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龍は天を仰ぐ  作者: lala
神楽町篇

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親父



 龍司が扉を開けると、榊宗次郎は大きな机の向こうに腰を据え、煙草を指に挟んだまま書類へ目を落としていた。


 45歳。榊組組長にして、二代目天真会若頭補佐。


 神楽町に50人を超える組員を抱える男だが、派手なものを好む性格ではなく、組長室にあるのも使い込まれた机と応接用のソファ、壁際の書類棚くらいだった。部屋には煙草の煙が薄く漂い、閉め切った窓の向こうから、神楽町を走る車の音がかすかに聞こえてくる。


 龍司は後ろ手に扉を閉めると、その場で頭を下げた。


「失礼します」


「座れ」


「はい」


 榊の向かいへ腰を下ろしたものの、すぐには何も言われなかった。榊は龍司を待たせたまま手元の書類を最後まで読み、一枚めくってから机の端へ置く。


「昨日、喧嘩したらしいな」


 やっぱりそれか、と龍司は胸の内で水谷の顔を浮かべた。


「……はい」


「なんでや」


「学生が絡まれてまして」


「それで?」


「止めに入ったら、向こうが――」


「お前が殴ったんやろ」


「……はい」


 榊は煙草を一本取り出して火をつけ、ゆっくりと煙を吐きながら龍司を見た。怒鳴られる覚悟をして入ってきただけに、こうして静かに話をされる方が龍司にはかえってやりにくい。


「勝ったんか」


「え?」


「喧嘩や。勝ったんか」


「まあ……はい」


「何人や」


「三人です」


「三人ともやったんか」


「二人です。一人はもうやらん言うたんで」


「そうか」


 榊はそれ以上何も言わず、灰皿へ煙草の灰を落とした。その横顔からは怒っているのか呆れているのかも読み取れず、龍司は居心地の悪さをごまかすように膝へ手を置いた。


「親父。俺、別に自分から喧嘩売ったわけちゃいますよ」


「分かっとる」


「学生の鞄取って遊んでたんです。ほんで返したれ言うたら、向こうが肩押してきて」


「二回な」


 龍司の口が止まった。


「……そこまで聞いてるんすか」


「聞いとる」


「水谷の兄貴、全部言うてるやん……」


「当たり前やろ。若頭やぞ」


「まあ、そうっすけど」


 榊はもう一度煙草を吸うと、吐き出した煙の向こうから龍司を真っ直ぐに見た。


「龍司」


「はい」


「お前、喧嘩強いな」


 思ってもいなかった言葉を掛けられ、龍司はわずかに姿勢を正した。


「……ありがとうございます」


「褒めてへん」


「違うんすか」


「違う」


 榊の目が細くなる。


 怒鳴られたわけでも、声を荒らげられたわけでもない。それでも龍司は自然と口を閉じた。10代の頃から何度となく見てきた目であり、下手な言い訳をすればするほど自分の首が締まることも、身体に染みつくほど知っている。


「お前が強いんは知っとる。そこらのチンピラ二人や三人、お前ならどうにでもするやろ」


「はい」


「せやけどな」


 榊は煙草を灰皿へ置くと、机に両肘をつくでもなく、椅子の背にもたれるでもなく、そのまま龍司へ向き合った。


「強いんと、偉いんはちゃうぞ」


 龍司は返事をしなかった。


 言葉の意味が分からないわけではない。ただ、喧嘩で負けないことが自分の取り柄だと思って生きてきた龍司には、その強さと極道としての立場が別のものだと言われても、まだ腹の底まで理解できなかった。


「お前は腕っぷしでここまで来た。昔からそうや。気に入らんことあったら殴る。自分よりデカい奴でも、何人おっても関係なしに向かっていく」


 榊の声は静かなままだったが、その言葉には龍司の知らない頃から極道として生きてきた男の重みがあった。


「それで済んでた頃は、それでもよかった」


「……はい」


「でも今のお前は榊組の人間や」


 その一言で、龍司の表情がわずかに変わった。


「昨日お前が殴ったんは、柳龍司いう一人のガキちゃう。榊組の若衆が人を殴ったんや。お前が何かしたら、相手はお前だけ見てへん。俺を見る。水谷を見る。最後には榊組の看板を見る」


