岩城宗次
窓の外に、昨夜とは違う車が停まっていた。通りを挟んだ向こう側に黒いセダンが一台、少し離れた路地にも一台ある。八月九日の朝。二代目鬼塚組の事務所へ入ってきた若い衆は、戸を閉める前に、もう一度そちらを見た。
兵頭組の人間だった。昨夜から場所と車を替えながら、事務所を見ている。隠れるつもりはないらしく、こちらが顔を向けても、運転席の男は目を逸らさなかった。
組員が外へ出れば、車内で誰かが顔を上げた。車を出せば、その後ろへついた。どこへ行き、誰と会うのか。見られていることは、事務所にいる全員が分かっていた。
「またついて来とります」
報告を聞いた岩城宗次は、煙草の煙を吐いた。若い衆は入口の近くに立ったまま、返事を待っていた。
「何台や」
「二台です」
「ほっとけ」
「けど親父……」
「手ぇ出すな」
岩城が顔を向けると、若い衆は口を閉じた。納得した顔ではなかったが、それ以上は言わず、窓から離れた。
武藤が殺された翌日には、自分の名前が天龍会の中を走っていた。岩城が殺らせたらしい。その話を聞いた時、岩城自身が聞き返した。
武藤とは対立した。十二社会の要求をめぐって、気に食わないと思ったこともある。改革案を出されたからといって、本家を信用して待つ気になれたわけでもなかった。
だが、それと殺すことは別だった。岩城は武藤を殺していない。誰かに殺せと命じたこともなければ、朝の本家前へ人を向かわせた覚えもない。
それでも、自分を疑う理由が並ぶことは分かった。十二社会にいる。武藤へ反発していた。本家の案を受けてまとまりかけた時にも、素直に喜んではいなかった。
知っていることを並べれば、知らないことまで説明できた気になる。その間に、いつ、誰へ、何を命じたのかという話は一つもなかった。
「親父」
窓際にいた別の若い衆が呼んだ。岩城が目を向けると、男は外を顎で示した。
「このまま好きにさせとくんですか」
岩城は返事をせず、煙草を指へ戻した。
「事務所の前張られて、ウチの人間つけ回されて。こんなん……」
「分かっとる」
「兵頭に舐められますよ」
岩城の目が止まった。若い衆は、言い終えてから口を閉じた。
そこが厄介だった。自分はやっていないと言えば、相手が帰っていく話ではなかった。事務所の前へ車を並べられ、出ていくたびに後ろをつけられる。その様子は、鬼塚組の人間だけが見ているわけでもない。
黙っていれば怯んだと言われる。車を避ければ逃げたと言われるかもしれない。やっていないのなら、何故逃げるのか。その程度の言葉で、今度は逃げたことまで疑う理由にされる。
「誰が舐められとる言うた」
若い衆が背筋を伸ばした。岩城は灰皿へ煙草を押しつけ、その顔を見た。
「手ぇ出すな言うたんは、兵頭が怖いからちゃうぞ」
男は黙っていた。岩城は消えた煙草から手を離した。
「武藤を殺ったんがワシやないからや」
言ってから、窓へ顔を向けた。向かいの車は、まだそこにあった。こちらが何を話したかなど知らない男が、開いた窓から煙草の煙を吐いていた。
◇◇◇
昼過ぎ、岩城を乗せた車が事務所を出た。助手席の若い衆が後ろを見て、すぐに前へ向き直った。黒いセダンが通りへ出てきていた。
一つ角を曲がっても、二つ目を曲がっても離れなかった。間へ別の車が入ると、その後ろからついてくる。振り切ろうとしなければ、見失うような距離ではなかった。
「親父。兵頭です」
「見たら分かる」
岩城は後部座席へ身体を預けていた。運転している若い衆が、ミラー越しに目を向けた。
「撒きますか」
「そのまま走れ」
「はい」
信号で車が止まった。後ろのセダンも、数台分を空けて止まった。助手席の若い衆は前を向いていたが、信号が変わるまでに、また一度振り返った。
岩城は窓の外を見た。歩道では、買い物袋を下げた女が日陰へ寄っていた。道を渡る人間が途切れ、信号が変わる。こちらの車が進むと、後ろも動き出した。
兵頭組の気持ちが分からないわけではなかった。親を殺されれば、犯人を探す。名前が出れば確かめに行く。自分が同じ立場でも、事務所で電話を待っているだけでは済まなかっただろう。
だから、昨夜から黙って見させていた。事務所から人を出して追い払うことも、つけてくる車を止めることもさせなかった。それで何か分かるのなら、見ればいいと思っていた。
