境目
榊に説教されてから数日が過ぎ、4月も半ばに入っていた。
昼を過ぎた神楽町には春らしい暖かさが戻り、商店街を行き交う人間の上着も少しずつ薄くなっている。魚屋の軒先から流れた水が陽を反して光り、飲食店から漂う出汁の匂いに混じって、どこかの店で揚げている油の匂いが路地まで流れてきていた。
柳龍司は相沢直樹と並んで、その商店街を歩いていた。
二人とも午前中から水谷に頼まれた使いで外へ出ており、最後の用事を済ませて事務所へ戻るところだった。今日は封筒も持っていないし、ここまで揉め事にも出くわしていない。
「今日は平和やな」
龍司が煙草を咥えながら言った。
「毎日平和や」
「嘘つけ。こないだ喧嘩したやんけ」
「あれ起こしたんお前やろ」
「俺ちゃうわ。向こうからや」
「まだ言うてんのか」
相沢は呆れたように笑った。
あの日以来、龍司は水谷だけでなく榊にもきっちり説教されている。本人なりに思うところはあったらしく、少なくとも数日間は余計な揉め事を起こしていなかった。
それだけで周囲から褒められそうになるのだから、普段どれだけ信用されていないのかは考えないことにしている。
二人は商店街を抜け、そのまま神楽町の外れへ向かった。
この辺りまで来ると人通りは目に見えて減り、店の数も少なくなる。古い町工場や倉庫が目立つようになり、表通りを一本外れれば、昼間でも静かな路地がいくつも伸びていた。
龍司にとっては昔から見慣れた景色だった。
どこまでが神楽町で、どこから先が別の街なのか。地図に線が引いてあるわけではないが、この辺りで暮らしている人間なら何となく分かっている。
極道の縄張りも、それとよく似ていた。
一本の道を越えたから突然別の組のシマになる、というほど単純なものではない。昔から付き合いのある店や、面倒を見てきた人間、誰がどこまで話を通しているのか。そういう積み重ねで境目はできている。
龍司は、そんな理屈を細かく考えたことはなかった。
神楽町は榊組のシマ。
自分にとっては、それで十分だった。
「ん?」
龍司の足がわずかに緩んだ。
少し先の路肩に、一台の白い軽トラックが停まっている。
荷台には段ボール箱がいくつも積まれ、その横に三人ほどの男が立っていた。広げられた箱の中には腕時計や財布、煙草、それに酒瓶らしきものまで雑多に並べられている。
男の一人が通りかかった中年の会社員へ声を掛けた。
「兄さん、時計いらん? 安うしとくで」
会社員は軽く手を振り、そのまま通り過ぎていく。
龍司は煙草を口から外した。
「なんやあれ」
相沢も軽トラックを見る。
「さあな。露店みたいなもんちゃうか」
「こんなとこで?」
「知らんがな」
龍司は歩きながら男たちへ目を向けた。
神楽町では見たことがない顔だった。
それだけなら珍しいことでもない。大阪中から人間が出入りする街で、知らない顔を見かけるたびに声を掛けていてはきりがない。
だが、道端に車を停めて物を売るとなれば話は少し違う。
「相沢」
「なんや」
「あんなん、勝手にやってええんか?」
「俺に聞くなや」
「話通してんのかな」
相沢もすぐには答えなかった。
神楽町で商売をする人間のすべてが榊組へ挨拶に来るわけではないし、何をするにも組の許可が必要というわけでもない。それでも、こうして道端を使って得体の知れない品物を売るとなれば、普通はどこかに話を通している。
少なくとも榊組の若衆である二人が、何も知らないというのは妙だった。
「兄貴ら知ってんのかな」
「戻ったら聞いたらええやろ」
「聞く前に、あいつらに聞いた方が早ない?」
龍司が軽トラックの方へ身体を向ける。
相沢がすぐに腕を掴んだ。
「待て」
「なんやねん」
「お前、この前親父になんて言われた?」
「それとこれ関係ないやろ」
「ある。めちゃくちゃある」
「聞くだけやって」