 龍司は膝の上で組んだ手へ視線を落とした。


 相沢に呆れられ、水谷にも叱られた。それでも昨日の龍司には、悪い奴を殴っただけだという気持ちがどこかに残っていた。


 だが榊の口から「榊組の看板」と言われると、同じ話でも重さが違った。


「極道いうんはな、殴って勝ったら終わりやない」


 榊は灰皿に置いていた煙草を取り上げた。


「人に頭下げるんも極道や。殴らんで済ますんも極道や。お前にはそっちが足らん」


「……すんません」


「謝れ言うてんちゃう」


「はい」


「考えろ言うてんねん」


 龍司は小さく頷いた。


 頭では分かったつもりになれる。だが、次に同じことが起きた時、自分が拳を止められるかと聞かれれば自信はない。


 榊もそれくらい分かっているのだろう。


「まあ、学生助けたんは悪いことちゃうけどな」


 龍司が顔を上げた。


「ほなええやないですか」


「お前はなんでそうなんねん」


 榊の眉間に深い皺が寄った。


「いや、今親父が――」


「助けるんと、すぐ殴るんは別の話や」


「でも殴らな止まらん奴もおるでしょ」


「おる」


「ほな――」


「口答えすんな」


「はい」


 龍司はすぐに口を閉じた。


 榊は呆れたように煙を吐いたが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。


 龍司を拾ったのは、まだこいつが10代の頃だった。誰彼構わず噛みついて、喧嘩をしては傷だらけになり、それでも次の日には何事もなかったような顔をしている。何度叱っても同じことを繰り返す龍司を、榊は一度も放り出さなかった。


 龍司もまた、どれだけ叱られても榊のもとへ戻ってきた。


 二人に血の繋がりはない。それでも龍司が榊を「親父」と呼ぶことに、今では誰も違和感を持たなかった。


「親父」


「なんや」


「俺、もっと強うなりますわ」


 榊が龍司を見る。


「……お前、今の話なんも聞いてへんかったんか?」


「聞いてましたよ」


「ほななんでその答えになんねん」


「いや、強いんと偉いんは違うんでしょ?」


「そうや」


「ほな両方なったらええやないですか」


 一瞬、榊は何も言わなかった。


 やがて呆れたように鼻で笑う。


「アホか」


「なんでですか」


「もうええ。出てけ」


「え、終わりっすか?」


「終わりや。お前と喋ってたら疲れる」


「はい。失礼します」


 龍司は立ち上がって頭を下げ、扉へ向かおうとした。


 その時、外から二度、軽く扉を叩く音がした。


「親父、そろそろ出ます」


 水谷の声だった。


「おう」


 榊が壁の時計へ目を向けながら立ち上がり、椅子の背に掛けていた上着へ袖を通す。その姿を見て、龍司も足を止めた。


「どっか行くんすか?」


「本家や」


「天真会ですか」


「せや」


 二代目天真会。


 榊組がその傘下にあることくらい、龍司も当然知っている。榊が若頭補佐として本家へ出向くことも珍しい話ではなく、龍司自身も「天真会」という名前を聞いて育ってきた。


 それでも、そこが自分の世界だという感覚はなかった。


 龍司が毎朝顔を出すのは、この古びた榊組の事務所だ。水谷に叱られ、柴崎とくだらないことで揉め、奥の部屋へ入れば榊がいる。


 龍司にとっての極道は、まだその程度の広さだった。


 榊には「親父」と呼ぶ男がいる。


 その上にも、さらに大きな看板がある。


 頭では知っていても、その世界の大きさを自分の目で見たことはなかった。


「龍司」


「はい」


 榊が財布を取り出し、中から千円札を一枚抜いた。


「飯でも食うてこい」


「え、ええんすか?」


「その代わり、今日はもう喧嘩すんなよ」


「分かってますって」


「お前の『分かってます』ほど信用できん言葉ないわ」


「大丈夫です」


「余計不安や」


 龍司は笑いながら千円札を受け取り、丁寧に頭を下げてからポケットへしまった。


「ありがとうございます、親父」


「おう」


 さっきまで説教されていたとは思えないほど嬉しそうな顔で、龍司は部屋を出ていく。


 閉まった扉を見ながら、榊は呆れたように煙草を咥えた。


 強いんと、偉いんはちゃう。


 その言葉がいつか龍司の中で本当の意味を持つ日が来るのか、今の榊にもまだ分からない。


 ただ、拳だけでどこまでも進めるほど、極道の世界は単純ではなかった。



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