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龍は天を仰ぐ  作者: lala
神楽町篇

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3/55

榊組



4月上旬。


 昼を少し過ぎた頃、榊組の事務所にはいつもの煙草の匂いが漂っていた。


 窓際では寺島昭夫が新聞を広げ、その向かいでは若い衆が電話を取っている。奥から聞こえてくるのは水谷恭平の低い声。時折、受話器を置く音や湯呑みの触れ合う音が混じる。


 柳龍司は応接用のソファに深く腰を沈めていた。


 朝から頼まれていた使いはすべて終わっている。今のところ次の仕事もない。


「暇やなあ」


 呟いても、誰も反応しなかった。


 龍司は煙草を咥え、テーブルの上に置かれた灰皿へ手を伸ばす。中には吸い殻が山のように積もっていた。


「これ誰のやねん」


 向かいで新聞を読んでいた寺島が、紙面から目も上げずに答える。


「半分くらいお前やろ」


「俺こんな吸うてませんよ」


「朝から何本目や」


「……覚えてへん」


「ほな、お前や」


「なんでそうなるんすか」


 寺島は返事をせず、新聞を一枚めくった。


 42歳になる寺島は、榊組の中では古株の部類に入る。普段は大声を出すこともなく、若い衆の前へ出て何かを仕切ることも少ない。


 だが龍司が10代の頃から、寺島はこの事務所にいた。


 それだけで龍司にとっては十分に兄貴分だった。


「龍司」


 別の声が飛んできた。


「はい?」


「煙草」


 振り向くと、柴崎健吾が指を二本立てている。


 龍司は自分の煙草を一本抜き、その指の間へ挟んだ。


「火」


「そこまで俺がやるんすか」


「後輩やろ」


「自分で持ってるやないすか」


 柴崎の胸ポケットにはライターが見えている。


「先輩に火ぃ点けんの嫌なんか?」


「めんどいだけです」


「お前、ほんま可愛げないな」


「兄貴が細かいんすよ」


 龍司がライターを投げると、柴崎は片手で受け取った。


「投げんなアホ」


「取れてるやないすか」


「そういう問題ちゃうわ」


 言いながら柴崎は煙草に火をつける。


 34歳。榊組の若頭補佐。


 喧嘩になれば誰より先に前へ出る男で、龍司とは昔からよくぶつかった。口喧嘩も多い。時には本当に殴り合い寸前までいく。


 それでも何かあれば、龍司が背中を預ける相手の一人だった。


「お前ら朝からようやるな」


 寺島が新聞越しに言う。


「寺島の兄貴、こいつが舐めとるんすよ」


「柴崎、お前が相手するからや」


「俺が悪いんすか?」


「どっちもやかましい」


 寺島はそれだけ言って、また新聞へ目を落とした。


 龍司が笑っていると、事務所の扉が開いた。


「戻りました」


 相沢直樹が紙袋を提げて入ってくる。


「おう。何買うてきたん?」


「昼飯です」


「俺のは?」


「ない」


「なんでやねん」


「頼まれてへんもん」


「普通あるやろ」


「何が普通やねん」


 相沢は紙袋を龍司から遠ざけ、そのまま水谷の机へ向かった。


「水谷の兄貴、頼まれてたやつです」


「おう。そこ置いといてくれ」


「はい」


 龍司がソファから身を乗り出す。


「相沢、ほんまに俺のないん?」


「ないって」


「一個くらい多めに買うやろ普通」


「お前昨日、俺に何したか覚えてる?」


「なんかしたっけ」


 相沢が呆れた顔をした。


「封筒落としたやろ」


 事務所の空気が止まった。


 龍司の顔から笑みが消える。


「お前、それ言うなや」


「言うなってなんや」


 柴崎が反応した。


「なんの話や」


「なんもないっすよ」


「封筒落としたん?」


「落としてません」


「落としたやろ」


「相沢!」


 龍司が睨む。


 だが、もう遅かった。


 奥の机にいた水谷が顔を上げている。


「龍司」


「……はい」


「こっち来い」


 声は大きくない。


 その分、龍司は嫌な顔をした。


「兄貴、ほんま大したことちゃうんすよ」


「ええから来い」


「はい……」


 龍司は煙草を灰皿へ押しつけ、渋々立ち上がった。


 水谷の机の前まで来ると、腕を後ろへ組む。


