柳龍司
翌日の昼前。
榊組の事務所では、朝から何本もの煙草が灰になっていた。灰皿を片づけ、湯を沸かし、鳴った電話を取る。兄貴分に呼ばれれば使いに走り、何もなければ事務所で待つ。若い衆の仕事など、そんなものだ。
柳龍司もそれを分かってはいたが、じっと座っているのは昔から性に合わなかった。
「龍司」
水谷に呼ばれ、龍司はすぐに立ち上がった。
「はい」
「これ、雀荘まで持っていけ」
差し出されたのは白い封筒だった。龍司が受け取ると、水谷は近くにいた相沢直樹にも目を向ける。
「相沢、お前も行ってこい」
「はい」
龍司が眉を寄せた。
「兄貴、こんなん俺一人でええでしょ」
「相沢も連れていけ」
「いや、でも――」
「連れていけ」
「……はい」
理由を聞くのはやめた。どうせ聞いても答えは変わらない。それに事務所から出られるなら、龍司にとってはそれで十分だった。
二人は神楽町の商店街を抜け、雀荘へ向かって歩いた。
昼が近づき、朝とは違う賑わいが街に出始めている。飲食店からは出汁や油の匂いが流れ、路地では酒屋の店員が空瓶の入ったケースを積み上げていた。
龍司は途中の自動販売機で足を止める。
「相沢、コーヒー飲むか?」
「いらん」
「ほな俺だけ買うわ」
「聞いた意味ないやんけ」
龍司は小銭を入れ、出てきた缶コーヒーの一本を相沢へ放った。
「いらん言うたやろ」
「ほな返せや」
「貰うけど」
「飲むんかい」
龍司が笑う。
相沢直樹は23歳。榊組の中では龍司と歳が近く、二人で動くことも多かった。だが、性格はまるで違う。
龍司は思ったことがすぐ顔に出る。気に入らなければ口に出し、それでも収まらなければ身体が動く。相沢は、その前に一度考える。
たったそれだけの違いだが、龍司の隣にいる人間にとって、その一度はかなり大きかった。
「兄貴、俺がなんかする思ってるやろ」
缶コーヒーを開けながら龍司が言った。
「今までの自分に聞けや」
「信用ないなあ」
「あると思ってたん?」
返す言葉もなく、龍司は煙草を咥えた。
相沢がついてきた理由くらい、本当は分かっている。水谷からすれば、龍司一人で外へ出すより、相沢を横につけておいた方が余計な揉め事が減る。
そして、それについて龍司が強く文句を言えない程度には前科もあった。
路地を抜け、小さな公園の前まで来た時だった。
「返してください」
若い声が聞こえた。
学生服姿の少年を、三人の男が囲んでいる。一人が学生鞄を持ち、少年が取ろうとするたびに高く持ち上げる。残りの二人は、その様子を見て笑っていた。
三人とも神楽町では見かけない顔だった。
龍司の歩く速度が落ちる。
「行くで」
相沢は止まらなかった。
「まだなんも言うてへんやん」
「顔が言うてる」
「なんもせえへんて」
「ほな行くで」
龍司も歩き出した。
「お願いします。返してください」
背後からまた声が聞こえた。
龍司の足が止まる。
相沢も数歩先で止まり、深く息を吐いた。
「……龍司」
「ちょっと待っとけ」
「待たへん。俺も行く」
相沢が先に諦めた。
龍司は煙草を指に挟み、三人の方へ歩いていった。
「おい」
三人が振り返る。
「返したれや」
「あ?」
「その鞄や。返したれ言うてんねん」
鞄を持った男が龍司を睨み、地面へ鞄を落とした。そのまま龍司との距離を詰めてくる。
「なんやお前」
「誰でもええやろ。返したれや」
「関係ない奴がしゃしゃってくんなや」
後ろから相沢の声が飛んだ。
「龍司。やめとけよ」
「俺なんもしてへんやん」
「する前に言うてんねん」
男が龍司の肩を押した。
「邪魔や。消えろ」
龍司は動かなかった。
もう一度、肩を押される。
次の瞬間、鈍い音がした。
龍司の拳をまともに受けた男の顔が跳ね、その身体が地面へ転がる。
「お前!」
残った二人のうち、一人が殴りかかってきた。龍司は飛んできた腕を外へ払い、そのまま腹へ拳を叩き込む。
「ぐっ……!」
男の身体がくの字に折れた。そこへ肩をぶつけると、足をもつれさせて尻から地面へ落ちる。
最後の一人は動かなかった。
ほんの数秒前まで三人で少年を囲んでいた威勢は、もう消えている。
「まだやるんか?」
龍司が訊くと、男は首を横に振った。
「ほな、もうええわ」
地面に落ちていた学生鞄を拾い、少年へ差し出す。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
「もうええから行き」
「はい!」
少年は何度も頭を下げ、鞄を抱えて走っていった。
龍司はその背中を少しだけ見送ると、何事もなかったように煙草を咥え直した。
「行こか」
「お前なあ……」
相沢が深く息を吐く。
「なんやねん」
「なんで殴んねん」
「押されたからや」
「押されたら殴ってええんか」
「二回やぞ」
「回数の話ちゃうねん」
「でも先に手ぇ出したん向こうやろ」
「そういう話してへん」
「ほななんの話やねん」
「もうええわ」
相沢はそれ以上言わなかった。
困っている人間を助けようだとか、弱い者を守ろうだとか、龍司はそんな立派なことを考えて拳を出したわけではない。ただ、三人がかりで一人を囲み、嫌がる相手の鞄を奪って笑っているのが気に入らなかった。
腹が立ったところで肩を押された。だから殴った。
龍司の中では、それだけで話が終わっている。相手が誰なのか、その後どうなるのか。そういうことを考える頃には、いつも拳を出したあとだった。
しばらく歩いたところで、相沢が突然止まった。
「龍司」
「なんや」
「封筒は?」
龍司も足を止めた。
右手を見る。左手も見る。
「……あれ?」
「お前……」
二人が同時に振り返る。
さっき男を殴った辺りに、白い封筒が落ちていた。
「あったわ」
「『あったわ』ちゃうねん!」
龍司は来た道を戻り、封筒を拾って埃を払った。
「落としただけやがな」
「中身なんぼ入ってる思ってんねん」
「知らん」
「知らんのに落とすなや!」
相沢が龍司の手から封筒を取り上げる。
「なんでお前が持つねん」
「雀荘着くまで俺が持つ」
「大丈夫やって」
「もう一回なんかあったら困る」
「あるかい」
「ある」
即答された。
龍司は口を開きかけたが、何も言えなかった。少なくとも今日に関しては、反論できる材料が一つもない。
「……兄貴には言うなよ」
「無理」
「なんでや」
「俺まで怒られるやろ」
「そこは庇えや」
「嫌や」
「冷たいやっちゃなあ」
相沢は知らん顔で歩いていく。
龍司は舌打ちし、その後を追った。
神楽町で生きてきた龍司にとって、揉め事はまだ単純なものだった。気に入らない相手がいれば正面からぶつかる。殴られれば殴り返す。自分の拳が届くところなら、それでどうにかなってきた。
だが、極道の世界では拳を振るう人間より、その拳が誰の看板を背負っているのかがものを言う。
21歳の龍司は、その重さをまだ知らない。
自分の拳一つでは片づかない揉め事があることさえ、この時はまだまともに考えたことがなかった。




