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龍は天を仰ぐ  作者: lala
十二社会篇

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親父が死んだ



 兵頭組の玄関は、夜になっても人の出入りが途切れなかった。知らせを聞いた組員が次々と戻り、先にいた者へ同じことを尋ねた。何度聞き返しても、返ってくる答えは変わらなかった。


 八月七日。三代目兵頭組組長、武藤和正が死んだ。


 本家の電話も鳴り続けていた。直参から傘下へ、その下の組へと、若頭死亡の知らせが伝わっていく。五代目に最も近いと見られていた男だった。その名を聞いて、誰のことかと尋ねる者はいなかった。


 だが、兵頭組へ戻ってきた男たちは、本家の若頭を亡くしたという話をしに来たのではなかった。


「……なんでやねん」


 壁際に座った若い衆が、膝の間へ顔を落とした。隣の男は何も言わず、その背中を見ていた。泣いている者もいれば、煙草へ火をつけたまま、吸うのを忘れている者もいた。


 廊下にも階段にも人がいた。奥へ入りきれない者が立ち、誰かが通るたびに身体を寄せた。これだけ人が戻ってきているのに、誰一人、武藤を撃った男の名前を持っていなかった。


 一人の若い衆が壁を殴った。鈍い音がし、近くにいた者が顔を向けた。握り直した拳の皮が破れていたが、本人は見ようともしなかった。


「誰や」


 別の男が机を蹴った。灰皿がずれ、溜まっていた灰が卓上へこぼれた。


「誰が親父殺ったんじゃ!」


「やめんか!」


 若頭の東堂政信が声を張った。男は机から足を離したが、荒い息は収まらなかった。東堂も顔から血の気が引き、机へついた手に力が入っていた。


 舎弟頭の安西修司は椅子に腰を下ろしたまま、俯いていた。いつもなら若い衆へ目を配る男が、先ほどから顔を上げない。若頭補佐の滝川雄二は座ろうともせず、東堂の近くに立っていた。


「カシラ」


 東堂が顔を向けた。


「誰が殺ったんや」


「まだ分からん」


「分からんて」


「分からんもんは分からん」


 滝川の顎が動いた。奥歯を噛み、東堂を見たまま言った。


「親父が殺られとんねんぞ」


「分かっとるわ」


 低い声だった。滝川は口を閉じた。東堂の目を見れば、分かっていない人間へ言う言葉ではないことくらいは分かった。


 朝には、この玄関から出ていった。若い衆が頭を下げれば手を振り、本家へ向かった。机には、武藤が読み終えた書類が残っている。誰かが片づけようとして手を伸ばし、結局、そのままにしていた。


 武藤を殺した人間がいる。今もどこかで息をし、こちらの知らない場所で夜を過ごしている。その相手へ向けたい怒りだけが、行き先を持たずに事務所へ溜まっていた。


 東堂は周囲を見渡した。誰も帰ろうとしていない。帰れと言える言葉も、今は持っていなかった。


◇◇◇


 榊組のテレビで、流れていた番組が途切れた。画面が切り替わり、原稿へ目を落としたアナウンサーが顔を上げた。


 四代目天龍会若頭、武藤和正が銃撃され、死亡した。警察は殺人事件として捜査を始めたという。


 龍司は煙草を持ったまま、画面を見ていた。昼から何度も聞かされている名前だった。それがテレビから聞こえてくると、事務所の中で聞いた時とは違うところへ話が広がっている気がした。


「……死んだんか」


 相沢が小さく呟いた。誰かへ確かめたわけではなかった。龍司も返事をせず、煙草を灰皿へ置いた。


 武藤とは、話したことも顔を合わせたこともない。本家の若頭で、久世よりも上にいる。その立場を頭で知っていても、龍司には、普段どんな顔で何を話す男なのかさえ分からなかった。


