榊組
4月上旬。
昼を少し過ぎた頃、榊組の事務所にはいつもの煙草の匂いが漂っていた。
窓際では寺島昭夫が新聞を広げ、その向かいでは若い衆が電話を取っている。奥から聞こえてくるのは水谷恭平の低い声。時折、受話器を置く音や湯呑みの触れ合う音が混じる。
柳龍司は応接用のソファに深く腰を沈めていた。
朝から頼まれていた使いはすべて終わっている。今のところ次の仕事もない。
「暇やなあ」
呟いても、誰も反応しなかった。
龍司は煙草を咥え、テーブルの上に置かれた灰皿へ手を伸ばす。中には吸い殻が山のように積もっていた。
「これ誰のやねん」
向かいで新聞を読んでいた寺島が、紙面から目も上げずに答える。
「半分くらいお前やろ」
「俺こんな吸うてませんよ」
「朝から何本目や」
「……覚えてへん」
「ほな、お前や」
「なんでそうなるんすか」
寺島は返事をせず、新聞を一枚めくった。
42歳になる寺島は、榊組の中では古株の部類に入る。普段は大声を出すこともなく、若い衆の前へ出て何かを仕切ることも少ない。
だが龍司が10代の頃から、寺島はこの事務所にいた。
それだけで龍司にとっては十分に兄貴分だった。
「龍司」
別の声が飛んできた。
「はい?」
「煙草」
振り向くと、柴崎健吾が指を二本立てている。
龍司は自分の煙草を一本抜き、その指の間へ挟んだ。
「火」
「そこまで俺がやるんすか」
「後輩やろ」
「自分で持ってるやないすか」
柴崎の胸ポケットにはライターが見えている。
「先輩に火ぃ点けんの嫌なんか?」
「めんどいだけです」
「お前、ほんま可愛げないな」
「兄貴が細かいんすよ」
龍司がライターを投げると、柴崎は片手で受け取った。
「投げんなアホ」
「取れてるやないすか」
「そういう問題ちゃうわ」
言いながら柴崎は煙草に火をつける。
34歳。榊組の若頭補佐。
喧嘩になれば誰より先に前へ出る男で、龍司とは昔からよくぶつかった。口喧嘩も多い。時には本当に殴り合い寸前までいく。
それでも何かあれば、龍司が背中を預ける相手の一人だった。
「お前ら朝からようやるな」
寺島が新聞越しに言う。
「寺島の兄貴、こいつが舐めとるんすよ」
「柴崎、お前が相手するからや」
「俺が悪いんすか?」
「どっちもやかましい」
寺島はそれだけ言って、また新聞へ目を落とした。
龍司が笑っていると、事務所の扉が開いた。
「戻りました」
相沢直樹が紙袋を提げて入ってくる。
「おう。何買うてきたん?」
「昼飯です」
「俺のは?」
「ない」
「なんでやねん」
「頼まれてへんもん」
「普通あるやろ」
「何が普通やねん」
相沢は紙袋を龍司から遠ざけ、そのまま水谷の机へ向かった。
「水谷の兄貴、頼まれてたやつです」
「おう。そこ置いといてくれ」
「はい」
龍司がソファから身を乗り出す。
「相沢、ほんまに俺のないん?」
「ないって」
「一個くらい多めに買うやろ普通」
「お前昨日、俺に何したか覚えてる?」
「なんかしたっけ」
相沢が呆れた顔をした。
「封筒落としたやろ」
事務所の空気が止まった。
龍司の顔から笑みが消える。
「お前、それ言うなや」
「言うなってなんや」
柴崎が反応した。
「なんの話や」
「なんもないっすよ」
「封筒落としたん?」
「落としてません」
「落としたやろ」
「相沢!」
龍司が睨む。
だが、もう遅かった。
奥の机にいた水谷が顔を上げている。
「龍司」
「……はい」
「こっち来い」
声は大きくない。
その分、龍司は嫌な顔をした。
「兄貴、ほんま大したことちゃうんすよ」
「ええから来い」
「はい……」
龍司は煙草を灰皿へ押しつけ、渋々立ち上がった。
水谷の机の前まで来ると、腕を後ろへ組む。
「何落としたんや」
「昨日の封筒です」
「どこで」
