帳簿
紙の端へ置いた指に、黒い汚れがついていた。新道宏一は親指でそれを擦り、開いている帳簿へ目を戻した。八月十二日。昨日の葬儀で使った部屋には片づけに出入りする者がいたが、こちらの机には、葬儀前から積まれた書類が残っていた。
十二社会の上納金、傘下企業との取引、貸付、興行に流れた金。第三者の名義を使って動かしているものもある。新道は帳簿を一冊ずつ確かめ、別にしておいた資料と突き合わせていた。
以前にも見た数字だった。武藤が十二人との話し合いを始め、本家の会計をどこまで示せるか、帳簿を整理していた頃から気にかかっていた。
上納の使途を説明するために開いた帳簿の横で、十二社会の一部へ、本家とは別のところから金が入っていた。事業への出資や貸付という形を取っている。それだけなら、どこの組でもある話だった。
ただ、動いた時期が近かった。出している会社も、受け取る側の名義も違うのに、本家への不満が強くなり始めた頃へ、幾つもの取引が重なっていた。
新道は、その時に抜き出した伝票を手元へ寄せた。設立して一年も経っていない会社。登記を調べても、それだけでは何も言えなかった。その後も資料を集めたが、武藤へ見せた時には、まだ調べているとしか答えられなかった。
あの日、武藤は書類の束を見て、今日は帰れと言った。
今日は、まだ見せる相手がいるような気がしていた。ここまで分かったと話せば、武藤は机の横へ立ち、同じ紙を覗き込む。そのつもりで一枚を持ち上げかけ、新道は手を止めた。
廊下を誰かが通った。足音は扉の前を過ぎ、そのまま遠ざかっていった。
新道は伝票を机へ戻した。武藤が死んだ。だから、開き直した帳簿だった。だが、その死に答えをつけるために数字を読むつもりはなかった。
「……ここもか」
ある会社から出た金が、別の会社を経て、十二社会傘下の一つへ入っていた。最初の資料では、間にある会社までしか分からなかった。その先の取引を確かめると、前に見た入金へ行き着いた。
新道は白い紙を一枚取り、会社名と日付を書き写した。金額を添えてから、次の帳簿を開く。
今度は貸付だった。会社の名は違ったが、添えられた書類に、さっき書いたばかりの人間の名前があった。
紙を手元へ引き寄せ、もう一度読む。同姓の別人ということはないか。役員として名を置いているだけなのか、取引そのものに関わっているのか。分かるところと、まだ分からないところを分けて書いた。
新道は名前の下へ線を引きかけ、鉛筆を止めた。代わりに、横へ帳簿の頁を書き添えた。あとから自分で読み返した時、何を見てそこへ書いたのか、戻れるようにしておかなければならなかった。
机の上には、違う商売の書類が並んでいた。興行、不動産、貸金。出所も使い道も別の取引に見える。それでも、添えられた資料まで読むと、同じ名前が繰り返し出てきた。
一つの商売へ何人もの極道が関わることはある。同じ会社が、幾つもの組と付き合うことも珍しくない。会社名が違っていても、実際に動かしている人間が同じということもあった。
だから、名前が重なっただけでは足りなかった。
新道は煙草に火をつけた。吸い込んだ煙を吐き、書き出した紙を少し離して見た。取引を一つずつ読んでいる時には、離れた場所の話に思えていた。日付と名前を同じ紙へ置くと、それぞれの間に、確かめるべき箇所ができていた。
十二社会は、まとまりかけていた。武藤が十二人の話を聞き、本家へ持ち帰り、改革案を持ってもう一度出向いた。集団で出ていくという話は凍結され、あとは実際に本家が変わるかどうかを見るところまで戻っていた。
その直前まで、外から金は流れていた。
新道は灰皿へ煙草を置き、武藤へ見せた資料を開いた。あの時に気になった取引と、今日見つけた名前を比べる。同じ箇所もあれば、新しく分かったものもあった。
金を出した人間が、武藤を殺したとは限らない。十二社会の周辺へ金が入っていたことと、武藤が撃たれたことの間には、まだ何も見つかっていなかった。
岩城の名前が出ていることは、新道も知っていた。誰が言い始めたのか分からない話が、いつの間にか、誰もが聞いたことのある話になっている。ここで自分まで同じことをすれば、帳簿を開いている意味がなかった。