だが、いつまで続けるつもりなのか。自分がやったと認めるまでなら、終わることはなかった。
「次の角、左入れ」
運転していた若い衆がミラーを見た。岩城は前を向いたまま、返事を待った。
「はい」
車が細い道へ入った。少しして、後ろのセダンも曲がってきた。岩城は窓の外を一度確かめ、車を止めさせた。
若い衆が振り返る前に、扉へ手をかけた。
「親父」
「お前ら乗っとけ」
岩城は車を降りた。後ろのセダンも止まり、中の二人がこちらを見ていた。岩城が歩き始めると、二人とも扉を開けて出てきた。
兵頭組の若い衆だった。二人とも頭を下げず、車の脇に立っていた。岩城はその前まで行き、足を止めた。
「いつまでついて来るつもりや」
返事はなかった。一人が顎を上げ、岩城を見ていた。
「聞いとんねん」
「親父殺ったん、あんたやろ」
岩城は男を見た。噂を確かめる聞き方ではなかった。目の前に、もう犯人が立っているつもりの声だった。
「証拠あんのか」
「みんな言うとるわ」
「ほな、そのみんな連れて来い」
男の顔が歪んだ。隣にいたもう一人も、車から身体を離した。
「とぼけんなや」
「とぼけとるんちゃう」
岩城は一歩近づいた。男は下がらず、目を見返してきた。
「ワシは武藤を殺ってへん」
「誰が信じるか」
「信じる信じんは勝手や」
言ってから、岩城は少し声を落とした。男の後ろにある車も、その向こうの道も見なかった。
「せやけどな。やってもないことで、いつまでもワシのケツ追い回してええ思うなよ」
「親父殺られとんねん」
「知っとるわ」
「ほな犯人出せや」
「知らん言うとるやろが」
男の肩が前へ出た。岩城も退かなかった。あと一歩で胸が当たる距離になり、横の男が口を開きかけたが、何も言わなかった。
岩城の車の中では、助手席の若い衆がこちらを見ていた。扉へ手を寄せたのが見えた。岩城はそちらを向かず、兵頭組の男から目を離さなかった。
殴れば話は早かった。自分の前に立ち、殺したと決めつけている男を、黙らせることはできる。だが、その一発で、昨夜から手を出すなと言っていた意味がなくなる。
男の手も握られていた。岩城はそれを見たが、構えることはしなかった。
「東堂に伝えとけ」
男の眉が動いた。岩城は、その顔へ言った。
「ワシは逃げも隠れもせえへん」
男は黙っていた。岩城は言葉を続けた。
「疑うんやったら、いつでも来い」
それで終わりにすることもできた。だが、事務所の前に停まっていた車と、それを見ていた若い衆の顔が浮かんだ。岩城は男を見たまま、もう一つ言った。
「せやけど、鬼塚組を舐めるんも大概にせえよ」
男の口元が動いた。岩城は返事を待たず、背を向けた。歩き始めても、二人は追ってこなかった。
車へ戻ると、助手席の若い衆が身体を前へ寄せた。何か聞きたそうにしていたが、岩城の顔を見て口を閉じた。
「出せ」
扉が閉まり、車が動き出した。岩城は背もたれへ身体を預けた。言ったことは、どれも嘘ではなかった。逃げる気も隠れる気もなく、武藤を殺した覚えもない。
それが、あの二人へ伝わったようには思えなかった。
◇◇◇
その日の夕方、兵頭組へ話が戻ってきた。岩城が車を止め、自分から降りてきたという。話を聞いた者は、何と言ったのかを尋ねた。
岩城が、いつでも来い言うとる。
最初に残ったのは、その言葉だった。疑うのならという前の言葉よりも、いつでも来いの方が、聞く者の耳へ強く残った。
別の男が聞き返すと、鬼塚組を舐めるなとまで言ったらしいという話が加わった。親父を殺された兵頭組が確かめに行き、その相手に凄まれて帰ってきた。そう受け取った者は、顔をしかめた。
やれるもんなら、やってみろ言うとるんか。
誰かが言った。その場にいた者が否定せず、別の場所では、それが岩城の言葉として伝わった。
岩城は、武藤を殺していないと言った。証拠があるのかとも聞いた。だが、その言葉を聞いても、信じられない者にとっては、とぼけているとしか思えなかった。
いつでも来い。舐めるな。
そちらの言葉だけが、岩城の本心だと受け取られた。
その日、岩城も兵頭組の二人も、誰一人殴ってはいなかった。銃を抜いた者もいない。それでも、同じ道で向き合った時より、話が兵頭組へ戻った時の方が、岩城宗次は遠い相手になっていた。