「道です」
「なんで」
「……ちょっと揉めまして」
水谷の眉が動いた。
「誰と」
「知らん奴です」
「なんで揉めた」
「学生が絡まれてたんで」
「それで?」
「止めに入ったら、向こうが肩押してきて」
「それで?」
「……殴りました」
後ろで柴崎が吹き出した。
「お前ほんま変わらんな」
「笑わんといてくださいよ」
「笑うわ。使い行かせて、なんで喧嘩して帰ってくんねん」
「向こうからですって」
「お前の喧嘩、だいたいそれやな」
「ほんまに向こうからなんすよ」
水谷は笑わなかった。
「相沢」
「はい」
「封筒は?」
「すぐ拾いました。中身も確認して、そのまま俺が雀荘まで持っていきました」
「そうか」
水谷が短く頷く。
それから龍司を見る。
「お前な」
「はい」
「喧嘩したことだけ言うてんちゃうぞ」
龍司は黙った。
「組の使いで出てる時に、預かったもん放ったらかして何しとんねんって言うてんねん」
「……はい」
「相手が悪いとか、先に手ぇ出されたとか、そんなもん関係ない。預かったもん届けるんがお前の仕事やったんやろ」
「はい」
「ほな先に仕事せえ」
水谷の声は最後まで静かだった。
怒鳴られるより、その方が龍司には堪えた。
「すんませんでした」
「次から気ぃつけろ」
「はい」
話はそれで終わった。
水谷はもう机の書類へ目を戻している。
龍司もソファへ戻ろうとした。
「龍司」
柴崎が呼ぶ。
「なんすか」
「肩二回押されたん?」
龍司が止まった。
「……なんで知ってるんすか」
「相沢から聞いた」
龍司が相沢を見る。
相沢は目を逸らした。
「お前、全部喋っとるやないか」
「聞かれたからしゃあないやろ」
「二回は殴ってええやろ?」
龍司が柴崎へ同意を求める。
柴崎は少し考えた。
「三回まで待て」
「そこなんすか?」
「二回はまだ早い」
「兄貴も大概やないすか」
「俺なら一回目で殴るけどな」
「ほな俺より早いやん!」
事務所に笑い声が広がった。
「お前らええ加減にせえよ」
水谷が書類から顔も上げずに言う。
「はい」
「すんません」
二人の返事だけは揃った。
寺島が新聞の向こうで笑っている。
相沢は買ってきた弁当を開け始め、龍司はその横から勝手に唐揚げを一つ取った。
「あ、お前!」
「一個くらいええやろ」
「自分で買いに行けや!」
「もう食うたから遅い」
「ほんま腹立つな、お前」
龍司は笑いながら唐揚げを口へ放り込んだ。
榊組には、50人を超える男がいる。
その全員が毎日この事務所へ顔を出すわけではない。外で仕事をしている者もいれば、別の場所を任されている者もいる。
それでも龍司にとって、ここが榊組だった。
水谷に叱られ、柴崎とくだらないことで揉め、寺島に呆れられ、相沢の飯を勝手に食う。
血の繋がった家族ではない。
それでも10代の頃からここにいる龍司には、この場所へ帰ってくることを特別だと思ったことがなかった。
毎日戻ってくる。
そこに兄貴分たちがいる。
奥の部屋には、親父がいる。
それが当たり前だった。
「龍司」
奥から声がした。
龍司の動きが止まる。
榊宗次郎の声だった。
「はい!」
口の中の唐揚げを慌てて飲み込み、龍司は立ち上がった。
柴崎が笑う。
「怒られてこい」
「なんで怒られる前提なんすか」
「昨日のこと、水谷から聞いたんちゃうか?」
龍司の顔が固まった。
水谷を見る。
水谷は何も言わず、書類をめくっている。
「……兄貴」
「はよ行け」
「言いました?」
「親父待たすな」
答えてくれない。
龍司は小さく舌打ちして、奥の部屋へ向かった。
扉の前に立つと、さっきまでの軽い顔つきが少しだけ変わる。
二度、扉を叩いた。
「親父。龍司です」
「入れ」
「はい」
龍司は扉を開けた。