 画面に事件現場が映った。規制線の向こうに警察車両が停まり、警察官と報道陣が行き交っている。昼間、榊が電話を受けた時には見えなかった場所だった。


 ここで撃たれたのかと思った。自分たちが事務所にいた間に、同じ大阪の道で、あの男は倒れていた。


「龍司」


 水谷に呼ばれ、顔を向けた。水谷はテレビを見たままだった。


「しばらく一人で動くな」


 龍司は少し黙った。本家の若頭が殺されたことと、自分が神楽町を一人で歩くことが、すぐにはつながらなかった。


「そこまでなりますか」


「なるかもしれんから言うとんねん」


 水谷がようやくこちらを見た。大げさに脅している顔ではなかった。誰がやったのか分からず、どこまで話が広がるのかも分からない。その間は、一人で動くなと言っていた。


「……分かりました」


 龍司はテレビへ目を戻した。画面の下に、武藤和正の名前が出ている。


 十二社会も、本家の跡目も、今までは上の人間が話すことだった。片岡と揉めた時には、その話へ手を出すなと榊に止められた。今度は何もしていないのに、自分が歩く時のことまで変わろうとしていた。


 隣の相沢も黙っていた。煙草の煙だけが、二人の前を上がっていった。


◇◇◇


 八月八日の朝、本家へかかってくる電話には、昨日と違う問いが混じり始めた。誰がやったのか。何か分かったのか。答えを求めているうちに、聞いた話を確かめる電話も増えていった。


 十二社会ちゃうか。


 最初は、その程度の話だった。武藤が止めに回っていた相手だから、その中に犯人がいるのではないか。口にした者も、確かな根拠を持っていたわけではなかった。


 昼前には、少し変わった。


 十二社会の中でも、武藤を邪魔に思っとった奴がおるらしい。


 誰から聞いたのかを尋ねると、別の組の名前が出た。そちらへ聞けば、また別の男から聞いたという。どこまで戻っても、見たという者には行き当たらなかった。


 それでも話は止まらず、昼を過ぎる頃には、最後まで武藤へ反発していた強硬派の仕業だという言い方になっていた。


 そこへ、岩城宗次の名前が混じった。


 二代目鬼塚組組長。十二社会に属する武闘派で、武藤と対立していた男だった。十二社会が本家の改革案を受け、再び本家の下でまとまっていくことに、不満を持つ理由はあると受け取られた。


 武藤と対立していた。その事実を知る人間が、岩城の名を聞いて頷いた。頷く者がいると、話した側も、やはりそうなのかと思った。


 夕方には、岩城は武藤を相当恨んでいたらしいという話になった。夜には、岩城が殺らせたらしいと口にする者がいた。


 命令を聞いた者はいなかった。銃を渡したところを見た者も、撃った男と会っていたという者もいない。それでも、誰がやったのかと尋ねられるたび、分からないという答えの代わりに、一人の名前が返るようになっていた。


◇◇◇


 黒崎獅童の部屋へ入った黒田家信は、机の前まで来て足を止めた。黒崎は開いた書類へ目を通し、頁の下へ指を置いていた。


「岩城の名前、だいぶ回ってます」


「そうですか」


 黒崎は顔を上げなかった。黒田は手元の書類を一度見てから、続けた。


「兵頭組にも入ったみたいです」


 頁をめくろうとしていた手が止まった。黒崎は少し顔を上げたが、黒田へ何かを尋ねることはなかった。


「それは困りましたね」


 黒田は黙っていた。兵頭組がどう受け取るのかは、想像できた。親父を殺された翌日に、その相手だという名前を聞かされて、確かめ終わるまで静かに待てる者ばかりではない。


「噂というのは怖いものです」


「……はい」


「誰が言い始めたのかも分からないのに、いつの間にか皆が信じている」


 黒崎は書類へ目を戻した。黒田は、その横顔を見ていた。


 昨日、武藤の死を知らせた時も、この男は同じ机に向かっていた。まさかと口にした黒田へ、何の話ですと尋ねた。それ以上は聞けず、黒崎から説明されることもなかった。


 一日が経ち、今度は岩城の名前が走っている。黒田が持ってきた話にも、その出所を示すものはなかった。黒崎は続きを求めず、黒田も、それ以上は何も言わなかった。


◇◇◇


 兵頭組では、久世征一郎が奥の部屋へ入っていた。東堂との話は途切れがちで、廊下を通る者がそのたびに声を落とした。事務所に戻った組員たちも、昼からほとんど残っていた。