「お前の『聞くだけ』は信用ならん」
「失礼やな」
「この前、肩二回押されて二人倒した奴が言うな」
龍司は軽く舌打ちした。
目の前で何か引っかかれば、自分で確かめたくなる。昔からそうだったし、それで何度も余計なことをしてきた。
だが今回は、榊に言われた言葉がまだ頭に残っていた。
――今のお前は榊組の人間や。
龍司はしばらく男たちを見ていたが、やがて咥えていた煙草を深く吸った。
「……ほな戻るか」
相沢が少し驚いた顔をした。
「なんや」
「いや」
「なんやねん」
「ちゃんと我慢できるんやな思って」
「ガキ扱いすんなや」
「十分ガキやろ」
「二つしか変わらんやんけ」
二人は軽トラックの前をそのまま通り過ぎた。
男たちも龍司たちを気に留める様子はなく、別の通行人へ声を掛けている。
ただ、すれ違う瞬間に龍司は荷台へ目をやった。
新品らしい腕時計が何本も並び、その隣には外国物らしい煙草のカートンが積まれている。値札らしいものは見当たらず、段ボールにも仕入れ先が分かるような印字はなかった。
どこから持ってきた品なのか。
龍司には分からない。
だが、まともな店には見えなかった。
榊組の事務所へ戻ると、水谷は電話中だった。
龍司と相沢は入口で軽く頭を下げ、そのまま中へ入る。柴崎健吾は応接用のソファに腰を下ろし、新聞を広げながら煙草を吸っていた。
「戻りました」
「おう」
柴崎が新聞から顔を上げる。
「なんもなかったか?」
「今日はなんもしてませんよ」
「今日は、てなんや」
「龍司が珍しく我慢したんすよ」
相沢が言った。
「おい」
柴崎の目が龍司へ向く。
「何をや」
「神楽町の端んとこで、変なんおったんです」
「変なん?」
柴崎が新聞を畳んだ。
その頃には電話を終えた水谷も、受話器を置いてこちらを見ている。
「何がおった」
水谷に聞かれ、相沢が先ほど見たものを説明した。
「白い軽トラ停めて、時計とか財布とか売ってました。煙草とか酒もあったと思います」
「何人や」
「三人です」
「顔は?」
「見たことないです」
水谷が少し考える。
「場所どこや」
相沢が場所を説明すると、柴崎の表情がわずかに変わった。
「そこ、こっちやろ」
「たぶん」
相沢は少し迷ってから答えた。
「せやけど、ほんま境目です。一本向こう行ったら、もうこっちとも言い切れんとこです」
水谷は机の上に指を置いたまま黙っている。
龍司には、その沈黙の意味までは分からなかった。
「兄貴ら、知ってたんすか?」
龍司が聞く。
「いや」
水谷が答えた。
「少なくとも俺は聞いてへん」
「ほな勝手にやってるんちゃいます?」
「まだ分からん」
「聞きに行ったら早いでしょ」
「お前は黙っとけ」
「なんでですか」
「今日我慢したんやろ。そのまま我慢しとけ」
柴崎が横で笑った。
「龍司、お前よう我慢したな」
「馬鹿にしてます?」
「褒めてんねん」
「絶対ちゃうやん」
柴崎は煙草を灰皿へ押しつけると、ソファから立ち上がった。
「明日、俺見に行くわ」
水谷が柴崎を見る。
「一人でええか?」
「龍司と相沢連れていきます」
「なんで俺もなんすか」
「見つけたんお前らやろ」
「いや、行きますけど」
「嬉しそうにすんな」
柴崎に言われ、龍司は口元を押さえた。
別に喧嘩をしに行くわけではない。
誰なのか。
誰に話を通して、そこで商売をしているのか。
それを確かめるだけだ。
龍司も、その程度のことは分かっている。
ただ、その日の帰り道。
事務所を出た龍司は、無意識に昼間の道を遠くから見た。
白い軽トラックは、もういなかった。
昨日までは、あんなところで物を売る人間など見たことがなかった。
神楽町と、その外側。
普段なら意識することもない曖昧な境目に、知らない人間が入り込んできている。
まだ、それだけの話だった。