新道が確かめているのは、誰が殺したかではない。誰の金が、どこを通って、誰のところへ入ったのかだった。
煙草を取り上げると、灰が長くなっていた。新道はそれを落とし、次の書類を手元へ寄せた。
◇◇◇
窓の外が暗くなっても、新道は本家を出なかった。片づけをする物音も減り、廊下で交わされる声が、昼よりよく聞こえるようになっていた。
机の上で、会社名と人の名前を書いた紙が増えていた。最初は一枚に収まっていたものが、今は帳簿の間へ何枚も挟まれている。新道はその一枚を抜き、昼に調べた会社の書類へ重ねた。
役員欄に、見覚えのある名前があった。
別の会社の資料を取る。そこにも同じ名前がある。新道は二枚を並べ、登記の時期と、それぞれの取引の日付を確かめた。
さらに遡ると、今度は別人の名義を使った会社へ繋がった。表に出ている名だけを読めば、さっきまでの会社とは関係がないように見える。だが、以前の取引を記した資料には、間を取り持った人間が残っていた。
新道は、その名前を紙へ書き足した。前に書いた名前との間へ、初めて短い線を引いた。
そこから先は、帳簿だけでは分からなかった。付き合いのある企業、金を扱う時に顔を出す人間。これまで本家の会計を預かる中で見聞きしたことを、資料へ戻りながら確かめていった。
遠いところを通っていた。一つの組が一つの会社へ金を出し、その会社からそのまま十二社会へ渡っているわけではない。別の商売が入り、別の名義が入り、貸した金と出資した金が、違う書類へ分かれていた。
その向こうに、同じ場所が見え始めていた。
極真獅子堂会。
新道は書きかけの紙から手を離した。椅子へ背を預け、机に並んだ資料を見た。若頭補佐、黒崎獅童が率いる組だった。
昨日の葬儀で、黒崎は焼香を終えて振り返った。目が合うと、軽く頭を下げてきた。新道も返し、それから、次に進み出た者へ目を向けた。
あの時の顔が浮かんだが、新道はすぐに帳簿へ戻った。葬儀で何をしていたかを思い返しても、この金の説明にはならなかった。
極真獅子堂会ほどの組なら、付き合いのある企業も人間も多い。新道が調べた会社のどこかに、その関係者がいてもおかしくはない。金を辿っていけば、同じ代紋の内側にいる者へ行き着くこともある。
これだけで黒崎を疑うのは早かった。まして、武藤の死について何かを言えるものではない。
新道は紙の端へ置いた指を動かし、最初に書き出した日付へ戻った。
なぜ、何度も十二社会の周辺へ出てくるのか。
商売上の付き合いで重なっただけなら、その取引を一つずつ確かめればいい。貸付なら、貸した理由と返す先がある。出資なら、何に金を出したのかがある。それを確かめる前に、組の名だけで答えを決めるわけにはいかなかった。
新道は、最初の帳簿を開き直した。
指で数字を追い、横へ置いた紙と照らす。金が出た日と、次の会社へ入った日。その間に別の取引がないか、前後の頁まで戻って読んだ。
一冊を閉じ、もう一冊を開いた。こちらでは貸付として記されている。添付の伝票を抜き、先ほどの金額と比べた。名義は違うが、時期は繋がっていた。
三冊目を机の中央へ置く。新道は眼鏡を押し上げ、入金の欄へ目を落とした。
そこで、手が止まった。
離れた帳簿で読んだ時には、それぞれに動いているように見えた数字だった。今は、間に入った会社と人間を書き出してある。別々だと思っていた取引を、同じ順に辿ることができた。
新道は一度、最初の紙へ戻った。日付を読み直し、金額を確かめ、最後にもう一度、三冊目の数字を見た。
「……同じ銭やな」
誰に聞かせるでもない声だった。
鉛筆を置きかけ、もう一度持ち直した。会社名の横へ頁を書き、最後の数字に小さく印をつけた。
まだ、全部が繋がったわけではなかった。金を出した理由も、間にいる者がどこまで知っているのかも分からない。極真獅子堂会へ見え始めた繋がりも、この先、何を確かめればいいのかという段階だった。
新道は紙を束ねず、机へ並べたままにした。明日、同じところから確かめ直せるように、帳簿にもそれぞれ紙を挟んだ。
武藤が生きていた頃には、妙な金があるとしか言えなかった。その金が、どこを通ってきたのか。ようやく、辿れるところができていた。
新道は最後の帳簿を閉じた。机の上には、細い線で結ばれた名前と、何度も確かめた数字が残った。