「何落としたんや」


「昨日の封筒です」


「どこで」


「道です」


「なんで」


「……ちょっと揉めまして」


 水谷の眉が動いた。


「誰と」


「知らん奴です」


「なんで揉めた」


「学生が絡まれてたんで」


「それで?」


「止めに入ったら、向こうが肩押してきて」


「それで?」


「……殴りました」


 後ろで柴崎が吹き出した。


「お前ほんま変わらんな」


「笑わんといてくださいよ」


「笑うわ。使い行かせて、なんで喧嘩して帰ってくんねん」


「向こうからですって」


「お前の喧嘩、だいたいそれやな」


「ほんまに向こうからなんすよ」


 水谷は笑わなかった。


「相沢」


「はい」


「封筒は?」


「すぐ拾いました。中身も確認して、そのまま俺が雀荘まで持っていきました」


「そうか」


 水谷が短く頷く。


 それから龍司を見る。


「お前な」


「はい」


「喧嘩したことだけ言うてんちゃうぞ」


 龍司は黙った。


「組の使いで出てる時に、預かったもん放ったらかして何しとんねんって言うてんねん」


「……はい」


「相手が悪いとか、先に手ぇ出されたとか、そんなもん関係ない。預かったもん届けるんがお前の仕事やったんやろ」


「はい」


「ほな先に仕事せえ」


 水谷の声は最後まで静かだった。


 怒鳴られるより、その方が龍司には堪えた。


「すんませんでした」


「次から気ぃつけろ」


「はい」


 話はそれで終わった。


 水谷はもう机の書類へ目を戻している。


 龍司もソファへ戻ろうとした。


「龍司」


 柴崎が呼ぶ。


「なんすか」


「肩二回押されたん?」


 龍司が止まった。


「……なんで知ってるんすか」


「相沢から聞いた」


 龍司が相沢を見る。


 相沢は目を逸らした。


「お前、全部喋っとるやないか」


「聞かれたからしゃあないやろ」


「二回は殴ってええやろ?」


 龍司が柴崎へ同意を求める。


 柴崎は少し考えた。


「三回まで待て」


「そこなんすか?」


「二回はまだ早い」


「兄貴も大概やないすか」


「俺なら一回目で殴るけどな」


「ほな俺より早いやん!」


 事務所に笑い声が広がった。


「お前らええ加減にせえよ」


 水谷が書類から顔も上げずに言う。


「はい」


「すんません」


 二人の返事だけは揃った。


 寺島が新聞の向こうで笑っている。


 相沢は買ってきた弁当を開け始め、龍司はその横から勝手に唐揚げを一つ取った。


「あ、お前!」


「一個くらいええやろ」


「自分で買いに行けや!」


「もう食うたから遅い」


「ほんま腹立つな、お前」


 龍司は笑いながら唐揚げを口へ放り込んだ。


 榊組には、50人を超える男がいる。


 その全員が毎日この事務所へ顔を出すわけではない。外で仕事をしている者もいれば、別の場所を任されている者もいる。


 それでも龍司にとって、ここが榊組だった。


 水谷に叱られ、柴崎とくだらないことで揉め、寺島に呆れられ、相沢の飯を勝手に食う。


 血の繋がった家族ではない。


 それでも10代の頃からここにいる龍司には、この場所へ帰ってくることを特別だと思ったことがなかった。


 毎日戻ってくる。


 そこに兄貴分たちがいる。


 奥の部屋には、親父がいる。


 それが当たり前だった。


「龍司」


 奥から声がした。


 龍司の動きが止まる。


 榊宗次郎の声だった。


「はい!」


 口の中の唐揚げを慌てて飲み込み、龍司は立ち上がった。


 柴崎が笑う。


「怒られてこい」


「なんで怒られる前提なんすか」


「昨日のこと、水谷から聞いたんちゃうか?」


 龍司の顔が固まった。


 水谷を見る。


 水谷は何も言わず、書類をめくっている。


「……兄貴」


「はよ行け」


「言いました?」


「親父待たすな」


 答えてくれない。


 龍司は小さく舌打ちして、奥の部屋へ向かった。


 扉の前に立つと、さっきまでの軽い顔つきが少しだけ変わる。


 二度、扉を叩いた。


「親父。龍司です」


「入れ」


「はい」


 龍司は扉を開けた。




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