神楽町
1985年4月。
朝の神楽町は、騒がしい。
商店街ではシャッターが次々と持ち上がり、魚屋の親父が店先に水を撒いている。酒屋の軽トラックからはビールケースが降ろされ、その横を仕事へ向かう男たちが歩いていく。
一本路地へ入れば、昨夜から飲み続けていたらしい酔っ払いが店から出てくる。
古い商店と小さな飲み屋が並び、その間を細い路地が縫うように伸びている。
そんな神楽町を、柳龍司は煙草を咥えて歩いていた。
白いシャツの袖は肘までまくり、髪には寝癖が残っている。つい数日前に21歳になったばかりだ。
「龍ちゃん、おはよう」
食堂の前を掃いていた女将が声を掛けてきた。
「おう。おはよう」
「昨日、裏のゴミ片づけてくれたん龍ちゃんやろ?」
「ゴミ?」
龍司は少し考えてから思い出した。
昨日ここを通った時、猫に荒らされたゴミ袋が道に散らばっていた。それを集めて店の裏へ戻しただけだ。
「別にええがな。通ったら汚かっただけや」
「今度なんか食べさせたるわ」
「ほんま? ほな今日行くわ」
「今日かいな。ほんま遠慮ないなあ」
女将が笑い、龍司も笑いながら歩き出す。
少し先では、自転車屋の親父が店から顔を出した。
「龍ちゃん、ちょい待ち」
「今度はなんや」
「昨日な、榊んとこの若いのが店の前に車停めよってん。邪魔や言うても、なかなか動かしよらへん」
「知らんがな。俺ちゃうし」
「榊んとこの車やったら一緒や。ちゃんと言うとけ」
「ああ、分かった。言うとくわ」
龍司は榊組の若衆だ。
それを知っていても、食堂の女将は飯を食わせようとするし、自転車屋の親父は遠慮なく文句を言う。
龍司にとっては、それが普通だった。
商店街を抜けて一本裏へ入ると、人通りが少なくなる。
そこに雨染みの残る古びた3階建ての建物があった。
入口の脇に掛けられた、小さな表札。
――榊組。
龍司は短くなった煙草を口から外し、そのまま道端へ捨てようとした。
「あかんで、龍ちゃん」
手が止まった。
向こうから歩いてきた老婆が、じっと龍司を見ている。
「まだ何もしてへんやん」
「今、捨てようとしたやろ」
「見てたんかいな」
「見てんでも分かるわ」
龍司は諦めてポケットから携帯灰皿を取り出した。
煙草を押し込むのを見届けると、老婆は満足そうに榊組の前を通り過ぎていく。
「なんで分かんねん……」
小さく呟きながら、龍司は事務所の扉を開けた。
「おはようございます」
中には煙草の匂いがこもっていた。
電話が鳴り、新聞をめくる音がする。若い衆が湯呑みを運び、奥では誰かが低い声で電話をしている。
電話を終えた水谷恭平が龍司に気づいた。
壁の時計を見てから、奥を顎で示す。
「親父、もう来とるぞ」
「今日早いっすね」
「お前が遅いんや」
龍司も時計を見る。
まだ9時にもなっていない。
「いや、まだ――」
「はよ顔出してこい」
「……はい、兄貴」
言い返すのを諦め、龍司は事務所の奥へ向かった。
廊下の突き当たりに一枚の扉がある。
その向こうにいるのは、榊宗次郎。
10代の頃から、龍司が「親父」と呼んできた男だ。
扉の前まで来ると、龍司は寝癖には一切触れないくせに、シャツの襟元だけはきちんと直した。
そして2度、扉を叩く。
「親父。龍司です」
少し間があった。
「入れ」
「はい」
龍司は扉を開けた。
神楽町では「龍ちゃん」。
榊組では一人の若衆。
奥には「親父」と呼ぶ男がいる。
21歳の柳龍司にとって、それが自分の世界のほとんどすべてだった。
その外側で何が動いているのか。
この時の龍司は、まだ何も知らない。