 玄関から入ってきた若い衆が、近くの男へ何かを話した。その声を聞いた滝川が顔を向けた。


「岩城らしいです」


「何がや」


 若い衆は滝川の方へ向き直った。


「親父殺ったん……岩城らしいです」


 近くにいた者たちが、話をやめた。滝川は若い衆の前へ寄り、その顔を見た。


「どこから聞いた」


「みんな言うてます」


「みんなて誰や」


 若い衆は口を開きかけ、閉じた。自分に話した男の名前なら言えた。だが、その男が何を知っているのかまでは、聞いていなかった。


 滝川は返事を待った。若い衆が答える前に、横から声が上がった。


「岩城か」


「やっぱり十二社会やないか」


 椅子を引く音がした。誰かが立つと、その隣の男も立った。昨日から行き先のなかった怒りに、ようやく名前がついた。


「殺しに行ったろや」


「車出せ」


 一人が机の端の鍵を掴んだ。玄関へ向こうとしたところで、奥から東堂の声が飛んだ。


「待て!」


 東堂が部屋から出てきた。集まっていた者たちを見渡し、鍵を持った若い衆へ目を止めた。


「誰も動くな!」


「カシラ!」


「証拠あんのか!」


 答える者はいなかった。だが、黙って座り直す者もいなかった。東堂の前へ、一人の男が出た。


「親父殺られとんねんぞ!」


「せやから言うとんねん!」


 東堂が机を叩いた。灰皿が鳴り、男の口が閉じた。


「違う奴殺したらどないすんねん!」


 鍵を握っていた若い衆が手元へ目を落とした。東堂は、その手が緩むのを見た。だが、周りに立った男たちの顔は変わらなかった。


 滝川が前へ出た。


「カシラ。いつまで待つねん」


「滝川」


「親父殺られて、ウチが黙っとったら何言われる思てんねん」


 後ろで何人かが頷いた。親を殺されても動かない組だと言われれば、これまで兵頭組の名前で収まっていた話も、同じようにはいかなくなる。シマでもシノギでも、それを見て態度を変える人間はいる。


 滝川は東堂から目を逸らさなかった。


「ワシら兵頭組やぞ」


 声を落とした。その方が、周りにもよく聞こえた。


「親父殺られて、犯人かもしれん奴の名前まで出とる。それでも指くわえて待っとれ言うんか」


 東堂は答えなかった。岩城が殺したと分かったのなら、滝川に言われるまでもなかった。自分も、今すぐにここを出たいと思っていた。


 だが、今、目の前へあるのは、みんなが言っているという話だけだった。誰が最初に言い、何を確かめたのかも分からない。それを理由に行けとは言えなかった。


「仇討つなとは言うてへん」


 奥の戸口に、久世が立っていた。東堂の声を聞き、部屋から出てきていた。事務所の視線が集まっても、久世は滝川を見ていた。


「相手間違えんな言うとんねん」


 滝川は顔を向けた。すぐには頭を下げず、久世の目を見返した。


「岩城やなかったら、誰なんです?」


「それを今から調べるんやろが」


「調べとる間に逃げられたら?」


 久世は少し黙った。武藤が死んだことも、殺した男がまだどこかにいることも、滝川と同じように腹の底へあった。落ち着けとだけ言って済ませられる話ではなかった。


「殺ったんが岩城やったら、ワシかて止めへん」


 滝川の後ろで動いていた男が、足を止めた。久世は声を張らずに続けた。


「せやけど違う奴殺してみい」


 鍵を持った若い衆も、久世を見た。


「武藤に何て言うねん」


 滝川の口が閉じた。東堂も何も言わなかった。昨日から何度も口にしていた親父という言葉が、その場では誰からも出てこなかった。


 久世は滝川を見ていた。滝川も目を逸らさなかったが、言い返しはしなかった。怒りが消えたわけではない。握っていた手は、そのままだった。


 東堂が周りの組員へ顔を向けた。


「今日は誰も手ぇ出すな」


 玄関へ向きかけていた者たちが、東堂を見た。それから東堂は、滝川へ目を戻した。


「……見るだけや」


 滝川は数秒、黙っていた。東堂の顔を確かめ、やがて後ろを振り返った。


「おい」


 若い衆が背筋を伸ばした。


「車出せ」


 鍵を握った手が動いた。今度は、東堂も止めなかった。


 玄関から人が出ていき、外で車の扉が開いた。一台が動き、その後ろへ二台目が続いた。三台目が道へ出るまで、事務所の中にいる者たちは、その音を聞いていた。


 向かう先は、岩城宗次の二代目鬼塚組だった。


 まだ、誰も撃ってはいない。岩城が武藤を殺したという証拠も、一つとしてなかった。それでも、武藤の死から一日で、兵頭組の車は、同じ天龍の代紋を掲げる組へ向かっていた。



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