額を押さえた。
柴崎もしばらく黙って龍司を見ていたが、やがて呆れたように低く息を吐いた。
「そこちゃうやろ」
「え?」
「回数聞いてんちゃう」
龍司は口を閉じた。
腹が立ったから。
押されたから。
榊組を馬鹿にされたから。
どれも嘘ではない。
だが柴崎が聞いているのは、そんなことではなかった。
「親父に何言われた?」
「……榊組の人間やって」
「覚えてるやんけ」
「はい」
「ほな、なんで殴った」
龍司は答えられなかった。
柴崎はそんな龍司を見ながら煙草を一本取り出し、ライターで火をつけた。白い煙を吐いてから、来た道を一度振り返る。
「お前が殴った瞬間にな、さっきまでの話はもう俺とあいつらだけの話ちゃうようになったんや」
龍司が顔を上げた。
「向こうがどこの誰かも分からん。誰の看板で動いてんのかも分からん。それでもお前は、榊組の名前背負ってあいつを殴った」
数日前、榊から聞かされた言葉と同じだった。
あの時は分かったつもりでいた。
だが実際に腹が立ち、目の前で肩を押されれば、結局拳が先に出た。
「喧嘩で勝つんは簡単や」
柴崎は煙草を指に挟み、龍司の腫れ始めた拳へ一度だけ目をやった。
「その後どうするか考えるんが、俺らの仕事や。お前が一発殴って気ぃ済んでも、それで話が終わるとは限らんねん」
「……すんません」
「俺に謝んな」
柴崎はそれだけ言うと、再び神楽町へ向かって歩き始めた。
「戻るぞ。水谷の兄貴に報告する」
「はい」
龍司と相沢も、その背中を追った。
歩きながら龍司は一度だけ振り返ったが、曲がり角の向こうに白い軽トラックはもう見えなかった。
昨日までは、神楽町の端で知らない男たちが物を売っている。それだけの話だった。
だが今日は違う。
榊組の名前を出しても男たちは退かず、それどころか、自分たちもどこかへ話を通していると言い切った。
誰の名前で。
誰の看板を背負って。
あの場所に立っているのか。
まだ何一つ分からない。
ただ、龍司が拳を振るったことで、昨日までなら見て見ぬふりもできた小さな違和感は、もう榊組が放っておける話ではなくなっていた。




